新其の17
 組手について考える~実戦という名の妄想

 極真空手は「地上最強の空手」、「実戦ケンカ空手」などいわれていたのはもう半世紀前のことでしょうか。極真空手に限らず、空手は凶器、黒帯になったら警察に登録されるなどと怪しげな情報が信じられていました。どれもが「空手って凄いんだぞ」という意味のセールスコピーだったと思います。しかし、血気盛んな昭和の若者たちは、大いに空手に憧れ、とりあえずかじったものでした。私もその頃舞い上がって空手を始めた血の気の多い子どもの一人ですから。おそらく、柔道や剣道に遅れて普及し始めた空手の存在感を示すためにはあの手この手のイメージづくりがあったのでしょう。特に柔道にとっては似たような道着でシェアを奪われたら叶わないので、「柔道は正義、空手は悪」といったイメージづくりで対抗したようです。昭和初期の小説や映画では、「落ちぶれたやくざの用心棒の空手使い」といった役柄が多かったようです。不健康そうなボサボサ髪の空手使いが怪しげな呼吸法でクネクネと手首を回して威嚇する姿がなんともコミカルで、正義の柔道家に投げ飛ばされて終わりというところですかね。
 そのようなイメージを変えていったのが先日お亡くなりになった千葉真一さんでした。千葉さんは、極真会館に籍を置き、実際に空手を修行し空手をアクションに取り入れました。はじめはやくざ映画のなかで派手な立ち回りを演じて空手の強さをアピールしましたが、やがて、正義の味方の刑事役などで活躍し、空手は正義の味方としてのイメージに切り替えていきました。また、大山倍達総裁をモデルにした映画にも出演し、極真空手のイメージづくりにも大きく貢献してくれました。さらに、若手アクション俳優の育成のためにジャパンアクションクラブを設立し、真田広之さんなどのトップスターも育て上げました。私たちにとっては恩人といっても過言ではありません。
 こんなおまけの話があります。第14回の全日本大会のときに、大会の会場に来ていた千葉さんが大会に出場した私を見て、盧山館長に私をジャパンアクションクラブにほしいと言ってくれたそうです。その時盧山館長は、「こいつはまだ修行中だからだめだ」と言って断っておいたからとあとで聞かされました。ちょっと残念な気もしましたが、今思えば、どうせ悪役か殺され役専門だったでしょうから断ってもらってよかったと感謝しています。
 さて、空手と実戦の話に戻ります。映画の中では、刃物やピストルを持った相手に素手で立ち向かっていく、大勢を相手にたった一人で戦うという場面が多く、やっぱり「実戦となったら空手だなあ」というイメージがありました。しかし実際は、そんなナイフを相手に立ち回りをしたり、何人もの相手と戦ったりというような稽古は普段の道場ではやりませんよね。よく護身術で武器を持った相手の対処法などが紹介されていますが、武器を専門に練習している人間から見たら話にならないようなものばかりですよね。かえってそんな方法で戦えると思われたら、それこそ「生兵法は大怪我の元」になってしまいます。
では、それは不可能なことなのか?というとそうは思いません。稽古内容と経験によって可能なことだと信じています。実際に中村日出夫先生や、沢井健一先生、塩川寶祥先生など戦争を経験し、戦後のどさくさで実際に腕を振るった先生方がいたわけですから。盧山道場の内弟子時代には常に稽古の指針がそこにありました。十字形で体捌き、ナイファンチンで接近戦の爆発力といった稽古を中心に、徹頭徹尾技と身体を鍛練するという内容でした。喉の攻め方などかなりやりましたね。十字形の稽古のあとの組手 では、2対1はよくやりました。左右、前後の相手をどうするかと言うことは、足捌きと注意力が実は磨かれます。ところが、それが5人以上とか10人にもなると話が別です。盧山道場時代の夏のある稽古の時でした。全員上半身裸になり、自分などが前に出され、10人くらいの後輩と1分間戦わされるのです。私が1分間「まいった」しなければ私の勝ちというルールです。とりあえず頭部への攻撃と金的だけは反則です。私は、すぐさま「脱走」を考えました。当時の盧山道場は地下でしたので、出口は1つです。全力でダッシュしてここを突破すれば私の勝ちになります。盧山館長の「はじめ」の合図で私はフェイントをかけて全力で駆け出しました。行く手を阻もうとする相手をなぎ倒し、あと少しというところでタックルされて倒されました。そこに次々と汗まみれの男たちが乗りあがり、私はつぶされると思いました。そして、中央に引きずり出され、両手両足を押さえられ、嬉しそうな顔をした後輩に首を絞められ、あとはパタパタでしたね。実戦なんてこんなもんですよ。体捌きとは簡単に言いますが、そんなに甘いものではありませんね。他の黒帯も全員玉砕しました。これで相手が武器なんて持っていたら何秒生きていられるかでしょうね。戦国時代に無傷で戦った武将はいったいどう戦ったのでしょうか。三国志の趙雲なんかに聞いてみたいですね。
 さて、空手の世界では、実際に相手と技を出し合う稽古を組手と言いますが、これはルールがどうあれ、とても大事な稽古だと思います。「型で身に付けた技を手という。お互いの手を組むことを組手という。」と教わりました。いくら型を熱心に行っても、あれこれと説明を聞いても、実際に自由に技を出し合ってみなければスピードやタイミング、最も大事な距離感はわからないですよね。さらに、実際に当てることで叩かれる衝撃と叩いた方の衝撃が理解できるのです。
 以前、先生方の生活指導の研修会で指導したときに、「ビンタ体験」を行ったことがあります。実際に叩くことはできないので、2人1組で片方が掌を顔の前に立て、片方がそこにビンタを張ってみるというものでした。結果はどうだったでしょうか。まず距離感がないので当たらないですね。当たっても指先だけとかポイントを外してしまいます。これだから鼓膜を割ったり、目に怪我をさせたりしてしまうのですね。まあビンタの練習などしたことはないでしょうし、人の顔なんて殴ったことがないので、叩けないのは当然です。結局、「叩くことはよくないが、叩けないのだからやらないこと。」という結論で指導をしめくくりました。盧山道場では、いつも稽古の最後に2人1組でビンタの張り合いをしていましたので、私は今でもビンタには自信があります。
 組手が大事なことはわかりましたね。しかし、ただ何のルールも決めずにやることは危険だし長く続きません。昔の盧山道場でも顔面掌底ありでしたが、鼻血はよく出ました。そのうち、前の手でストレートに顔面に当てる稽古が効果的であることがわかり、いくつかの道場が積極的に行ったところ、相手の歯が折れるということが続出するようになりました。その攻撃になれていない道場生は、審査会でバンバン入れられてしまい、危険な状態にもなっていったのです。現在では顔面攻撃は行っていないようですが、その当時の経験のない者が安易に「顔面攻撃」といっているのは心配ですね。また、私の担当していた川越道場では稽古が終わるとスーパーセーフをつけて私が希望者全員と組手をしていました。頭突きや肘打ちも有りでしたので接近戦での攻防はだいぶ研究しましたね。ここでナイファンチンの稽古が役に立っています。ただ、肘打ちで相手を前に引き倒して背中を打つという観空の型に出てくる動作が結構好きでよく決まったのですが、そのうち相手の肩甲骨を折ってしまうという事故が起こり、この技は禁止となりました。ビンタとは逆にこういう技は下手なうちはいいのですが、決まり始まると危険ですね。
 これまでの内容をまとめますが、空手は、ルールはさておき、子どもから大人まで多くの人が学ぶ武道となってきました。特に子どもが増えているということは、より公平性・安全性が求められるということです。昔はこうだったという屁理屈は通用しません。
 したがって、かつての盧山道場のような組手の稽古は、現在では普及しづらいということですね。ルールがある以上、勝つためにはルールに沿った稽古が最も有効です。つかみや投げが禁止なのにつかみや投げの稽古を行っても時間の無駄ですし、試合の結果には繋がりません。今時路上のケンカも滅多に
ないですから、柔道家と戦う機会もないでしょう。顔面を意識してといっても、顔面攻撃が反則である以上、そこにかける労力は無駄ですし、逆に顔面攻撃ができないことを利用した戦い方をするほうがお得です。以前なんでも「大会で証明しろ」という師範がいました。でも裏拳顔面攻撃と金的蹴りが得意な選手が出てきたら、顔面ガラ空きで金的がスキだらけの選手にメタメタにやられてしまうでしょうね。かつてある全日本大会でムエタイの選手が出ていました。顔面ダメ、肘打ちダメ、首相撲ダメという状態で4回戦まで勝ち上がりました。ミドルキックの切れとハイキックとの組合せが凄かったですね。しかし、極真空手ムエタイを破るというニュースになっていました。これもどうかなあ。いわゆる「ルール上の強さに過信するな」ということです。ルール上の強さはルール上の強さでしかないということなのです。たとえば、顔面攻撃や肘打ちが加われば、ムエタイ経験者が一気に強くなるでしょうし、投げや寝技が加われば柔道やレスリング経験者には子ども扱いになるでしょう。私は色帯の頃代々木でレスリングの金メダリストに相手をしたもらったことがありますが、たとえ色帯であってもまったく相手にならなかったです。首根っこを捕まれてどっちを向いているかわからないほど振り回されてしまいました。その後私は柔道もやりましたが、強い奴は強いですよ。
 大会で勝つということはたいへんなことです。体も心も鍛えに鍛えなければ勝つことはできません。特に極真空手の試合はあらゆる能力を駆使しなければならないので、生半可な練習ではダメですね。これについては誰もが異論のないところだと思います。ただし、そこに「最強」とか「実戦」とかいうことばを安易にかぶせてしまうことは「どうかな?」ということを書いたつもりです。
 私は、ルールはルールとしてそこで頑張る世界でいいと思っています。「実戦」というならばその稽古をすればよいだけです。目突きが空手の実戦技だというならば目突きを徹底的に稽古すればいいだけです。やりもしないで「実際はこうだ」「実戦はこうだ」という名人にはなりたくありません。昔の先輩で本当に目突きを稽古していた方がいて、ボウリング場でケンカになったときに思い切り相手の目を突いたのですが、相手がめがねをかけていたので中指の第2関節が脱臼してしまった話をしてくれました。「カッとなって目を狙ったが、もし相手の目をつぶしていたらたいへんだった。自分が脱臼してよかったかもな。」と笑って話してくれました。その先輩とは手裏剣の稽古で群馬県の山に籠もったこともあります。私が19歳の頃かなあ。何でも口先だけでなく徹底してできるまでやるという先輩でした。昔はこんな話がたくさんありました。
 「実戦」という世界は、現代では妄想の世界となっています。ただ、こだわりがあるならばとことん理屈抜きに修練してみるのも有りの世界ですね。競技とは違ったやり甲斐を見つけられるかも知れません。
(R3.9.17)

新其の16
 型について考える

  今年の夏は「東京オリンピック・パラリンピック」にたくさんの元気をいただきました。やっぱりオリンピックはすごいですね。コロナ禍で不自由な練習だったにも関わらず、素晴らしい結果を残したすべての選手に「アッパレ」を送りたいですね。
 その中で、空手競技が初めて行われました。準備段階ではフルコンタクトルールも候補にあがっており、多くの関係者も尽力していたところでしたが、残念ながら1部の団体によるオリンピック参加となりました。何とか男子型競技が金メダルということでよかったと思います。組手は大きく水をあけられているので仕方ないでしょう。ただ知らない人から見れば空手は空手なので何かなあという気持ちもあります。どの選手も国の代表として頑張ったので、その点についてはご苦労様でしたという気持ちです。
 現代は空手も競技としてスポーツ化しています。普及のためには仕方のないところだと思いますが、柔道や剣道のように、競技ありきで再編された武道ではなく、昔からの技術を「型」という様式で残してしまっているところが空手の難しいところでしょう。組手については別な稿で述べるとしますが、ここでは「型」について考えてみたいと思います。
 オリンピックでは、日本とスペインの決勝争いでどちらも素晴らしい演武だったと思います。どの選手も相当な練習を積み重ねてきたのでしょう。
 ただ、私たちの目指す型とは「違う」ということは正しく認識しなければなりません。
 「ルールが違えば型は変わる」とでもいいましょうか、組手でも当てるか当てないかで違いますし、顔面のあるなしでも違います。型においてもどこにねらいを定めるかでその頂点が違ってくるのです。
 「型」については、はっきり言ってどこの団体でも原型を残していることはありません。伝承の過程で技が変わってしまったり、意味がわからなくなったりしています。その理由は大会や審査など客観的な目に触れる場もあまりなく、個別に伝えられていることや、秘密主義によりすべてを学ばずに伝承してしまっていることが多々あるからだと思います。また、自分の流儀を興すことが多くなり、他との差別化を図るための改変もあったでしょう。ですから、「伝統型」といっても100年もの差はないでしょうし、中興の祖といわれる糸洲安恒先生がかなりの伝統型を簡素化しています。那覇手においても宮城長順先生の手がだいぶ入りましたので、先代の東恩納寛量先生の動きとは大きく変わっています。このようなことから「伝統型」「古流型」という表現は、実際たいした意味をなさないものと考えています。ただ、古い型には現代では使用されないような技術が多く見られますが、実際のルールのない戦いで有効な技だったのでしょう。実際に人の命を奪うほどの戦いの技術に対して、現代の私たちが「使える」「使えない」という議論をすることなどおこがましいですよね。私は、昔の技は素直に学ぶべきだと思います。ところが、今の戦いでは必要ないからという理由で、型から削除された技がたくさんあることは残念です。「隠し技」という名目で、表面には表れない技術もありますが、これこそ秘密主義のために多くが失伝していることでしょう。私もいろいろ教わりましたが、その多くは「他には教えるな」と釘を刺されていますので残念ですが公開できません。

 「ルールが違えば型は変わる」の話に戻りたいと思います。私は「型は発力の集合体」であると考えています。発力とは、中国拳法の用語で、身体の機能を有効に使い、爆発的な力を発することで、発勁ともいわれています。盧山館長に学べば自然にそのような考えになると思いますが、外形も分解も訓練のための方便にしか過ぎないと思っています。もちろんの実用のための動作を組み合わせて作られているのが型ですから、それぞれの技の意味はもちろんあるでしょうし、整った動作だからこそ正しく発力ができるのです。そのように考えると、型の重要な要素としては、まず発力に必要な身体の動き、力の伝導が重要になります。より大きな爆発力を生み出すためには、多くの関節とそれに付随する筋肉を有効に稼働することが大切です。一つ一つの関節を点とし、その動きを連動させることにより生じる線を私たちは「運動線」と呼んでいます。この運動線を作り上げることが極真館の目的だとすると、オリンピックのように「極め」を重視する型とは自ずと違いが表れてくることはおわかりでしょう。型は鋳型に自分の身体をはめ込むように稽古するともいわれ、決まった動作を正確に行うことが要求されます。ですから一つ一つの動作を正しく決めることは初期の目的としては正しいと思います。しかし、大切なことは決めるまでの過程です。瞬間的な動きになるとは思いますが、その一瞬の力の伝導が大切なのです。
 ところが、いろいろな型競技を見ると、素晴らしい形や迫力を見ることはできるのですが、「運動線」という立ち位置から見ると、言い方はよくないのですが、「死に体の集合体」になっているのです。さらに、見た目の「極め」のために、余計な動作を加えたり、動きにくい動作を省略したりという型も見かけます。人気のあるチャタンヤラクーサンクーやアーナンなど、実際の型と競技用の型と区別しているという話も聞いています。私はどちらも学んだことがありますが、特にチャタンヤラクーサンクーは両方教えていただきました。確かに見た目のよくない動作や発力の難しい動作などはなくなっていましたね。古い型は、発力の鍛錬要素が多く、難しい動きですが見た目も格好よくはありませんね。でも私は古い型を好んで稽古しています。
 分解については、「技の組み立てを学ぶための方便」と教えています。ここの不理解が「型どおりに戦えない」という考えを生んでしまうのでしょう。いわゆる原理原則を学ぶことが目的なので、どう使うかはとっさの判断というか、自然に出る動きなのだと思います。沢井健一先生は「有形無形」という教えを残しました。「有形より入り、無形に至る」ということですが、型は厳格に学び、それを使うときには原理原則に従うのみで、そこに固定した型はなくなるということなのです。一般的な「分解」は、型の動作のこじつけに過ぎませんが、それを徹底して繰り返すことで原理原則が見えてきます。したがって、知っている程度の理解なら役に立ちませんが、徹底的に繰り返すことを目的とした分解ならこれに勝る稽古方法もないということです。原理原作は日本古武道では「法」という言い方をしますが、組んで行う剣術形などは分解稽古の最たるものでしょう。空手も元々は組んで行う分解稽古が主であり、その次の段階として単独練習のための型が生まれたかも知れませんね。
 今回は、多少専門的にくどい内容でしたが、どうせやるなら武術的に効果の高い型の稽古をしたいものです。(R3.9.17)

新其の15
 命の恩人
 
 一昨日、石川アスレティッククラブの会長であり、私のウエイトトレーニングの師匠である生田目八十明先生の葬儀に参列しました。しばらくそのジムを遠ざかっていましたので、葬儀では、20年ぶりくらいの仲間たちと会うことができました。悲しい場ではありましたが、先生のおかげで懐かしい人たちと久々に話をすることができました。皆当時の厳しいトレーニングと楽しいジムの思い出ばかりでした。
 生田目八十明先生は、盧山館長と同い年で、若いときには東京で働き、当時日本ボディビルの重鎮であった遠藤光男氏のダイナミックジムで修行し、ウエイトトレーニングの神髄を究めたといっても過言ではありません。やがて福島に戻り、薬局を営みながら、自宅にジムを開設しました。はじめは地元の若者たちに「お師匠さん」と呼ばれながら、バーベルを使った体づくりを指導していました。とはいっても、腕立て伏せが50回できなければ入門させないなど、今では考えられないほど敷居の高いジムでした。生田目先生は、積極的にボディビルやパワーリフティングの普及に努め、福島県内各地のジムと協力して組織を作り、はじめてのパワーリフティング大会やボディビルの大会の開催に尽力しました。先生自身も選手として出場し、パワーリフティングでは優勝はもちろん、その記録はしばらく破られることはありませんでした。
 私が生田目先生のジムに入門したのは、第2回福島県パワーリフティング大会の後だったかと思います。6年間の盧山道場での内弟子生活を終えて、福島の中学校に採用され戻ってきた年の終わり頃でした。その頃の私は、仕事の忙しさに追われ、稽古はもちろん道場にもなかなか行けずに、焦っていました。内弟子時代は、1日8時間ほどの稽古を毎日行っており、われながら厳しさに耐えたものと思っていたところ、社会人になったら、そんなプライドはどこかに吹き飛んでしまいました。これまでの稽古で積み上げたものが、わずか数ヶ月でどこかに行ってしまったようでした。「あんなに鍛えたのに」と自分がどうにも情けなくなってしまいました。そんなある日のことでした。同僚から、「近くにいいジムがあるけどいかないか」と誘われたのです。「どうせ田舎のジムなんて」と私は甘く見ていましたが、実際行ってみたら、そんないい加減な気持ちはどこかに行ってしまいました。腕立てをやって、ダンベルカール50回が最初の種目、それができてからいよいよトレーニングでした。「どこかでやったことあるのかな」「では好きなようにやってみて」といわれ、勝手にいろいろとやってみました。当時のウエイト器具のブランドNEのバーベルで、とりあえずいろいろとやりました。盧山道場時代は、週1回だけジムに通っており、ペンチプレスで100キロ、スクワットで140キロを挙げていました。後は高回数の自重で行う補強でした。先生は「ふ~ん」というだけで、何も教えてくれませんでした。私は、そんなに教わらなくとも、そこそこできると思っていましたので、とりあえず身体を鍛えるつもりでそのジムに通いました。
 そんなある日のことでした。そのジムでは、トレーニングの後、先生の自宅で古い先輩たちがあがり込んで酒盛りをするのが日課のようでした。わたしは、先輩から「ちょっと付き合え」と誘われて、先生の自宅にあがり込み、いつもの酒の席に加えていただきました。そこで先生から「東京でやってきたということだがあんなもんかい」「基本がなってねえな」「一からやり直す気が無いんならやめてもらおう」というような話になっていったのです。私は「あれれ」という感じでした。「器具を使わせてもらっている」程度の考えだったのですが、それは、このジムにとってとても失礼なことだったのです。ここは、いわゆる「ジム」なのではなく、「バーベル道場」なのでした。したがってコーチと会員ではなく「師匠」と「弟子」という関係にならなければいけないのでした。私はそこで自己流の甘さや危険さ、バーベルへの神聖な思いを語られているうちに、「こりゃ本気でやらなければならないな」と覚悟を決めたのでした。私は思わず「一からやり直します。よろしくお願いします。」と頭を下げて弟子入りしてしまいました。高校1年の時に、盧山館長に「今まで習ったことを全部捨てて一からやり直せ」といわれたことを思い出しました。次の日から、基本の動作からやり直しです。ベンチプレスも40キロから始めました。基本のフォームを徹底的に直されました。当時は、アーノルド・シュワルツェネッガー全盛の頃で、高重量、高回数の時代でした。「パンピング・アイアン」など何回見せられたかわかりません。ジムには週4回行きました。約2時間のトレーニングでしたが、ジムに砂袋も置いてくださり、合わせて3時間は入り浸りでした。
なかなか道場に行くことができずに、死んだようになっていた私に「バーベル道」を通して新たな命を与えてくれた生田目先生は、まさに「命の恩人」であったと思います。先生の指導は、とにかく厳しいものでした。「鉄の塊に挑む」、こんな気迫を要求されました。しかし、『正確なフォームと集中力によって、絶対に怪我をすることがない。』これが生田目流鍛錬の神髄でした。これは、その後の私の指導における最も重要な考え方となっています。ただでさえ怪我に泣いた私にとって、天の啓示のような教えでした。
 生田目先生は、私にウエイトトレーニングの指導だけではなく、私が空手をやれるように協力してくれるようになりました。「沢田地区の子どもたちに空手を教えてやってほしい」と頼まれ、同好会を始めることになりました。その時の子どもは8名でした。稽古場所は小さな公民館の板の間でしたが、現在の極真館石川道場の始まりです。やがてその道場からは、県大会、関東大会、全日本、世界大会と次々とチャンピオンが生まれました。私が福島県支部長になった時は、生田目先生は後援会を立ち上げてくださり、第1回の福島県大会の開催にも尽力してくださいました。現在の私や福島県支部があるのは、まさに生田目先生のおかげであるといっても過言ではありません。先生は、自分のことよりも、ジムに通う弟子たちのためになることをいつも考えていました。先生のおかげで、私は日本ボディビル連盟の公認指導員の資格も取ることができましたし、他の会員も審判員の資格など取らせていただいたようです。「こんな田舎にも本物がある」という先生のこだわりであったのでしょう。私もこの考えに共感し、努力精進することができました。生田目先生には本当に感謝しています。
 その後、転勤族の私は、なかなかジムの時間に間に合わなくなり、少しずつ遠ざかってしまいました。先生のジムが8時で締めるようになったのです。以前は10時頃までやっていたのですが、それは私たちの甘えだったかも知れません。私は、自宅に道場を作ったことから、自宅でトレーニングをするようになり、何とか続けていましたが、勤め先の近くのジムに通うようになってから、そちらでトレーニングを行うようになってしまいました。そこのコーチとも昵懇になり、週2日パーソナルで見てくれていますので、また妥協のないトレーニングが戻ってきました。
 生田目先生には、毎年暮れには自宅にご挨拶に伺っていました。薬局を店じまいしてからは、自宅でマッサージを生業にしていましたが、最近になって病におかされ、残念ながら帰らぬ人となりました。昨年暮れにご挨拶に伺ったときにトレーニングの話になり、「70歳を過ぎると、突然トレーニング中に骨が折れるから気をつけなさい」といわれたことが忘れられません。「トレーニングを一生懸命やるのはいいが、怪我をするなよ」という最後の教えであったように思います。先生は、いつも私たちに「丸にキ(キチガイのこと)がつく」ほどトレーニングしろと仰っていました。その一言一言が私の財産となっています。生田目八十明先生のご冥福をお祈りいたします。(R2 7 13)

新其の14
 小さな正義感

 「正義には大きいも小さいもない!」と踊る大捜査線の青島君に叱られそうです。それはその通りなのですが、ちょっとものは考えようということで書いてみました。
 正しいことは正しい、細かくとも正しくやるべきだと思います。昨年ある駅伝競技大会でタスキの受け渡しで失格したある学校が、「教育的配慮」という訳のわからない理屈を持ち出して、失格にした審判や役員にとんでもないクレームをつけてきました。人情的にはわからないわけではありませんが、県大会の出場権を争う大会でしたので、その学校は出場権がかかっていたのです。しかし、それを許したら選考から漏れてしまう学校が出てくるのですから、そちらの方が大騒ぎをしたことでしょう。競技役員の側では「ルール通り」ということで突っぱねました。
 昔私が柔道の指導者だった頃、ある公式の大会で、試合前の軽量の時に体重オーバーが何人もいて、失格が出ることは教育上よろしくないという意見が出て、500グラムオーバーまでは教育的配慮でいいだろうということになりかけました。その時私は「ちょっと待った!」ときりだして、この500グラムを絞りきることも勝負の内ではないかと反論したのです。ほとんどの役員は、今までもそうだったとして、「まあまあ」となりそうでしたが、私は、計画的に選手たちの食事の管理をして、しっかりと体重コントロールをしてきました。中には絞りきれなくて、早朝から鬼の減量サーキットでしっかりと体重を落として軽量に臨んだ生徒もいたのです。たかが500グラムというけれども、減量は、たいへんな体力の消耗をするために格闘技の世界では簡単なことではないのです。減量の経験がある人はわかりますが、明らかに筋力に差が出ますので、減量を怠けた方が力の面で絶対に有利になってしまうのです。私は、苦労してルールを守って減量した選手のために、一歩も退かず教育的配慮を退けました。「なんて自分勝手な監督だ」と偉そうな柔道専門家たちににらまれたものでした。私を信じて計画的に体を作ってきた選手たちが頑張り、その大会は優勝することができました。
 ルールを守る事も正義ですし、教育的配慮も一面では正義でしょう。私は、競技についてはルールが絶対的なものとは思いますが、他の部分ではそれなりの忖度が必要となるかもしれないと思っています。急に話がゆるくなりますが、やって悪いことと責任の追求についてです。内容にもよりますが、間違いや失敗を指摘して、その責任を追求するという場面をテレビなどでもよく見かけます。「失敗」⇒「責任追及」⇒「謝罪」⇒「辞める」という流れになりますが、辞めた後はどうなるのでしょう。代わりの人がいればよいですが、いなかった場合、責任を追及して辞めるまで追い込んだ人の責任はないのでしょうか。だれもが「やめるカード」を持っています。だれかが正義を貫くことで、追い込まれた人が「やめるカード」使ってしまったときに、正義を貫いた人は「自分は正しい」といって終わってしまうのでしょうか。
 ある絵画クラブがあります。そこの会長は無責任で、事務局がいつも困っています。聞いてみると確かにその会長は無責任でよくありません。事務局や会員たちはいつも不満を漏らしています。ある日「許せない」というところまで話が進んでしまいました。皆で会長に責任を追及するという話を聞かされましたが、そこで私は「その人が責任をとって辞めるといったらどうするの?」というと、「そんなことはない。代わりの人はいないのだから。」といわれました。しかし、その会長が「やってられねえ!」と「やめるカード」を使ってしまったら実際のところそのクラブはどうなるのでしょう。おそらくそのクラブは解散することになるでしょう。みんながやりたがらない会長でいてくれる人材を失わないような手だても必要だったのではないでしょうか。その後絵画クラブがどうなったかわかりませんが、まだ続いているようなので、なんとかなっているのでしょう。この話は、問題があっても見て見ぬふりをしてうやむやにするといことではありません。長い目で見て挽回のチャンスを考えて対処するということも時と場合によっては必要なことであると言いたいのです。昔の戦でも総攻撃の際に必ずひと隅(すみ)を空けておくといわれました。完全に包囲してしまうと命がけで反撃してくるため、勝っても損害が大きくなるからです。いわゆる退路を空けておくことで、敵に負けやすくするのです。戊辰戦争の江戸無血開城の時にも、官軍は千葉方面に退路を確保してくれました。このために、江戸が戦火から救われたといわれています。坂本龍馬は、ある本の中で「大きな正義」ということをいいました。うーん落ちがつかない文章になってしまったが、戦国の覇者たちは、大きな正義のために小さな正義は踏みつぶしていくとういう話もあります。ここではそういうことを書こうとしたわけではありません。 (H31 2 21)

新其の13
 なれてますから

 働き方改革とかいって、何でもかんでも簡略化しようとする動きがあります。私の業界では、仕事の量が減っているわけではありませんので、どこかを簡略化するとどこかにしわ寄せが行くようになるのです。まあ次から次と「何で俺ばっかり」といいたくなるくらい仕事が回ってきます。普段部下には「ハイ喜んで」と引き受けるように指導しているので、いやな態度をとるわけにはいきません。頼む人間はいつも勝手です。「あなたはやれちゃう人だから」「仕事ができるってことですよ」なんて心にもないお世辞をいって押しつけてくるのです。そんなことなら給料上げてくれよと言いたいですね。この3月からは、空手の行事に参加する以外は、すべての土日が出勤でした。
 このような仕打ちは今に始まったことではないのですが、ではいったいいつ頃からと考えてみました。中学時代、よく先生に呼び出された私は、学級で起こっている問題などの話を聞かされたものです。そして「おまえどう考える」と言われ、いろいろいと思うところ聞かれました。そこで私の悪い癖で、面倒くさくなると「やっときますよ」と言ってしまうのです。ですからいつも忙しい中学時代でした。別に真面目で立派な人間であったわけではなく、「断り下手」というところですかね。
 「慣れてますから」と私は引き受けるときに言うようにしています。「ハイ喜んで」と言うのも何だし、「またですか」というのもいやなので、「慣れてますから」と答えるようにしているのです。この言葉は、朝日新聞の「折々のことば」というコラムから拾ったことばですが、私の場合にちょうどよいと思い拝借しています。
日本人の特質に「慣れる」というのがあると思っています。歴史を振り返ってもわかるように、どんなに苦しい時代でも、戦乱があっても、支配者が変わっても、いつか「慣れてしまう」のです。そして、それは決して消極的なものではなく、どんな時でも「慣れ」によって乗り越えて、自分のよりよい暮らしを作り上げてきました。それは一代で叶わなかったときもあるでしょう。何代にもわたって耐え続けたときもあるのだと思います。司馬遼太郎さんは、日本人を「草の民」と表現したことがあります。どんな時代でも、土がある限り、繰り返し生えてくる。物言わず、風になびきながらもしっかりと根を張ってそこに居続ける。それが日本人だと言うことです。モンゴルでは、風になびく草原を「蒼き狼」と呼び、それを神としたそうです。
 勤務先の施設を管理する役目を長いこと行いました。夜遅く職員が帰った後に一人で施設を回るのですが、私はいつの頃からが明かりをつけなくなりました。真っ暗な中、大きな建物の中を一人で歩いていると、不思議に目が慣れてきて、かえってよく見えるようになるものです。昔、中村日出夫先生にも「暗闇で目と耳を鍛えなさい」と言われたことがあります。確かにその通りで、しんと静まりかえった建物の中で、かすかな空気の流れも感じられるようになりました。窓からさし込む月の明かりがとても明るく感じられたものです。
ある日、同僚に「よくあんなに暗い建物の中を歩くことができますね。」と言われました。私は「慣れてますから」と応えました。(R2 7 7)

新其の12
 再開
 
 新型コロナウイルス感染症予防対策としての緊急事態宣言の解除により、6月から道場も再開することになりました。まだまだ制限のある中での再開ですが、やはり仲間が集まって稽古ができることは嬉しいことですね。約3ヶ月間の休止でしたが、全く体を動かしていない者にとっては、当たり前にできたことができなくなっている自分にがっかりしたことでしょう。自分では自主稽古をしていたつもりでも、これまた意外としんどかったのではないでしょうか。でもそれが集団稽古の良さなのでしょうね。きつい稽古もみんなと一緒なら頑張れるのでしょうし、不思議と体も動いてくれるものです。それでも稽古にもどってきた仲間たちには、子ども大人も関係なく感謝したいと思っています。何十年もの間、道場に行くことが当たり前の生活をしていた自分にとって、夜の7時や8時に家にいることが滅多にない生活でしたので、この期間は、貴重な生活経験となりました。ただ、いったん崩れてしまった生活を元に戻すのはたいへんかも知れません。自分の稽古は欠かすことはありませんでしたが、その日の都合で稽古時間は自分のいいようにできました。それが今度はまた固定した時間をつくるようになるので、不自由な生活になっていきます。まあ私の場合は道場に縛られる期間が小学生の頃からずっと続いているので、さほど元に戻すことは難しくないのですが、そこまで生活の一部になっていない人たちにとっては、いったん離れてしまった体と心を戻すのはたいへんなことかも知れません。残念ながらこの機会に心が離れてやめていった人も少なくないでしょう。

 1つのことを選ぶ場合には、何かをあきらめなければなりません。同じ時間に体は1つなのですから。この「選択」と「優先順位」というところがそれぞれの判断の難しいところでしょう。その昔、盧山館長から「稽古の時間は武道の神様に捧げた時間、1日4時間稽古する者は1日20時間の生活になると思え」といわれました。別に宗教ではありませんが、「神前に礼」をした時点で、そのあとは自分の時間ではないということなのですね。「稽古は自分の時間ではない」。そう思うと変なあきらめがついて、稽古に集中できたような気がします。
 まだまだ、感染対策のための制限が続くと思いますが、大会など開かれなくとも、純粋に空手ができる喜びを確かめることができる貴重な時期だと思います。もしかしたら、武道の神様が私たちを試しているのかも知れませんね。うがいや手洗いをしっかりとしながら頑張りましょう。(R2 6 8)




新其の11
 一人稽古
 
 新型コロナウィルスのために、各地の道場が休みとなっていることと思います。体がなまってしまった人や、心が遠のいてしまった人など様々だと思います。他のスポーツや習い事もことごとく休業ということで、「そこでどうするか」ということになってくるのでしょう。緊急事態宣言の解除もぼちぼちで、来月くらいからは道場が再開されるのではないでしょうか。あと少しの辛抱ですね。
 教えてくれる先生がいない、一緒に稽古する仲間がいない、そもそも場所がないなど、いろいろ思い通りの条件がそろわないなかで、いったい何をすればいいのでしょうか。
 そもそも武道の稽古は「一人稽古」が基本です。道場があったり、先生がいたりとかの環境があるにしても、いかに一人で努力するかが上達の一番の秘訣なのです。稽古とは「するもんだ」と簡潔に教えられたことがありました。「何を」「どのように」と考えるところでしょうが、まずは何でもやってみることから始めるのです。私が空手を始めた頃は、「やることがなかったら『拳立て』をやれ」と言われました。私は小学生の頃から一人稽古中心でしたが、確かに拳立てはやりましたね。まずは30回だったと思います。毎日1セットですからたちまち終わります。「えっそれだけ?」といわれそうですが、何事もはじめはそんなものです。毎日少しずつ増やしていきました。はじめは30回を続けてできないので、やれるだけやって合計で30回というやり方ですね。そのうち30回が連続でできるようになります。拳もはじめは辛いし手首も安定しないのですが、続けていると慣れてくるものです。拳で50回までできるようになると、今度は『指立て』も加えました。はじめは指が辛くて、10回もままならなかったのですが、やがて5本指で50回ができるようになりました。小学校の卒業式の日に、なぜか友達の前で5本指立てを50回やって見せたことを覚えています。
 私の一人稽古は、拳立ての前に、毎朝1,5キロ走ることから始めました。毎朝家の前の川沿いの道をヨタヨタと走っていたのでした。小学校6年生になる頃からです。剣道や空手は始めていましたが、それなりに強くなりたいと思ったからなのでしょう。時間にすればたいしたことはないのですが、最後にダッシュを加えるなど、少しずつ内容をハードにしていったものでした。私の朝練習慣の始まりでした。
 その後何十年も一人稽古をやっていると、その時代ごとにいろいろと工夫や変化がみられました。内弟子の寮ができる前、通いの内弟子だった頃は、池袋や練馬に住んでいましたので、銭湯に行く前に必ず途中の公園で立禅と這を行っていました。夜とはいえ、人が通りますので、異様な姿だったと思います。はじめは声をかけられたりしましたが、そのうち誰もが認知するようになるとただの物体がそこのあるだけと風景化してしまいましたね。あの頃は太気拳が上達しないと館長の指導について行けないので、「まずはそれ」でした。
 自分の思い出話はそれくらいにして、一人稽古のポイントを上げてみましょう。
第1は「習慣」にすることです。朝、夕食前など、内容は何でもよいので、まず5分でもいいから始めてみることです。たった5分といいますが、5分あったらいろいろとできるのです。たとえばスクワットなら200回以上できます。拳立て50回、腹筋50回、スクワット100回など手頃なメニューですね。砂袋なら、正拳なら200回、裏拳なら250回以上叩けます。立禅でも5分立つのは結構効果ありますね。私は、杖術を始めた頃は、12の基本を各20本ずつ、帰宅して車庫から玄関にもどるまでの間に必ず自宅前の道路で行いました。たいへん上達には効果がありましたね。
 第2は「目的」です。必ずやれる習慣がついたら、今度はその内容と配分です。「何を何のためにやるのか」「どのような配分でやるのか」になります。大きく分けると①体を作る②技を作るになります。
①の体を作るについては、柔軟性、筋力、持久力などがあげられます。それぞれ何をすればいいのか考えれば、やることが見えてきます。②の技を作るについては、動作の反復、矯正など、先生に指導された内容を正確に復習し、自分のものにしていく作業です。また、研究によって、自分の技術を増やしていくこともあるでしょう。この2つのグループについて、自分がやれる時間と内容を組み合わせていけば、効果的な一人稽古ができるのではないでしょうか。
また、時期に応じた内容の選択があると思います。大会が近い時、またはその逆で当面大会などないときでは内容に違いが出てくるでしょう。組手の試合があるときには、時間で戦う体力を考えますよね。大会がない時には、ウエイトなどでじっくりと筋力をつけたり、新しい型を学んだりなど良いかもしれません。いろいろと考えて実践してみてください。
棒の貫突きの自主稽古
 こんな偉そうなことをいっても、昔の自分はダメでしたね。内弟子のころは、1日8時間くらい稽古していましたので、何でもやれていました。だから時期に応じた優先順位とかなく、できることを何でもめいっぱい稽古していました。第15回全日本大会の前日のことです。夜の10時頃に道場で一人練(ねり)の稽古をしていました。調子もよくて、腰をしっかり落とし、道場を延々と往復しながら稽古をしていました。こちらは気づかなかったのですが、たまたま道場にこられた盧山館長がそれを見ていて「明日試合だから今日はもう休め」と仰ったことを覚えています。この年は、2度も三峯に山籠もりをして万全の態勢で大会を迎えてはいたのですが、私の中では、「この練のいい感じ」の方が大切で、明日の試合とかは考えてなかったようです。これがダメでしたね。次の日は1回戦で大腿部の筋断裂でビッコ状態になり、2回戦では棒立ちで判定負けでした。「バチが当たった」ですね。盧山館長に最近その話をしたときに「福島に帰れ!と怒鳴ったんだけど覚えているか?」と仰られましたが、「記憶にございません」と答えたら苦笑いをしていましたね。(R2 5 22)

新其の10
 海神之樹

 海神之樹(ワダツミの木)は、2002年にリリースした元ちとせさんのヒット曲です。当時この曲が好きで何度も聞いたものでした。どれくらい好きかといえば、誰かに目の前で生で歌ってほしいという位に好きでしたね。誰か歌ってくれないかなあ。たまたま数日前にこの曲を久しぶりに聴いたので、今回はこの曲から思うところを書きました。
 ワダツミとは、日本書紀に出てくる「海神」のことですが、いつしか戦争で海に消えていった人々の魂を表すことばにもなっていったようです。この「ワダツミの木」は歌詞が難解で、いろいろな解釈が飛び交ったようですが、作詞、作曲の上田現さんは単に恋の歌だと述べていたようです。その上田さんもすでに亡くなっているのでその真意はわかりませんが、聞く人がその歌詞から勝手な解釈をしてそれぞれに感動すれば、それはそれでよいのかと思います。
 私は、この曲は戦争で海に沈んだ自分の恋人の魂が、海の上をさまよい、迷っているのを慰めるように自分がワダツミの木となり、花を咲かせたという話なのかと勝手に解釈しています。
 
 星もない暗闇で  さまよう二人がうたう歌
 波よ、もし、聞こえるなら  少し、今声をひそめて

 なぜこの歌を取り上げたかというと、今、この歌の世界とは違いますが、コロナウィルスによって日本中いや世界中が「暗闇」に包まれているのではないでしょうか。それぞれが先の見えない不安といらだちの中で日々暮らしているのでしょう。まさに「我慢比べ」といったところですね。しかし、だんだんに我慢に耐えられなくなって、自分勝手な振る舞いをする人が目立つようになってきました。結局はそれが人間なのだと思います。
 話は飛びますが、私が空手を始めた頃は、近くに空手の道場もなく、たまにテレビの「びっくり人間ショー」に怪しい空手家が出てくるくらいで、ちゃんとした空手を見ることもできませんでした。せいぜい「柔道一直線」に悪役で出てきたくらいですかね。(大山倍達総裁もちょい役で出ていましたね)私は小学5年生から町の剣道の道場に通い始めましたが、実は空手が習いたくてしょうがありませんでした。町に道場もないのに、書店では中山正敏先生や山口剛玄先生の技術書が売っていましたので、それなりに世の中では空手がブームだったのだと思います。
 そんなある日、父の友人の先生で、大学時代空手部だったとういう方が、私の自宅に来て空手を教えてくれることになりました。その先生は東洋大の空手部でしたので、流派は糸東流でした。最初に習ったのは内八字立ちでの正拳中段突きでした。その先生は月に一度程度自宅に来ましたので、その都度1つずつ教わるというものでした。私は習ったものをとにかく毎日自主的に稽古したものでした。剣道の道場は週に2~3度通っていましたが、空手の稽古は毎日行いました。剣道は剣道で鬼のような先生で、基本の素振りと打ち込みばかりでしたが、これはこれでたいへんためになりました。
 はじめは一人で行っていましたが、少しずつ仲間ができ、定期的に数人で稽古をするようになっていきました。小学生のくせに、拳立てと巻き藁は毎日のように行っていましたので、中学に入るときには立派な拳ダコができていました。中学では、空手部がないので剣道部に入りました。この剣道部も毎年地区大会では優勝するけっこう強い部でしたので、とにかく稽古がきつかったのを覚えています。新入生は、小学校の時の経験の有無にかかわらず、夏までは防具を着けることは許されず、ただ素振りの毎日でした。3000本は最低ラインでしたね。後でわかったことですが、単純に剣道部の人数が多かったので、3年生が終わるまでは1年生は邪魔だったということで、体育館の隅で素振りばかりやらせていたようでした。べつに基本が大事だからというわけではなかったようです。しかし、今思えばその素振りの時期が将来のためにはとてもよかったのです。
 中学に入ってからも空手は仲間と自主的に稽古を続けていました。いわゆる同好会になっていました。そんな頃、「カラテマガジン」を手に入れました。これが極真空手の世界に入るきっかけでした。これは当時流行っていた通信教育の機関誌でしたが、それを読むとなんと福島県には同好会が3つもあったのです。それらを合わせると会員は100名を越えていました。立派な支部にできる規模でしたが、指導者がいなかったのです。同好会は東京まで行かないと審査が受けられないので、とりあえずリーダーは黄色帯程度でしたが、他流派の有段者がゴロゴロいましたので、十分に立派な空手道場だったと思います。私も自分の同好会を加えてもらい、正式に入門しました。私は夏の合宿や審査会に積極的に参加し、中学を卒業するときには黄色帯になっていました。個人的には、梶原一騎先生や真樹日左夫先生にはたいへんお世話になりました。福島県の活動が当時の総本部に認められ、正式な極真会館の支部となったのは私が高校1年の時でした。指導は総本部から毎月通いで来てくださいました。なんとそれが現在の盧山初雄館長でした。
 ここで私がこの項を書いた意図を述べたいと思います。当時の私たちは、本物の空手を習いたい、強くなりたいという思いだけのさまよう魂だったと思います。道場もなく、教えてくれる人もなく、わずかな知識と情報を頼りに、できることをできる限りやる。そんな若者がたくさん渦巻いていた時代です。なぜそんなことができたのでしょうか。私たちには「ワダツミの木」があったのです。それは大山倍達であり、極真空手でした。私たちは、どんなに離れていても、たった一人になってもこの木がある限り、迷うことなく、精進することができたのです。現代は恵まれています。どこに行っても空手の道場があり、指導者も至る所にいます。しかし、緊急事態宣言がだされている今の空手を学ぶ人たちはどうでしょうか。外出自粛で道場に行けない、教えてくれる先生がいない、練習する場所がない、だから「稽古はやらない」「やめてしまう」という結論を出してしまう人がいかに多いことか。
 今の私たちの「ワダツミの木」は盧山館長ではないでしょうか。どんな状況でも稽古を続けている館長の姿があるからこそ、私たちは励まされ、この暗闇に耐えられるのだと思います。「畳1枚の広さがあれば十分に稽古ができる」と館長に教わりました。どんな時でもどんな場所でも稽古を続ける。これが武道の修行だと思います。そして、私たちもそれぞれが「ワダツミの木」にならなければならないのだとも思います。いつまでも盧山館長に甘えてばかりではならないのです。わたしたちそれぞれが多くのさまよう魂たちの道しるべにならなければならないのです。


 ここにいるよ、あなたが迷わぬように
 ここにいるよ、あなたが探さぬように

 右の写真は、私が毎朝稽古をしているところです。誰もがその姿を見ることはできないけれども、続けることがひとつの「ワダツミの木」になるのかも知れません。(R2 5 4)







新其の9
 いつか必ず
 
 右の写真は、私の勤め先の玄関に咲いたチューリップです。今年は特にきれいに咲きました。学校が休業中のため、生徒たちは見ることができません。この花もいつもなら「わーきれい」などとたくさんの生徒たちに褒められ、花として最も輝く季節なのですが、今年はそれがありません。しかし、写真のようにどのチューリップも元気よく太陽に向かって咲いています。「負けるもんか」と叫んでいるようにも見えませんか。私はこの花に毎朝元気づけられています。
 緊急事態宣言も延長することになり、まだまだこの苦しい日々が続くようです。「ここが我慢のしどころだ」と思いつつも負けそうになる自分もちらちら見え始めています。

人間 我慢、辛抱が肝要  いつか必ず

この言葉は豊後関前藩の国家老坂崎正睦の口癖です。空手道の「押忍」の精神と同じかも知れませんが、とにかく我慢するときは我慢する、しかし、それは逃げることではなく、決してあきらめない強い心をもって我慢をするということなのですね。今はコロナウィルスというどうにも面倒で強力な敵が世界中を困らせています。人々はとにかく我慢するしかありません。しかし、人間は弱いものです。不安やイライラがたまると、つい他人を傷つける言動をしてしまうものです。
 
 たった一言で壊れる人間関係がある。
   たった一言で救われる人間関係もある。

私の居合道の師の塩川先生の話を紹介します。
塩川先生は、太平洋戦争のとき、飛行兵として零戦に乗っていました。日本の負けが濃厚になっていた頃に鹿児島の基地に配属されていたそうですが、部隊の中でも焦りや不安のために上官が部下をいじめたり、隊員たちも仲違いしたり、命を懸けて国のために戦うチームではなくなってしまっていたようでした。塩川先生はケンカが強く、先生から刃向かうことはなくとも上官も手が出せなかったそうです。そんなある日、塩川先生は手先が器用で裁縫も上手だったようで、上官の軍服のボタンを付けてあげたそうです。上官は、塩川先生は刃向かってきたら面倒な危険人物と思っていたようでしたが、ボタンを付けながら愛嬌のよい先生と話をしているうちに先生を気に入ったようで、いろいろと小間使いを頼み、タバコなどものもくれるようになったようです。はじめは、まわりの兵隊たちは、塩川先生が上官にゴマを擂っているように思ったようでしたが、塩川先生は、仲間の兵隊のボタンも付けてあげたり、だれとも分け隔てなく、世話をしてあげたりしたので、いつしか、先生のまわりには笑顔があふれるようになっていました。そこには上官も部下もなく、同じ釜の飯を食う仲間たちだけがいたのでした。そのうち、靴の修理の上手な者、筆のたつ者などがそれぞれに他人の世話をするようになり、「自他共栄」の集団ができあがっていったようでした。終戦後、その部隊のほとんどが戦死しましたが、生き残った何人かは、親交を続けたそうです。そのとき、仲間の手紙などを代筆していた方が、塩川先生の巻物を書いてくださっていた方だそうです。私の免許皆伝もその方の筆によるものです。
その後、塩川先生は、長崎の大村基地に移り。そこで原爆を見たそうです。紫の光をしっかりと覚えていると仰っていました。そして終戦を迎え、下関に帰ったそうです。
この話は、塩川先生から直接聞いたものですが、みんなが苦しいとき、不満や批判をまき散らすのではなく、自分ができること、人に役立つことがあれば、どんな小さなことでもいいからやってみることが大事だと仰っていました。そこには必ず「人の輪」ができる。
それが「戦わずして勝つ」武道の極意であるということだそうです。おまけに、塩川先生は鹿児島の部隊にいたときに、沖縄出身の方に沖縄空手を個人的に教わっていたそうです。誰にも文句をいわれなかったそうですが、先生の空手が糸東流としてはちょっと独特な発力が見られるのは、この時の沖縄空手の経験があったからかも知れません。

右の写真は、私が毎日走って上がる石段です。子どもの頃からここで練習をしています。毎朝5時半頃ここを駆け上がっていますが、毎朝、腰が痛い、足首が痛いと言い訳しながら石段の下まで歩き、「エイヤ!」と駆け上がると、不思議としゃきっとするものです。山の上で一通り稽古をして、石段を下りるときには、「今日も頑張ろう」という気持ちになっています。
コロナウィルスの件では、とにかく日本中が我慢、辛抱の毎日ですが、「いつか必ず」を心に秘めて頑張りましょう。
(R2 4 30)








新・其の八
 負けるもんか

 最近高視聴率を上げていた朝の連ドラ「スカーレット」が先日終わりました。私は特に見ていませんでしたが、たいへん評判がよかったようですね。主演が戸田恵梨香さんだったので、見てみたいと思っていたのですが、時間帯が無理だったので残念でした。私はしばらくドラマとか見る暇が無かったので、いろいろな俳優については全くわからず、「大河ドラマの〇〇の役の人」という程度でしか区別ができないほどでした。そんな中で、戸田さんは、たまたま見た「コードブルー」に出演していたのですが、「この人上手い」とすぐに気がつく存在でした。「へえ~この人こんな凄い役者だったんだ」と本当に関心してそこら中で知ったかぶりしていたところでした。誰かのすすめで映画「駆け込み女と駆け出し男」も見たのですが、戸田さん演じる「じょご」がたいへん素晴らしかったですね。そこであらためて、他のドラマや映画をぼちぼち見てみると30歳を少し過ぎた女優さんたちが皆素晴らしい活躍をしていることがわかりました。世間の流行から隔絶されたような生活を送っていると、まさに浦島太郎のような状態であることに今更ながら気づかされたものでした。
 今回の話は戸田さんのことではなく、「スカーレット」主題歌Superflyの「フレア」の歌詞のことです。
  いつの日も雨に負けるもんか
   今日の日も 涙に負けるもんか
 
 以前書いた「要は負けんこった」の赤垣竜平のセリフに匹敵するものでした。
 現在、日本はもとより世界中で新型コロナウイルス感染症予防対策としてあれこれと苦心の策がとられていますが、どうにも出口が見えない、見つからないという状況だと思います。空手の道場も休業を余儀なくされ、組織的にも経済状況は逼迫しております。学校も休校となり、子どもたちは出歩くこともできずにただストレスを貯める一方です。

 いったいいつまで続くのだろう

 そんな不安やあきらめが誰にものしかかってきている頃だと思います。
 こんな混沌とした状態が過去にも何度かありました。大山倍達総裁が亡くなったとき、極真会館が分裂したとき、極真館を立ち上げたとき、極真館が経済的にどん底のときなどいろいろな人間模様が見られたものでした。そんなとき、盧山館長は「こういうときにそれぞれの人間のハラが見えるもんだよ」と仰っていました。きれい事や気の利いたこと、批判めいたことをいう輩は必ず出てくるものです。それはそれでダメということではありません。心配してくれているのでしょうから。ただ、決定的な違いがひとつあります。そこで踏ん張るという「覚悟」があるか、そうでないかということです。よく災害が近づくと家のネズミが一匹もいなくなったといわれますが、まさにその通りでした。特に今回は金銭の面が大きいので、金が絡むと人間模様はこれまたシビアになるものです。
 しかし、このような時期だからこそ、「武道の修行とは何か」「人の絆とは何か」とかを真摯に考えることができるのではないかと思うのです。場所が無いなら無いなりに、時間が無いならなんとか作り出すといった自己解決力が問われるのだと思います。盧山館長が内弟子だった頃の私たちに「刑務所に入ったつもりで稽古しろ」といったことがあります。場所も時間も自由も無いなかでそれでも稽古をする。それが武道家の稽古の姿勢であるということです。まあ、実際に刑務所に入るようなことをやってはいけないのですが。その時盧山館長は、中国拳法形意拳の達人郭雲深(かくうんしん)の話もしてくださいました。郭雲深は、やむを得ず人を殺めてしまい刑務所に入ったのですが、狭い独房に入れられ、手かせ足かせを付けられたままだったそうです。いくら達人とはいえ、そのような状態で何年もおかれれば、技も体もさぞ衰えたろうと誰もが思うはずです。やがて郭雲深が刑務所から出所したとき、帰り道を待ち伏せしていた者がいました。殺された者の敵討ちだったようですが、郭雲深はこれを一撃で破ったといわれています。郭雲深は、刑務所の中で、手かせ足かせをつけたまま、毎日独自の稽古を続けていたのでした。そして、虎形拳の一手を鍛え上げ、この技を持って相手を倒したのです。
 今の私たちは、この話をあらためて肝に銘じこの苦しい時を耐え忍び、精進を怠ることのないようにしたいものです。大会がないから、道場に行けないからではないのです。人の絆も同じです。「踏ん張る覚悟」をもってすれば、己の言動やとるべき行動が見えてくるのではないでしょうか。いつまで続くかわからないこの感染騒ぎですが、ともに堪え忍ぶ仲間の強い絆を信じたいものですね。

 孤独の雨に負けるもんか
 今日の日も 涙に負けるもんか

 昨日の朝、遠くに富士山が見えました。空気が澄んでいたからでしょうか、真っ白な富士山がいつもより大きく見えました。「おまえらなにやってんだか」とでも言いたそうに、日本中を見下ろしているようでした。なんか少し元気がでましたね。

 炎は 再び舞い上がる


 そして 俺の涙は 俺がふく ですかね。

                      (R2 4 20)

≪戻る≫

新・其の七
 熊殺し逝く

 去る6月7日、“熊殺し”と呼ばれたかつての極真空手のスター選手ウイリー・ウィリアム氏が67歳でお亡くなりになりました。死因は心臓病だそうです。極真会館の第1回世界大会でアメリカ代表として出場し、2メートル近い巨漢から繰り出す正拳突きは圧倒的破壊力で会場を沸かせました。惜しくもイギリスのハワードコリンズ選手に敗れ入賞は果たせませんでしたが、映画「地上最強のカラテ」で紹介され、一躍人気を集めていました。当時私は中学2年生でまだ水色帯でしたが、東京まで見に行くことができず、直接会場に行った先輩に電話で結果を聞いて大騒ぎしていました。やがて「カラテマガジン」や映画で大会の詳細がわかり、極真空手をやっていることを誇りに思ったものでした。
 私が高校3年の時、日本武道館で第2回世界大会が開催され、再びウイリー選手はアメリカ代表で出場してきました。私は、模擬試験を受けると親と学校を偽って日本武道館に行き、全試合を食い入るように観戦したものでした(後でオヤジにこっぴどく叱られました)。当時の私はすでに盧山館長に指導を受けるようになっており、黒帯にもなっていました。第1回の大会より海外のレベルは向上しており、ヨーロッパ、アフリカ、ブラジルなどから目立って強い選手が出ていました。ジェフ・ホワイブロー選手やアデミール・コスタ選手などが印象にのこりました。盧山館長も強烈な下段蹴りを武器に快進撃を続けていましたが、負傷のため残念ながら棄権せざるを得ませんでした。私は、一番上の観客席でじっと試合場を見つめている盧山館長のところへ挨拶に行きました。館長は私に「おおよく来たなあ」と何もなかったように穏やかな声をかけてくれました。私は何を血迷ったか「今度は自分が頑張ります」と答えたのを覚えています。まさか次の春に盧山館長の内弟子になるとは思ってもいなかったので、えらいことを言ったものだと後になってあきれたものでした。
 さて、この大会でのウイリー・ウィリアム選手ですが、体もひとまわりたくましくなり、スピードとパワーが格段に凄くなっていました。世間では、アントニオ猪木との異種格闘技試合に備えて、黒崎先生のところで特訓を受けていると聞いていたので、相当キックの練習で鍛えられたようでした。とくに正拳の連打が凄かったのを鮮明に覚えています。結果は3位でしたが、いろいろと政治的な部分があったようで具体的なことには触れないでおきます。
 次の年の2月下旬にウイリーと猪木の試合が蔵前国技館で行われました。極真空手対プロレスということで、マスコミでも大きな関心を集めていました。私は、大学受験と偽って東京に行きました(後でオヤジにこっぴどく叱られました)。前売り券も手に入らなかったし、当時お世話になっていた真樹道場に問い合わせたところ、当日券もないかも知れないと言われましたが、梶原一騎先生の事務所に行けばなんとかなるかも知れないと教えていただき、渋谷の事務所に伺いました。「おお岡崎よく来たなあ」と真樹先生から事前に電話がいっていたようで、2年ぶりなのに直接梶原先生から岡崎、岡崎と声をかけていただき嬉しくなりました。しかし、残念ながら前売りはないということで、当日券が少し出るので並べばなんとかなると言われ、徹夜で並ぶことにしました。私は、2人の友達と従兄弟の家に泊まり、最終で蔵前国技館に行きました。まだ誰も来ていないようで1番に並ぶことができました。とは言っても2月末です。寒さは半端ありませんでした。このままでは凍え死ぬと思い、飛んだり跳ねたりしていましたが、それも限度があります。とにかく寒くて死にそうになりました。遠くに深夜営業のパチンコ屋が見えたので、交代で暖まりに行くことにしましたが、それで何とか凍死を免れることができました。朝4時頃から少しずつ人が並び始めました。朝の日差しがとても暖かかったのを覚えています。
 国技館が開場し、中に入ると異様な雰囲気が漂いました。リング周辺の物々しい空気が遠くの客席からも感じられました。リングの下にいる大勢のプロレス関係者と空手関係者がわかりました。盧山館長や添野師範の顔もわかりました。
 前座が始まりました。前座はキックボクシングの試合がありましたが、別段興味もなく、ウトウトしながら眺めていました。ところが藤原敏男選手が出てくると場内が沸き上がりました。私もその試合には釘付けになりました。相手のタイ人の選手は、そこそこの肩書きのある選手でしたが、為す術もなく藤原選手にボコボコにやられてしまいました。「強いなあ」とため息の出るような試合でした。
 いよいよメインのウイリー猪木戦が始まりました。政治的に話がついていた試合だったようですが、当時の私には真剣勝負のように思えてなりませんでした。あっけなく終わりましたが、今ではその試合の内容はどうでもよく、その日その場所にいたことが私の財産になったと思っています。
 私の人生で最も血が騒いだ高校時代に活躍したウイリー・ウィリアム選手の訃報に接し、何がどうできるものではありませんが、いろいろなことが思い出されてなりません。ちょうど息子と同じ年齢ですので、我が息子も血が騒ぐ時代を過ごしているのかも知れません。また「四角いジャングル」でも読もうかと思いました。あらためてご冥福をお祈りいたします。(R1 6 11)

戻る

新・其の六
 罰が当たる

 私は何か自分に損なできごとが降りかかると、何時の頃からか「罰が当たった」と思うようになりました。「何かあったんですか?」と聞かれることもありますが、特にこれということはないにしても、取り上げればいろいろと酷いことはしてきたかも知れません。今思えば、私の自分勝手な振る舞いで、たくさんの人が我慢したり傷ついたりしてきたのだと思います。高校時代などその最たるもので、思い出せばお詫びをしなければならないことだらけのような気がします。
 高杉晋作の「我が人生値三銭」ということばがありますが、良いこと悪いこと差引そんなもんだろうという意味ですね。三銭にもなればそれでよい人生だということです。私は三銭どころか赤字になるやも知れませんが、懐かしい人と会う度に赤面の至りで「その節はすみませんでした」という場面ばかりです。
 私はここぞというときによく怪我をしました。昔、姓名占いで、「志半ばで失敗する運命」といわれたことがあります。大会の直前に骨折をしたり、審査の直前に脱臼したり、完全なオーバーワークなのですが、がっかりするよりも笑うしかないというほど見事な「罰が当たる」場面が繰り返されました。試合中に骨折したり内臓の損傷で棄権したりしたときには、誰に八つ当たりできるわけでもなくただもう「トホホ」というだけでした。まさに「罰が当たった」というところでしょうか。
 では「罰が当たる」とは、いったい誰がその罰を与えるのかということになると、それはいわゆる神様になるのだと思います。神様は「ちとこいつを懲らしめてやろう」ということで、いろいろと困らせることを仕掛けてくるのですね。「自分は悪くない」という考えから入ることのできる人には関係のない話なのですが、私はどうも人のせいにできない性格なので、「罰が当たった」と考える方が楽なのかも知れません。
 今年は転勤があり、4月5月は今までにない忙しさでした。空手の方でも全日本があり、セミナーがあり、寝不足と筋肉痛、関節痛でクタクタの毎日でした。5月に入り、疲れが出たのかギックリ腰になってしまいました。「また罰が当たった」と思いましたが、今回は一週間に3回もギックリ腰になってしまい、その都度医者で注射を打って痛みをごまかしました。医者も「今年はどうしたの?」と心配してくれましたが、稽古は休みませんでした。ただ、朝はさすがに辛かったので、好きな朝練は3日休みました。
4日目の朝、なんとか痛みをこらえていつもの石段を駆け上がると、そこに白い花が咲いていたのでした。毎日同じところで稽古しているので、石も草も友達のように感じていましたので、この花にはすぐに気づきました。そのとき、この花が「お帰り」といってくれたような気がしました。
 おそらくこれからもたくさんの罰が当たるのだろうけれども、こんな花を見て自分も単純だなあと思いながらもまた頑張ろうとやる気になったある日の朝でした。(R1 6 10)




戻る

新・其の五
 銀色の道

       遠い遠い はるかな道は
       冬の嵐が 吹いてるが
       谷間の春は 花が咲いてる
       ひとりひとり 今日もひとり
       銀色の はるかな道

 この歌は、1966年リリースの歌謡曲で、塚田茂作詞、宮川泰作曲の「銀色の道」という曲です。最初にダークダックスがテレビで歌いヒットしました。この年の「NHK紅白歌合戦」でも歌われました。最近たまたま読んだある本にこの歌のことが出ていたので懐かしく思い、書くことにしました。
 この曲には、作曲家の宮川さんのエピソードがあります。それは、宮川さんが小学校の時住んでいた北海道紋別市の住友金属鉱山鴻之舞鉱山で、土木技術者の父親が建設に関わった「鴻紋軌道」のレール跡の水たまりに月の光が映る姿を見て「これこそ銀色の道だと確信した」といわれています。宮川さんは、成人してからも何度か紋別を訪れており、塚田さんからこの歌詞をもらったときにどことなく懐かしい望郷の念が重なり合って、この曲の原点が鴻之舞にあると確信したそうです。歌の成り立ちはさておき、高度成長期の日本は、私の福島県の常磐炭田をはじめ鉱工業が活発になり、自動車をはじめとする機械、電気産業が盛んになっている「滾る(たぎ)る」時代であったと思います。私は1961年生まれですので、この高度成長の頂点期に幼少の時代を過ごしました。ウルトラマンが活躍し、東京オリンピック、新幹線開通など次々と新しいものが登場し、日本が変わっていきました。まさに昭和の古き良き時代だったと思います。
 私の住む福島県の石川町にも都会の波が少しずつ押し寄せてきたのもこの頃で、首都圏の大手企業の下請け工場があちこちにでき、出向や派遣で都会の人間が私の町にも移り住んできました。子どもの多かった時代ですからどこに行っても子どもが「群れる」時代でした。毎日が遊びとケンカの野蛮な少年時代であったと思います。
 私が中学生になったとき、東京から1人の転校生がありました。サラサラの髪を伸ばし、背がとても高く、「キザ」を顔に書いたような奴でした。何でも東京の名門私立中学に合格したのだけれども父親の転勤で急遽この石川町にやってきたのです。父親は有名な時計メーカーの社員で、私の町にできた新しい工場の工場長として、家族で引っ越してきたのです。田舎の悪ガキどもは「東京者」というだけで、「やっちまえ」とばかり意地悪の計画を立てていました。私も小学校に上がる前に引っ越しをして偉い目にあっているのでそこは協力しませんでしたが、けっこう最初はやられたようです。ところが、花輪君のような長髪のサラサラ髪も坊主頭にされ、さぞ切ない毎日だろうと思っていたら、全然へこたれない奴だったのです。彼は勉強が良くできたのです。いきなりトップで、3年生の模試を受けてもベストテンに入るほどの学力でした。その上背が高く剣道も強かった。さらに超お金持ちで、同じ下着は2度と着けないという噂が立つほどのセレブ振りでした。そのセレブぶりは漫画「こち亀」の中川君のようでした。そうなると女子にもてるのです。女子が大勢親衛隊になり、地元の悪ガキは皆玉砕してしまいました。私は同じ剣道部でしたので、仲良くなりましたが、結構いい奴でした。家に遊びに行ったときに、大きな洋間のシャンデリアが印象に残っています。私の知らない世界を教えてくれるので、積極的に友達づきあいをしました。田舎の遊びにも良く引っ張り出しました。虫取りや釣りなど、田舎の小僧の定番遊びをしっかり仕込みました。かれは飲み込みが早く、地元化するのが速かったようでした。私たちとのつきあいは相当楽しかったようでしたが、成績はどんどん悪くなっていきました。信じられないほど優秀だった彼はどんどんバカになっていったのです。「バカがうつる」といいますがうつしてしまってすみませんでした。
 本題に入ります。彼が好きだった歌が「銀色の道」だったのです。かれは「俺のテーマソング」とまで言い切っていました。私のテーマソングが「遠山の金さん」だったので恥ずかしくなりました。校内合唱コンクールのときに、彼のクラスは「銀色の道」を歌うことになりました。もちろん彼の提案ですが、男どもは「そんなもん」とけちをつけたそうですが、女子軍団の強い力で一気に決まったそうです。しかし、今になってあらためて聴くと、歌詞も曲もいい曲ですよね。
 彼とは高校まで一緒でした。生徒会の副会長までつとめ、有名な工業大学に合格し、今は大手コンピュータ関係の部長かなんかで活躍しているそうです。彼が高校の時に埼玉に引っ越したので、石川町のお屋敷は、今では別の人が住んでいます。彼とは学校祭の出し物で校内格闘技決定戦を行ったときに剣道対空手で対戦しました。筋書きありのイベントでしたが、練習ではマジでやりましたので、練習相手になってくれたもと剣道部の相手の親指を蹴りで折ってしまうという事故を起こしてしまいました。優勝はプロレス代表の生徒会長でした。私は瓦で頭を叩かれて負傷棄権をするという間抜けな役でしたが、本物の瓦で頭を殴らせ、その瓦が砕け散り、場内が騒然とする中の退場でした。頭突きで瓦を割るのが得意だったのでなんともありませんでしたが、バカな高校生でしたね。ちなみにこの宮川さんは「宇宙戦艦ヤマト」の主題曲を作曲した人ですよ。
 とりとめもない内容の文になりましたが、「銀色の道」の曲からいろいろなことが思い出されました。今の私たちにも「銀色のはるかな道」が続いています。(H31 2 7)

戻る

新・其の四
 誰かの希望になってやれ

 「踊る大捜査線」という大ヒットのテレビドラマがありました。このドラマは1997年にフジテレビで放送されたものなのですが、その当時私は、郡山の結構たいへんな職場に勤務していましたので、テレビドラマを見る暇などありませんでした。ドラマより実際の現場の方がもっとたいへんなんだよ!事件は現場で起きてんだ!!というところですかね。
 その後このドラマには特に興味もなく忘れてしまっていたのですが、2003年に盧山館長の技術書『日々研鑽』の撮影が東京六本木で行われたときのことでした。撮影が終わり、メンバーで何か映画でも観ようということになり、六本木ヒルズの映画館に行ったのです。その時誰かが「踊る大捜査線、レインボーブリッジを封鎖せよ」が面白そうだから観ようということになり、私は何でもいいやという気持ちで映画館に入りました。・・・・観てみたら面白かった。
 映画のストーリーも面白かったのですが、中に出てくる教訓めいたセリフがいくつも心に残りました。主人公の青島と、キャリアの室井さん、退職した先輩の和久さんなど良い役者がそろっていました。その後、テレビシリーズを借りて前作の映画も一通り観ることになりました。・・・・これもまた観てみたら面白かった。それから何年かごとに何度か通してみたものですが、その都度、自分が感情移入する役者が変わっていくのが自分自身で興味深かったです。
 最初は主人公の青島でした。あんなにかっこよくはありませんが、とにかく感覚的に突っ走るタイプでしたので、先輩や上司をヒヤヒヤさせてばかりいました。昨年、当時お世話になった上司がお亡くなりになったので、年末にご自宅に焼香に伺いましたが、奥様が当時の私たちの様子をよくご主人から聞かされていたと仰られた時は、嬉しいやら恥ずかしいやらでした。次に私が管理職になってからは、室井さんとかぶる場面があり、板挟みでの決断の場面など共感したものです。そして、最近は退職まであと何年かと数えるようになってくると、今度は和久さんのことばが身に染みるようになってきました。
その和久さんのことばの中でもっとも心に響いたものが

『自分の信念貫いて、人の希望になってやれ』

でした。自分の存在やすることが、どこかの誰かの希望になる。今まで考えたことのない衝撃的なことばでした。
 最近は、残された人生あと何をすればいいのだろうかと思うことがよくあります。東日本大震災の時には、拾った命は自分を必要とする人たちのために使おうと思い、仕事や空手も「誰かのために」という気持ちで頑張ってきました。今の私は、毎朝5時半に真っ暗な神社の階段を走っています。そんな姿は町の誰も知りません。暗い町並みに街灯が転々と灯っています。「俺はいったい何をやっているんだろう」と思うことが多々あります。山の端がうっすらと明るくなる頃に帰路につきますが、盧山館長も今日もいつもどおり稽古しているのだろうと思うとやめるわけにはいきません。昔、雨の降る寺の境内で、吊した傘の下で館長と一緒に立禅をしたことを思い出します。定位置で行っている館長の背中は大きく、40分もの間びくともしませんでした。館長は私たちの大きな希望だったと思います。毎日同じところで稽古していると、山から見える街灯も、道ばたの石ころも草も何か友達のように思えてくるのが不思議です。自分の姿が、どこかの知らないだれかの希望になっているのかもしれないと勝手に思いながら、また稽古を続けたいと思います。(H31 2 6)

戻る

新・其の三
 そこでどうするか
 
 先日の始業式で全校生に話したキーワードが「そこでどうするか」でした。勉強ができない、友達関係が上手くいかない、将来が不安だなどと、だれにもお困りの要素がたくさんあるものです。そうすると例の「やめるカード」をすぐに引きたくなってしまうものですが、そのときに「そこでどうするか」と立ち止まって見渡してみることが大切であるという話でした。
 この言葉は、私の子どもの頃からの考える癖で、いろいろとやることや考えることが錯綜してくると、それらを紙に書き出すのです。書き出してみると、その数の多さに驚いたりもするのですが、同じようなものをくくってみたり、優先順位をつけてみたりすると、とっかかりが見えてきたりするものでした。今でいうマッピングやグルーピングという思考法だと思いますが、そのころはそんなことはわかるわけもなく、いつの間にか身についた方法でした。
 なかなか思った通りに事は運ばないものです。障害があったり、時間の都合がつかなかったり、別な事と重なっていたりなど、お困り要素は次々とでてくるものです。学生の頃もそうですが、大人になればなおさらで、仕事や家庭だけでなく、地域との関わりや親戚やら体がいくつあっても足りないような状態の経験は誰にもあることと思います。
 25年ほど前のことですが、私が郡山で働いていた頃です。車で片道1時間の通勤でした。空手の支部長になった頃で、支部の運営や大会の準備、自分の稽古はもちろんですが、全国的に型競技が始まり、制定型の指導やルールづくりなど講習会も含めてたいへんでした。学校の仕事でも、研究論文や議会対応、外部の教材作成や学会での発表など、通常の仕事以外にあれよあれよと仕事の波が押し寄せてきたのです。さらに娘が生まれたばかりで家庭も放っておけませんでした。自分のやるべきことを書き出してもどうにもならず、「1日が24時間では足りない。」「体が一つでは足りない。」と本気で思ったものでした。おまけにフランスの演武で鎖骨を脱臼し、これまたたいへんな思いもしました。いつも複数のことを考えるようになり、何かをしながら別のことを考える変な癖が付いてしまいました。ある日のことです。仕事中にペットボトルの水をコップに注ごうとしたときのことです。途中から別のことを考えてしまったと思うのですが、コップとペットボトルの位置がずれていて、水をダラダラと床にこぼしていたのですが、そのことすら気づかずに視点の定まらない目をしてボーッとしていたようです。同僚に声をかけられて我に返りました。「気が狂う瞬間」を味わったような気がしました。その後どうなったかは覚えていませんが、今こうしていられるのでおそらくなんとかなったのではと思います。私の先輩がいったことばがあります。「時間が解決してくれる」「終わらなかった仕事はない」ということばは後輩たちのアドバイスに使わせてもらっています。「キャベジンタイム」と大声でどなり、職場の真ん中で豪快にキャベジンを飲む先輩もいました。皆さんそれぞれの方法で乗り切っていったのでしょう。
 話が逸れてしまいましたが、要するに、「たいへんだ」「むりだ」とばかりいっていないで、一歩立ち止まって「そこでどうするか」と考える余裕を持つことが大切だということなのです。結果としてやるべき事はやったほうがよいのですから。仕事だけでなく、稽古においても、勉強においても、人間関係でも同じだと思います。
 私が本当に困ったときには、頭の中で植木等の「そのうちなんとかな~るだ~ろう~」が流れてきます。(H31 1 18)

戻る

新・其の二 
 やめるカード
 
 何かをするときに、必ず「できません」「無理です」という人がいるものです。その人は必ず理由をいいます。そしてその理由はすべて正論だったりするのです。逆に「やろうよ」という人は、今までになかったことや無理なことを頼むので、うまい理由が見つからないものです。
 仕事においても「負担」「多忙」ということばがやらない理由のキーワードですね。さらに一歩進んで「だったらやめます」ということばが出てきます。「~だからやめます」「~なのでやめます」というようにこれまた理由はしっかりしたものです。
 仕事においても、武道においても、「やめます」のひとことは寂しいものです。長年頑張ってきた仲間が、何かの理由でやめてしまうのです。健康や環境の変化でやめざるを得ないときもあります。また「気が変わる」ことは誰にもあることで、罪にはなりません。
 ある日、「やめる相談」を受けたときのことです。なるほどしょうがないなあと思いながら、なんとかならないかなあといろいろと考えました。その時、私はこの人は「やめるカード」を持っているんだなあと思いました。
 私はいいました。「俺には『やめるカード』がないんだよ」と。仕事が忙しい、人間関係がややこしい、体が辛いなど、「やめるカード」を持っている人はいろいろと考えるのだろうと思います。その上でいろいろいと折り合いを付けながら武道を続けている人がほとんどなのだと思います。やめようと思ったらやめることができる。それはそれでいい。
 しかし、自分には「やめるカード」がない。と考えると考え方ががらりと変わるものです。やれない理由を探すより、やれることを探すようになるのです。「これならやれる」「こうすればやれる」と考え方がポジティブになるのです。私が教頭になったときのことです。仕事にかかる時間が多くなり、それまで1日4時間程度は毎日こなせていた稽古ができなくなってしまいました。今日もできなかったという日が続きました。毎日がトイレに行く暇もないという状態で、膀胱炎になるかと思うほどでした。昼の来客の対応で給食が食べられない日もありました。ストレスには強い自分と思っていましたが、ある夜腹部に激痛が走りました。のたうち回るという表現のとおりになり、妻の運転で救急病院に運び込まれ、急性腸炎で即入院となったのです。過度のストレスだったのですね。注射と点滴でとりあえず落ち着き、ぐっすりと眠りました。朝になり、目が覚めたときに愕然としました。その日は出張があり、大きな会議で議長の役目があったのです。休むわけにはいかない。病院では退院などとんでもないと引き留めましたが、あれこれと言い訳をしてむりやり退院し、出勤し、与えられた仕事をこなしました。回復したわけではないのですが、次の日からも通常に勤務したものでした。その時にふと思いついたのです。「これは仕事のストレスではなく、稽古ができないストレスなのだ。」「なら稽古時間をつくればいい。」「夜は不定期で計画が立てられない。ならば朝もっと早く起きればいい。」となったのです。そこで毎朝5時10分前に起きるようにしたのです。そして5時から約1時間ですが、山道を登り、砂袋を叩きました。朝日が昇るのを眺め、すがすがしい気持ちになったものです。朝なら自分の意志で起きればよいのですから、最低でも「稽古ができない日」はなくなったのでした。おかげで昼は睡魔が襲ってスイマセンといった状態になりましたが、それで少し立ち直れたような気がしました。あとは仕事も慣れてきて、少しずつ稽古時間も工夫することができ、それなりにこなせるようになりました。「仕事が忙しいからだめです。」「学校が忙しいからやめます。」という人が多いですが、本人が「やめるカード」を使わない限り、道は開けるということなのです。
 先日の総本部の鏡開きで館長のとなりでいろいろとお話を伺うことができました。そのときに、
「長年続けているといろんな人間がいなくなったもんだなあ。」という話になりました。そこで私が「やめるカード」の話をすると、館長は「なるほど。わしもそのカードはないんだよ。」と仰りました。そしてその次に館長がいいました。「岡崎、わしには死ぬカードもないんだよ。」・・・おみそれしました。 (H31 1 17)

戻る

新・其の一
 要は負けんこった
 
 平成31年の幕が上がりました。いろいろと気が変わり、またこの「拳のこころ」を書くことにしました。仕事上の立場が変わって丸7年が経ちますが、身辺いろいろなできごとがあり、些事に追われつつ現在に至っております。確実にいえることは、俺も歳をとったなあということですね。その他親や恩師が亡くなり、お世話になった先輩方も次々と第一線を退いていきました。仲間内の話題といえば、健康のことや年金の話ばかり、後は孫の写真の見せ合いですね。
 人生の中でだれもがたいへんなとき、窮地に立つときは必ずあるものです。順風満帆などは、あっても限られた時期でしかないのでしょう。私は子どもの時から面倒に巻き込まれやすい性格で、人の尻ぬぐいばかりやってきたような気がします。だれかに責任を押しつけたり、「自分は悪くない」「オラ知らねえ」などといったりすることができない質でした。そんなとき、いつも頭をよぎることばがあります。
 
  要は負けんこった

 これは漫画「虹をよぶ拳」にでてくる赤垣竜平のセリフです。この漫画は、1969年から冒険王という雑誌に連載された空手少年の漫画です。「空手バカ一代」が少年マガジンに連載される前のものですが、この漫画で大山倍達や極真会館が紹介され、極真空手が世の少年たちに注目された記念の作品です。原作は梶原一騎、作画はつのだじろうという後の「空手バカ一代」のコンビの作品でした。内容は、田舎の新興団地に越してきた都会のガリ勉中学生春日牧彦が、空手を学んでいる赤垣竜平と出会い、空手の魅力にとりつかれてやがて日本一の空手家に成長するお話です。物語のなかで、春日が勉強をそっちのけで空手にのめり込むことで両親がケンカなり、家族関係が壊れてしまうほどになってしまいました。春日自身もやりきれない毎日となり、子どもではどうしようもない状態になりました。それでも父親が理解を示してくれて念願の合宿に参加することができました。
絶対反対の母親としては、それが許せずに合宿中に家を出て実家に帰ってしまいました。合宿では、春日は感動の連続で生きる喜びを感じていたときでした。その時父親から「スグカエレ」という電報が届いたのです。春日は、その内容がどんなことか理解し、絶望的になってしまいます。目の前のものがぼろぼろと崩れ落ちるような気持ちになりました。その時、海岸で自暴自棄になりそうな春日に対して赤垣が「昔の人はいいました。とかくこの世は月には雲がかかりやすく、花には嵐がふきつけるしくみになっているらしい・・・」そこで砂を蹴り上げて「要は負けんこった!」といい放ったのです。春日は、一足先に列車で合宿から帰りました。この続きは実際にこの漫画を読んでください。私は、このシーンが小学生の時から目に焼き付いてしまっています。二進も三進もいかなくなったとき、私は「要は負けんこった!」「要は負けんこった!」と呪文のように唱えて乗り切ったものでした。このことばから、私は「負けない強さ」があるということを知りました。
あるとき、盧山館長が窮地に立ったときがありました。私が館長と二人きりになったときです。館長がその件で少し話をしてくれました。そのとき館長がいいました。「岡崎、大人のケンカをみせてやる」。背筋が寒くなりました。( H31 1 15 )

戻る