其の四十四
楽しいこと・辛いこと
 「楽しいことは何かをしないと続かない、辛いことは何かをしないといつまでも続く」こんな言葉を聞いたことがあります。
 人生には楽しいと思うこと、辛いと思うことがいろいろとあるものです。楽しいことは長く続いてほしいものですし、辛いことは早く終わりにしたいものです。調子のいい話かも知れませんが誰もがそう思うことでしょう。ところが実際はその逆のことが多く、人生思い通りには行かないものなのです。
 今現在楽しいことが多い私ですが、確かにそれが当然と思って何も努力しなかったらたちまち消えてしまうことなのでしょう。たとえば空手の世界がよい例ですが、現在の私には稽古仲間がたくさんいて、稽古の後楽しく酒が飲める仲間もいて、よい先生にも恵まれています。ずーっとこのままで行けばいいなあと思っていても、そんなに甘いものではありません。まず先生がいつまでもそこにいてくれるとは限りませんし、自分もいつまでも健康でいられるとは限りません。また、家族に事故でもあったら空手どころではなくなってしまいます。仲間たちも仕事や結婚など、生活条件の変化によってパッタリと姿を見せなくなることがあります。「空手は生涯の修行」などと豪語していた者が「忙しくてとてもとても・・・」と豹変してしまうのです。どれもこれも仕方がないことで、誰も責めることはできないのですが、あの楽しいひとときが一時の思い出となってしまうことがとても残念に思えます。
 逆に「辛いこと」と言えばだれもが一つや二つ、いえもっとたくさんあることと思います。仕事や友人関係、健康についてなど、人には言えないことがたくさんあるはずなのです。私の場合も、楽しいことばかりのようですが、結構人には言えない辛いこともいくつかあり、「何とかしてしまいたい」と思いつつズルズルと続いているのです。私の何倍も大変な人もいるでしょうから、偉そうなことは言えませんが、「何かをしなければ」ということを1つでも実行しなければ何も変わらないのです。
 例えば、空手が楽しい、もっと練習したいという高校生がいます。しかし、就職活動や受験勉強をほったらかしで空手ばかりしていたら、高校卒業と同時にその「楽しさ」が続かなくなるのです。仕事においても、空手がやれる環境と経済力を維持するためにも、一生懸命働かなければならないのです。人と同じ仕事ぶりでは稽古時間も作れませんから、同じ仕事を短時間でやる工夫も必要となってきます。なかには効率よくテキパキと仕事をしていると、こいつは仕事ができると思われ、どんどん仕事が回ってきたり、役職が上になっていったりかえって仕事が大変になったりする場合もありますが・・・・。
 最近あることから自分の高校時代、内弟子時代をふと考え直したことがありました。これまで自分としては、高校時代は勉強そっちのけで空手に明け暮れ、極真空手にどっぷりとつかった毎日でした。そのほかここには書けないような今時の映画以上のバイオレンスな生活を送っていました。なかなか経験できないよい時代だったと自負しています。私の高校は県下で1、2を争う進学校でした。私はその高校に入ることで親に空手を続けることを承諾させので、中3の最後の三ヶ月はきっちりと勉強したものです。私は1日8時間の勉強を100日間続ければ、絶対に合格できると目標を設定し、実際に貫徹して高校に合格することができました。ところが私の勉強はここまでで、あとは予定どおり空手三昧です。盧山師範にそれだけ魅力があったし、空手が本当に好きでした。空手の他にも映画を作ったり、応援団をやったり、絵を描いたりと忙しい毎日はあっという間に過ぎ、大学受験は全滅しまた。そして浪人という理由で上京し、内弟子となってまた空手三昧。親には3回まで美大を受けさせてくれと頼み込んで浪人生活をつづけ、3度目も失敗しました。盧山師範は、「大学に行くといって福島を出てきた以上内弟子を続けながらとりあえずどこかの大学には通え」と言ってくださったので、道場の近くの大学に何とか滑り込みました。そしてまた、週一大学生をしながらさらに空手に専念するのでした。当時の盧山道場や内弟子の生活の厳しさは、すでに紹介したので重ねて書きませんが、次々と脱落者が出ていく中で自分は不思議と辛いとは思わず、むしろ空手三昧の生活が楽しくてしょうがありませんでした。毎日血尿が出るまで砂袋をたたき、山に籠もったり、顔面を叩き合ったり、骨が折れても稽古を休んだことはありません。おそらく私はこういった修行生活が本当に性に合っているのでしょう。特別根性があるというわけではなく、単に向いていると言うことなのですね。
 そこで私は気づいたのです。私にとって空手に打ち込むことは、実は人生の「逃避」であると。こつこつと勉強したり、社会に出て、上司に理不尽なことで頭を下げたり、客のわがままに振り回されたり、空手が強いとか何も通用しないところで、貧弱な性格の悪い先輩にいびられたりなど、このまま空手の世界にいたら経験しなくともよいことが一般の世界には山ほどあるのです。当時私は川越の指導員をしており、140名の会員を指導し、下手なサラリーマンよりよい収入を得ていましたから、そのまま続けていれば「先生」「師範」と呼ばれ、いい気になって年を取っていったのかも知れません。しかし当時の私は、将来にいくらかの不安を抱きながらも空手三昧の生活にのめり込んでいました。今になって私は、高校時代、内弟子時代と空手に打ち込むことは、実は勉強や社会的な困難から逃避していたのではないかと思ったのです。確かに空手の稽古や内弟子生活が辛くてしょうがない者にとっては、空手はとてもよい修行なのです。しかし、どんなにしごかれてもそれが楽しみでしかない私にとっては技術的な成長はあっても社会的にはさほどのものではないように思えてきたのです。かつて中村日出夫先生が山籠もりの厳しさと強さ、町道場の厳しさと強さの違いについて教えてくれたことがありました。まさにその通りだと思います。今になってようやくそれに気づいた気がします。
 内弟子生活6年目になったとき、大学も何とか落第しないで4年になりました。一応教員の免許を取るためには6月から教育実習ということをしなければならないので、盧山師範に2週間の休みをもらいに行ったときに、「おまえ教員になったら結構向いているかも知れないな。そうだ、教員になれ。」「オ、オス。」という簡単なやりとりで私が教員採用試験を受けることになってしまったのです。「なぜ」「どうして」が言えないのが師弟関係ですので「やるしかない」となったのです。当時でも倍率は10倍を超えていましたので簡単にどうにかなるものではありませんでした。「1回だけ受けてダメなら空手のプロになろうか・・・」という程度の覚悟でしたが、「俺は空手のプロの素質がないと思われているのかなあ」とも思ったりして少し寂しい気にもなりました。何はともあれ師範命令です。「やる以上は・・」ということで、高校受験の時と同じようにノルマを決めて勉強することにしました。川越の指導は生活の糧でしたので、これは週2回だけ継続し、あとは朝、昼、夜の稽古はすべて休みにして、1日平均10時間という計画をたてたのです。毎朝9時から大学の図書館に行き、夜9時の閉館までぶっ通して勉強するのですが、はじめは法律やら専門の用語やらをなまった頭脳が受け付けなくて大変でした。しかし、意地で頑張っているとけっこう何とかなるもので、少しずつ専門的な文章にもなれてきたものです。最後の頃は、日本国憲法の前文がスラスラ書けるまでになりました。
 二カ月がたち、夏の暑い日に試験がありました。福島と東京を受験しましたが、何とか両方合格することができました。新宿の居酒屋で飲んでいたときに内弟子から店に電話が入り、「先輩、教育委員会から封筒が届いています。」「あけてみな。」「合格とかいてあります。」というということになりました。店の中で他の関係ない客まで喜んでくれて、さらに店中で乾杯までしてくれました。盧山師範にも報告し、大変喜んでもらえました。師範から、私が長男であるということで福島に帰るようにと言われました。
 鈍感な私は、ここであることに気づいたのです。福島に帰ると言うことは、次の春で内弟子生活が終わってしまうと言うことなのです。毎日毎日叩いた砂袋や、サンドバッグ、青木公園やラーメン屋の珍来、そしてなにより盧山師範と別れなければならないのです。盧山師範はそれを知っていたのでしょうか。私が教員になると言うことは、私が手元からいなくなってしまうことなのです。もし、それを承知で私に社会人となって空手の修行を続けることが、私にとっての本当の修行になると考えてそうさせたのだとしたら、なんという師の親心なのかと今になって涙が出る思いです。しかし、今それを盧山館長に言ったら「ばかめ、ワシがそんなことまで考えているわけ無いだろう」と笑って済まされてしまうでしょう。
私は、最後の最後まで稽古に打ち込みました。例の10人組手はその仕上げに盧山師範がくれたプレゼントです。別れが近づく頃に盧山師範は、背広を持っていない私に赤羽で背広上下を作ってくれました。内弟子連中は少ない小遣いで、革のベルト、革の靴と財布を買ってくれました。川越の生徒たちはハサミやホッチキスなどの文房具を買ってくれました。先日亡くなられた川越の事務の松澤さんは、「校長になったらつかってね」といって桐の箱に入った白と黒のネクタイをくれました。逃避と言ってしまえばそれまでですが、私は多くの人たちに支えられていたのだなあと、そのときになってしみじみと思ったのでした。このときの盧山道場のみんなの心遣いを思うと中途半端な気持ちで仕事をするわけにはいきませんね。
それから24年が経ちました。その間人生いろいろな試練があるもので、仕事の面では今でも「これでもか」という毎日です。空手も意地になって続けています。幸い埼玉と福島は、そう遠くもないので盧山師範とはしょっちゅう会って御指導をいただいています。私は、仕事と空手のおかげで精神のバランスがとれているのかもしれません。世の中楽しいことばかりでは自分を見失ってしまうものです。仕事も好きでやっているのでこれと言って嫌なことはないのですが、武道の世界には無いような人間模様が見られ、これによって精神のバランスが保たれるのです。人間は精神のバランスが大切です。盧山館長が常々「清濁あわせ飲む」とおっしゃいますが、そのような度量でないと人間偏ってしまうのでしょう。
いつものとおり話があちこちに飛んでいますが、「滞る水はドブになる」という言葉もあります。「これでよい」と思ったときが後退の始まりです。楽しいこと、辛いこと、両方あって人間のバランスはとれるものですが、どちらも努力しだいで、失ったり、続いたりするものです。一生懸命に働いて、家族を大切にして、自分の健康も大切にして、仲間を大切にして、それから好きな空手を一生懸命頑張る。・・・そんな欲張りな人生で・・・いいのかな?

《戻る

其の四十三
三峯のこと その2
 雲取山は標高2017mの山で日帰り登山には手頃な山です。ただし、これは靴を履いた場合に限ります。  裸足で雲取山登山を試みた私たちは、ナップサックにインスタントラーメン(山頂の山小屋で食べる昼食)を 一つ入れ、余裕の出発でした。山道脇の立木を一本ずつ叩きながら皆無言で歩き続けます。山道は特に裸足の足にはきつくもなく、かえって落ち葉が心地よいくらいでした。空手着にナップサックを背負った5人の男達は汗をにじませながら歩き続けました。心の中は大会の勝ち負けなどよりも空手の修行に打ち込めるこの環境に満足し、師の背中を見つめながら無念無想で歩く修行に酔いしれて・・・などというわけないでしょう!
 私たちは少しずつ裸足で登山を試みたことを後悔し始めたのでした。ただ、だれも「痛い」「辛い」の言葉は漏らしませんでした。「いいや辛いのは俺だけではない」「きっと前後の人も辛いはずだ」などと自分の弱さを励ましながらただただ歩くのです。しかし、だれも何も言わないので、時々「他の人は平気なのか」「自分だけが弱いのか」などと不安に襲われたりもしました。心地よかった足の裏がどんどん腫れ上がってくるのが分かりました。ふやけてきたというか、「さつまあげ」でも踏んでいるような妙な感覚が足の裏にあらわれてきました。それでも皆黙々と歩いています。「だれか何とか言えよ〜」と叫びたいほどでした。
 3時間ほど歩いたでしょうか。雲取山の山頂が見えてくる頃、足場は細かい岩が混じって針の山のような足応え(?)に変わってきました。ちょっとした空き小屋があったので、盧山師範が「ちょっと一休みしよう」と言ってくれました。それまでだれもお互いの顔も見ずに歩いていましたが、泣きたいほど足が痛かった私は、「何でもないよ」と言う顔をするのが精一杯でした。その時盧山師範が「いやー足の裏が痛くてまいったよー」「おまえら何にも言わないからワシだけが痛いのかと思ったけど、どうだ?」と聞いてくれました。私たちは精一杯強がっていたのですが、師範の一言で緊張の糸がプッツリと切れ、「押忍(痛いです!)」「オス(痛いです!)」と次々に訴えたのでした。そこでひと口飲んだ水が、それまでの緊張を一気にほぐしてくれました。そして一番先に「痛い」と言ってしまうのも盧山師範の器の大きさなのだと思いました。
 しかし、実際はそんな甘いものではなかったのです。一旦休んでしまった足はどんどん腫れ上がり、火傷でもしたようになってしまったのです。私たちは小屋にあったぼろ切れや持って行ったタオルを足に巻き、やっとの思いで立ち上がりました。雲取山の頂上まであと少しです。皆、気持ちを振り絞って歩きました。ようやく山頂にたどり着いたのですが、雲の中に入ってしまい、せっかくの眺めが楽しめませんでした。実際は楽しむ余裕もないほど足が痛かったのですが・・
 山小屋でとりあえず腹ごしらえと言うことで、持って行ったインスタントラーメンをつくって食べました。それとコーヒーを一杯飲みました。これは本当に美味しかったです。この後の帰り道での地獄を考えると、この一瞬が何と幸せなことかと思いました。
 さて、帰り道になりました。今度は日没との戦いです。午後3時くらいになると一気に暗くなり始め、冷え込みも厳しくなってきます。この辺は夕方には熊が出てくるので絶対に明るいうちに帰るように言われていましたので、焦る焦る!私たちは、また黙々と歩き続けるのでした。はじめはタオルを巻いたことで少し痛みが和らぎましたが、それもつかの間でした。痛みとしびれが混じったような何とも言えない感覚になり、何度もそのまま座り込みたい気持ちになったものです。しかし、日没は待ってくれません。あたりはどんどん暗くなっていきます。走り出したいけれども走れるような道ではないし、第一足が思ったように動きません。山の端に沈もうとする太陽を追いかけるように私たちはただ無言で歩き続けました。文章で書けばこんな程度かも知れませんが、この苦痛が約8時間続いたのです。「拷問ってこんなもんかなあ」「頑張ればこの痛みも慣れる日が来るのかなあ」とかバカなことを考えて気を紛らわしながら歩き続け、薄暗い景色の中に三峯神社の建物が見えたときには、叫びたいほど嬉しかったです。
 こうして私たちの雲取山登山は終わりました。今となってはよい思い出ですが、ただもう黙々と歩き続け、頭の中は「痛い、痛い、痛い!」だけをくり返していました。この山には入る前に本で読んだ比叡山の千日回峯行がどれだけ凄いことかが少しだけ分かったような気がしました。この1か月後にまた三峯に籠もりましたし、次の年も恒例のように籠もりました。今では毎年滝浴び合宿という形で三峯詣では続けていますが、裸足での雲取山の登山はこれが最初で最後でした。もし「もう一度やるか」と言われたら私は迷わず「靴を履いていいですか?」と言ってしまうでしょう。
 今回の項は私の根性のなさを披露したような文になりましたが、盧山師範の上手なところは後戻りできない状態をつくり、そこにエイヤッと飛び込ませてしまうことなのです。暗い山道をただもう痛みに耐えて歩く。しかし途中でやめる訳にはいかない。歩くしかない。それが三峯なのです。

《戻る

其の四十ニ
三峯のこと その1
このことを書こうと思ったのは昨年の暮れだったのですが、いつの間にか年が明けてしまったので、少し時期はずれになってしまいました。しかし、書かねばならぬことなので書くことにしました。
「三峯」という山は、埼玉県と山梨県、群馬県との県境にある山で、かつて大山倍達総裁が修行した山ということから、極真空手の聖地として古くからいろいろな合宿が行われてきました。特に滝浴びがセットの冬の合宿が定番で、毎年これをやらねば年が明けないというほどに常連にはやめられないものとなっています。
私が初めて三峯に行ったのは、盧山道場の内弟子時代、第15回全日本大会前の9月だったと思います。当時内弟子の寮ができて約1年が過ぎた頃で、それまで通いだった内弟子達が住み込みで空手中心の生活になり、朝、昼、晩と稽古に明け暮れ、おまけに週に2回は盧山師範の直接稽古とうれしいやら辛いやらの毎日でした。私は盧山師範の命令で大学に入ってしまったため、週に一度はアパート(膨大な量の本を保管するためにとりあえず東武練馬にアパートを借りていた)に帰るという週に1日だけの大学生という変な扱いの内弟子でした。火曜日の夜だけ川越道場の指導の後帰って泊まり、水曜の午前中だけ大学に行くという生活でした。それでも卒業できたのは大学の同級生たちのお陰です。
その頃「1.2の三四郎」というマンガが人気でした。主人公が新潟の高校を卒業して上京し、住み込みでプロレスの修行をする物語なのですが、先生の桜五郎のシゴキが常識はずれで、厳しいのだけれども笑えるものばかりでした。しかし、私たちの生活はそのマンガがそのままの現実の生活でしたので、笑えるものではなかったのです。マンガを読む度に、現実はこんなんじゃないんだよなあ・・などとボヤきながらも共感できるマンガとして内弟子みんなで回し読みしていました。「盧山師範も読んでいたりして・・」とシゴキの予感を感じたこともありました。逆立ちさせて腹を竹刀でメッタ打ちなどよくやりましたが、毎日が何をさせられるか分からない覚悟の連続でした。
内弟子の生活は、指導員と新米では違っていますが、まず朝の6時から朝練、公園を走ったりして、先輩は立禅、這の稽古を行い、新米は炊事のため寮にもどります。7時半から掃除、8時くらいから朝食です。私は朝の稽古はほとんど太気拳の稽古をしていました。
10時からは内弟子の自主稽古です。週に2回盧山師範の内弟子稽古があり、これは木曜と日曜だったかな?1時過ぎまでぶっ通しの稽古でした。ただもう辛いだけで、時計の針の動きを恨んだものです。師範稽古がないときには、ウエイトや砂袋、サンドバック、型など自分で課題を決めて稽古を約3時間行います。午後1時半から昼食で、この時見る昼の連続ドラマが唯一の楽しみでした。私は川越に火曜と木曜の週2回指導に行き、月、水、金は川口を指導していましたので、移動のある日は2時半に出発し、無い日はそのまま川口で指導までの間砂袋の鍛錬を行いました。川越の指導日には4時半から少年部、7時から一般部と両方指導していました。指導の前後には砂袋を行っていましたので、川口では夕方に3時間、川越では2時間の砂袋を行っていたと思います。一般部の稽古は9時半に終了しますので、1日のうち指導も含めると7時間から9時間の稽古をほぼ毎日行っていたと思います。盧山師範は常々「サラリーマンの方々が1日8時間の仕事をしているのだから、おまえ達は空手のプロなのだから1日8時間の稽古は当たり前と思え」と仰っていました。私などはまだ普通で、現沖縄支部長の平田氏になどは私より1時間多く砂袋を叩いていましたので、10時間の大台に乗る稽古をしていたと思います。
内弟子の稽古の休みは日曜の師範稽古の後から月曜の昼までですので、この時にここぞとばかり遊んだものです。しかし、私は日曜の午後にこっそり中国拳法の道場にも通っていましたが・・・これはこれで息抜きだったかも知れません。
いくら空手が好きだといっても、このような毎日ですから逃げ出すものも多かったのです。結局、私がいた当時の内弟子のうち鳥取の湖山本部長、沖縄の平田支部長以外は、残念ですがすべて逃げてしまったか、やめてしまったようです。
三峯の話しにもどします。全日本を前に「山に籠もる」と盧山師範が突然言い出しました。しかも「裸足で行く。靴は置いていけ。」ということになり、全員裸足で三峯に籠もったのでした。今はなき「民宿みつみね」(盧山師範がご自身の大会前に必ず籠もったところ)に泊まったのですが、師範を含め5人で山に入ったと思います。最初は山になれるためにまず一週間の予定でした。
稽古は、朝暗いうちに起きてまず走ります。ダッシュとウサギ跳びを行い、ヤマトタケルの像の前で立禅を行います。朝日が昇るまで立ち続け、その後は這と練を行います。民宿に戻って朝食をとり、少し休んでから滝浴びに向かいます。約1時間山道を歩いて滝に到着し、基本の突き蹴りを行ってから全員素っ裸になり滝を浴びます。9月といっても凍えるような冷たさで、岩でお尻を切って血が出ても気づかなかったほどです。そしてまた1時間山道を歩いて民宿に戻り昼食となります。昼食はいつもうどんかそうめんでした。
しかしこの山歩き(ほとんど走っていました)が結構な稽古で、盧山師範の足が速くて私たちは全然追いつけなかったものです。しかも裸足ですよ。どこからこの運動神経が出てくるんだと後ろ姿を追いかけながら思ったものです。私など何度も転びました。もう痛いの何のって・・・
昼食後一休みしてからまた山に入ります。全員がナップサックに手製の巻藁を持って行き、山の中で解散し、それぞれが2時間ほど立木に巻藁を縛り付けて黙々と叩くのです。映画「地上最強のカラテ」で盧山師範が三峯山中で立木を叩くシーンがありますが、まさにそれでした。
巻藁が済むと最後は組手です。全員どこからともなく砂利の広場に集合し、一人ずつ全員と連続組手をするのですが、盧山師範を含め錚々たるメンバーでしたのでこれがまた気が抜けない稽古でした。全員が強い相手ですし、当時は顔面有りでしたからだれとやっても必死でした。それに砂利の上なので足は滑りますから、下手な足捌きでは顔面攻撃をよけきれません。私は盧山師範の顔面掌底をまともに食らい、前歯が陥没してしまいました。
体中が痛むのを我慢して民宿に戻り、風呂に入ってから夕食です。差し入れの秩父ワインが一人一本ずつ配られ、それを飲みながら鍋をつつき、泥のように眠るのでした。歯が痛くて噛むものも噛めず、ただもう1日のノルマをこなすのが精一杯でした。それと何よりも裸足で行動していると足の裏が腫れてきて、ブヨブヨになってくるのです。いかに靴を履いた現代人が弱くなったかがよく分かりました。
 合宿の山場として三峯山から遠くに見える雲取山まで10km裸足で往復することになりました。これも裸足でということで、片道10kmしかないのですが、険しい山道ですので、早朝出発して日暮れまでに帰ることは大変なことでした。午後3時を過ぎると暗くなりますし、熊も出るということでした。はじめは余裕を見せて出発しましたが、そんな甘いものではないことにたちまち気が付くのでした・・・・・ 続く

《戻る

其の四十一
素質の話
武術の世界で、『素質』ということは重要な要素です。結論から言うと、結局は素質のある者しか「達人」の域には行けないのです。そんなことを言い切ってしまうと、今現在私も含めて、熱心に稽古に励んでいる人たちがやる気を失うかも知れません。私は「そんなことはないですよ」などと、どこぞの教育者のようなことは言いません。厳しいようですが、現実としてそうなのです。大山倍達総裁、沢井健一先生、中村日出夫先生、盧山館長、塩川先生みな人並みはずれた素質の持ち主であることには誰もが異論をはさむ余地などないでしょう。
私自身、達人など夢のまた夢の存在でしかなく、素質というほどの特別な能力はないと思います。ちょっと何かを言うとすぐに「達人ぶってる」などと揶揄されそうですが、今回は「素質」について述べてみようと思います。
「素質」とは、「生まれながらにして持っている特に優れた能力」とでもいいましょうか。足が速い、力がある、柔軟性がある、など人それぞれです。同じ素質でも足が速いなど個別にわかりやすい身体能力などは自覚できるものですが、「空手が強くなる」などと抽象的な幅の広い表現にあてはまる素質となると、本人もなかなか自覚しにくいものがあります。足が速いから空手が強いかというと必ずしもそうではなく、野球がへたくそでも空手が異常に強い人もいます。これは他の武道やスポーツでも同じことで、自分だけでは知らずに埋もれたままになってしまう素質というものが世にはたくさんあると思われるのです。
例えば、優れた野球の素質があったのにもかかわらず、たまたまサッカークラブに入ってしまったために甲子園の土を踏めずに終わってしまうような人生も数多くあるでしょう。絵の素質がありながら、それを伸ばしてくれる指導者に巡り会えずに「いいものもっているね」などとわかったようなことを言われて小学校の作品展で金賞の張り紙程度で終わってしまう・・・。自分で自覚して伸ばせる人もいるでしょうし、自分から進んでその素質を伸ばしてくれる指導者を捜す人もいるでしょう。先日引退したマラソンの高橋選手も、高校時代は決してオリンピックにでるような素質は見せなかったそうですが、自ら小出監督に押しかけ弟子入りして努力した結果、オリンピック金メダル、世界新記録の樹立など素晴らしい活躍を見せました。高橋選手も自分の可能性に懸ける熱意も素晴らしいけれども、彼女の素質を引き出して開花させる監督の指導力もまた優れた素質なのかも知れません。互いの素質が結びついた結果が金メダルだったのではないでしょうか。
私の話になりますが、私の小学校時代には、高学年になると「男は野球、女はバレー」といった少ない選択肢しかありませんでした。私のように剣道や柔道の道場に通っている子どもも少しはいましたが、小学生はとりあえずスポ少の町内各地区のソフトボールチームに入り、年に一度の町内対抗の大会を目指すのです。今と違って子どもが多い時代ですので、町内の大会とはいえチーム数も多く、たかだか小学生のソフトボール大会でしたが町全体で盛り上がったものでした。私もつきあいでソフトボールチームに入りましたが、子ども数の多いわが北町チームは優勝が至上命令でしたので練習の意気込みはたいへんでした。とはいってもコーチは暇な高校生ですので結構いい加減な練習だったと思います。実は私は知る人ぞ知る「球技オンチ」でしたので、選手になるなどまったく考えておりませんでした。以前も書きましたが、「北町」は子どもの抗争が絶えない地区でしたので、チームに入るということはなかば強制でもありました。子どもなりの「つきあい」もありましたので、私は渋々参加したのでした。ところが下手な私なのですが、球が重くて速いと言うことで一旦はピッチャーになったのですが、ノーコンが直らないと言うことと、練習で爪をはがしたことから今度はセンターに回されました。下手な私がなぜレギュラーになれたかというと、「打てば飛ぶ」というバッティングを必要とされたからなのでした。北町チームは上手い選手がそろっていたので、外野まで球を回さないから大丈夫ということでセンターなのでしたが、練習試合でここ一番にセンターに飛んできてしまい、後に転がしてしまった私はあせってイチロー張りの強肩でホームを付くと思いきや大暴投、相手に大量得点を許してしまったのです。仲間からは非難囂々でした。それでも私をレギュラーから外すことはなく、ファーストで使ってくれることになりました。「結構いい奴らだなあ」なんて思ったりしたものです。
いよいよ大会当日となりました。私もヒヤヒヤながらぼろを出さずにチームは勝ち進み、決勝まで行きました。最終回、私のチームが1点リードのまま、相手の攻撃でランナー2、3塁ツーアウトの場面。相手の最後のバッターが立ち、打った球がショートゴロ、ファーストに投げて楽々アウトでゲーム終了になると思いきや、ファーストの私が後逸、ランナー2人生還しサヨナラ負け・・・・・心臓が止まるような場面でした。私が球技に見切りをつけたのはこの瞬間でした。
ところが武道一筋になった私が中学3年生の時、受験を前にある来客があったのです。地元の私立高校の野球部の監督が私の自宅に訪問してきたのです。内容は、「野球の推薦で私が欲しい」ということなのです。その高校は甲子園の出場を果たしたばばかりの強豪校で、私など剣道部の人間でしたのでまったく勘違いの勧誘かと戸惑いました。数日前にその高校の剣道部の監督もやって来て剣道の推薦という勧誘を断ったばかりでした。私は別な県立高校への進学を目標にしていましたので、はっきりと断ったのですが、その監督は、キャッチャーミットを出して私の球を受けてみたいと言って私を外に連れ出しました。この監督に球を受けてもらうなど、この地区の野球少年たちに話したらうらやましがられるような大事件です。私は、せっかくなので思い切り何球か投げましたが、監督は言いました。「中学の経験など関係ない。私が欲しいのは素質だ。この素質が欲しい。」しかし私は高校に行ったら空手に専念することを決意していましたので、剣道すらやめるかどうか迷っていたところです。野球など考えたこともありませんでした。私はすべての誘いをきっぱりと断って自分の希望する高校を受験したのでした。
今思えば、私の素質というものは、空手に向いたものだったかは疑問が残ります。もしかしたら野球は論外として、剣道のほうが向いていたかも知れません。「もしか」「たら」は考えるものではないと思いますが、あらゆる自分の可能性よりも、結局は当時の「大山倍達」「極真空手」「盧山初雄」の魅力が素晴らしかったのだと思うのです。自分の素質や能力云々よりも「この世界に懸けてみたい」という意識のほうが強かったのです。
6〜7年前に学校の廊下にあるポスターが貼ってありました。何のポスターだったかは覚えていませんが、それはサッカーの三浦知良さんが中学を卒業して、ブラジルに留学のために出発するとき静岡のある駅のホームで撮った一枚の写真でした。制服を着て、坊主頭で、サッカーボールを小脇に抱えていました。あどけない中学生の「カズ」がそこに写っていました。不安と期待が入り交じった表情が印象的でした。15の春にこの決断をした彼の表情は、廊下でたまたまそのポスターを見た私を釘付けにしたものです。「今、こんな顔、こんな目の中学生がどれだけいるのだろうか。」そればかりか、大人の自分自身も我に返る思いでした。
自分の「素質」や「可能性」という見えないものをとことん試そうと退路を断って挑戦する若者が少なくなりました。私も自分のことはさておき、仕事柄「素質」のある人間を見分ける能力は付いてきたと思います。「こいつは空手をやったら絶対にモノになるなあ」と思う生徒が時々います。しかし、その子が空手をやるかどうかは本人の意志ですし、出会いもありますから強制できるモノではありません。講習会などでも、よその支部の生徒で「これは」という人材に出会うこともあります。しかし、素質通りに行くことはまれなモノで、「本人の意志」と「出会い」がピッタリと合わなければ、すべては埋もれたままの素質でしかないのです。私は「あしたのジョー」の丹下団平と矢吹丈の出会いがとても好きです。まさに運命の出会いですね。ただし、こんな出会いがそこここに転がっているわけではありません。「努力にまさる素質無し」という言葉もあります。「継続は力なり」など素晴らしい言葉もあります。すべて素質のない人間への慰めのようにもとれますが、要は本人が何を目指し、何に満足感を得るかが大切なのです。
武道というものは、結局は自己の鍛錬が目的ですから、他人との競争ではありません。1つでも自分が向上するものがあればそれでよいのです。疲れた体に鞭打って、木刀を毎日100本振る。これだけでも修行になるのです。100本を振り終えたときに、「ああ今日もよい稽古ができた」とそう思える心もまたすばらしい「素質」なのかもしれません。

《戻る