其の四十一
素質の話
武術の世界で、『素質』ということは重要な要素です。結論から言うと、結局は素質のある者しか「達人」の域には行けないのです。そんなことを言い切ってしまうと、今現在私も含めて、熱心に稽古に励んでいる人たちがやる気を失うかも知れません。私は「そんなことはないですよ」などと、どこぞの教育者のようなことは言いません。厳しいようですが、現実としてそうなのです。大山倍達総裁、沢井健一先生、中村日出夫先生、盧山館長、塩川先生みな人並みはずれた素質の持ち主であることには誰もが異論をはさむ余地などないでしょう。
私自身、達人など夢のまた夢の存在でしかなく、素質というほどの特別な能力はないと思います。ちょっと何かを言うとすぐに「達人ぶってる」などと揶揄されそうですが、今回は「素質」について述べてみようと思います。
「素質」とは、「生まれながらにして持っている特に優れた能力」とでもいいましょうか。足が速い、力がある、柔軟性がある、など人それぞれです。同じ素質でも足が速いなど個別にわかりやすい身体能力などは自覚できるものですが、「空手が強くなる」などと抽象的な幅の広い表現にあてはまる素質となると、本人もなかなか自覚しにくいものがあります。足が速いから空手が強いかというと必ずしもそうではなく、野球がへたくそでも空手が異常に強い人もいます。これは他の武道やスポーツでも同じことで、自分だけでは知らずに埋もれたままになってしまう素質というものが世にはたくさんあると思われるのです。
例えば、優れた野球の素質があったのにもかかわらず、たまたまサッカークラブに入ってしまったために甲子園の土を踏めずに終わってしまうような人生も数多くあるでしょう。絵の素質がありながら、それを伸ばしてくれる指導者に巡り会えずに「いいものもっているね」などとわかったようなことを言われて小学校の作品展で金賞の張り紙程度で終わってしまう・・・。自分で自覚して伸ばせる人もいるでしょうし、自分から進んでその素質を伸ばしてくれる指導者を捜す人もいるでしょう。先日引退したマラソンの高橋選手も、高校時代は決してオリンピックにでるような素質は見せなかったそうですが、自ら小出監督に押しかけ弟子入りして努力した結果、オリンピック金メダル、世界新記録の樹立など素晴らしい活躍を見せました。高橋選手も自分の可能性に懸ける熱意も素晴らしいけれども、彼女の素質を引き出して開花させる監督の指導力もまた優れた素質なのかも知れません。互いの素質が結びついた結果が金メダルだったのではないでしょうか。
私の話になりますが、私の小学校時代には、高学年になると「男は野球、女はバレー」といった少ない選択肢しかありませんでした。私のように剣道や柔道の道場に通っている子どもも少しはいましたが、小学生はとりあえずスポ少の町内各地区のソフトボールチームに入り、年に一度の町内対抗の大会を目指すのです。今と違って子どもが多い時代ですので、町内の大会とはいえチーム数も多く、たかだか小学生のソフトボール大会でしたが町全体で盛り上がったものでした。私もつきあいでソフトボールチームに入りましたが、子ども数の多いわが北町チームは優勝が至上命令でしたので練習の意気込みはたいへんでした。とはいってもコーチは暇な高校生ですので結構いい加減な練習だったと思います。実は私は知る人ぞ知る「球技オンチ」でしたので、選手になるなどまったく考えておりませんでした。以前も書きましたが、「北町」は子どもの抗争が絶えない地区でしたので、チームに入るということはなかば強制でもありました。子どもなりの「つきあい」もありましたので、私は渋々参加したのでした。ところが下手な私なのですが、球が重くて速いと言うことで一旦はピッチャーになったのですが、ノーコンが直らないと言うことと、練習で爪をはがしたことから今度はセンターに回されました。下手な私がなぜレギュラーになれたかというと、「打てば飛ぶ」というバッティングを必要とされたからなのでした。北町チームは上手い選手がそろっていたので、外野まで球を回さないから大丈夫ということでセンターなのでしたが、練習試合でここ一番にセンターに飛んできてしまい、後に転がしてしまった私はあせってイチロー張りの強肩でホームを付くと思いきや大暴投、相手に大量得点を許してしまったのです。仲間からは非難囂々でした。それでも私をレギュラーから外すことはなく、ファーストで使ってくれることになりました。「結構いい奴らだなあ」なんて思ったりしたものです。
いよいよ大会当日となりました。私もヒヤヒヤながらぼろを出さずにチームは勝ち進み、決勝まで行きました。最終回、私のチームが1点リードのまま、相手の攻撃でランナー2、3塁ツーアウトの場面。相手の最後のバッターが立ち、打った球がショートゴロ、ファーストに投げて楽々アウトでゲーム終了になると思いきや、ファーストの私が後逸、ランナー2人生還しサヨナラ負け・・・・・心臓が止まるような場面でした。私が球技に見切りをつけたのはこの瞬間でした。
ところが武道一筋になった私が中学3年生の時、受験を前にある来客があったのです。地元の私立高校の野球部の監督が私の自宅に訪問してきたのです。内容は、「野球の推薦で私が欲しい」ということなのです。その高校は甲子園の出場を果たしたばばかりの強豪校で、私など剣道部の人間でしたのでまったく勘違いの勧誘かと戸惑いました。数日前にその高校の剣道部の監督もやって来て剣道の推薦という勧誘を断ったばかりでした。私は別な県立高校への進学を目標にしていましたので、はっきりと断ったのですが、その監督は、キャッチャーミットを出して私の球を受けてみたいと言って私を外に連れ出しました。この監督に球を受けてもらうなど、この地区の野球少年たちに話したらうらやましがられるような大事件です。私は、せっかくなので思い切り何球か投げましたが、監督は言いました。「中学の経験など関係ない。私が欲しいのは素質だ。この素質が欲しい。」しかし私は高校に行ったら空手に専念することを決意していましたので、剣道すらやめるかどうか迷っていたところです。野球など考えたこともありませんでした。私はすべての誘いをきっぱりと断って自分の希望する高校を受験したのでした。
今思えば、私の素質というものは、空手に向いたものだったかは疑問が残ります。もしかしたら野球は論外として、剣道のほうが向いていたかも知れません。「もしか」「たら」は考えるものではないと思いますが、あらゆる自分の可能性よりも、結局は当時の「大山倍達」「極真空手」「盧山初雄」の魅力が素晴らしかったのだと思うのです。自分の素質や能力云々よりも「この世界に懸けてみたい」という意識のほうが強かったのです。
6〜7年前に学校の廊下にあるポスターが貼ってありました。何のポスターだったかは覚えていませんが、それはサッカーの三浦知良さんが中学を卒業して、ブラジルに留学のために出発するとき静岡のある駅のホームで撮った一枚の写真でした。制服を着て、坊主頭で、サッカーボールを小脇に抱えていました。あどけない中学生の「カズ」がそこに写っていました。不安と期待が入り交じった表情が印象的でした。15の春にこの決断をした彼の表情は、廊下でたまたまそのポスターを見た私を釘付けにしたものです。「今、こんな顔、こんな目の中学生がどれだけいるのだろうか。」そればかりか、大人の自分自身も我に返る思いでした。
自分の「素質」や「可能性」という見えないものをとことん試そうと退路を断って挑戦する若者が少なくなりました。私も自分のことはさておき、仕事柄「素質」のある人間を見分ける能力は付いてきたと思います。「こいつは空手をやったら絶対にモノになるなあ」と思う生徒が時々います。しかし、その子が空手をやるかどうかは本人の意志ですし、出会いもありますから強制できるモノではありません。講習会などでも、よその支部の生徒で「これは」という人材に出会うこともあります。しかし、素質通りに行くことはまれなモノで、「本人の意志」と「出会い」がピッタリと合わなければ、すべては埋もれたままの素質でしかないのです。私は「あしたのジョー」の丹下団平と矢吹丈の出会いがとても好きです。まさに運命の出会いですね。ただし、こんな出会いがそこここに転がっているわけではありません。「努力にまさる素質無し」という言葉もあります。「継続は力なり」など素晴らしい言葉もあります。すべて素質のない人間への慰めのようにもとれますが、要は本人が何を目指し、何に満足感を得るかが大切なのです。
武道というものは、結局は自己の鍛錬が目的ですから、他人との競争ではありません。1つでも自分が向上するものがあればそれでよいのです。疲れた体に鞭打って、木刀を毎日100本振る。これだけでも修行になるのです。100本を振り終えたときに、「ああ今日もよい稽古ができた」とそう思える心もまたすばらしい「素質」なのかもしれません。
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