其の四十
やりくりの話
「やりくり」という言葉の意味は、広辞苑では「不十分な物事を種々に工夫して都合をつけること。」とあります。ものの本には「槍繰り」すなわち長い槍を巧みに操ることを語源としているともありました。本当かどうかはわかりませんが意味としてはわかりやすいと思います。
現代社会で、武道、武術の修練を続けていくためには「やりくり上手」でなければならないとしみじみ思うようになりました。私自身については、よく「空手や古武道などあれもこれもいったい何時稽古しているのですか?」と聞かれますが、1日の時間計算を稽古時間を差し引いて考えることにしている私には何とかなっているのですが、その内容を人に教えても理解されないと思うので特に詳しくは言いません。私の娘が幼稚園の頃に「お父さんのお仕事は?」と誰かに聞かれて「練習」と答えたことがありますが、小さな子どもがそんなことを言うような生活をしていると思えばわかりやすいかもしれません。
さて、今回「やりくり」というテーマを取り上げた理由は、最近の小学生や中学生が、「陸上が忙しくなったから・・・」「バスケが忙しいから・・・」といって空手をやめることが多くなってきたからなのです。子どもの意志というよりは大人の意志が強く働いているようで、目先のことに振り回されて子どもの能力を本当に伸ばそうとしているのか疑問に思うのです。1つは少子化の影響で、どのスポーツや習い事も子どもが少なくなっており、野球やサッカーなどの大人数の団体チームが、やっとのことでメンバーがそろうという現状があります。また、小学校や中学校の1〜2年でそれなりに結果を出したい指導者たちは、自分の指導以外の場所に行かせたくないという気持ちも強くなってきました。親も学校の先生の言うことは大事ですので、「そのとおりです」とすぐに結論を出してしまいます。子どもにとっては何が一番良いのでしょうか。
この考えは私独特のものかも知れませんので、誰かに押しつけるつもりはありません。ただ、武道の修行と考えると5年、10年と続けてはじめて一人前(入門かな?)と言えるので、2〜3年でやめてしまうのがもったいないと思うのです。まあ、子どもの頃のたしなみ程度と考えれば何も何年間も縛ることはないと思うので、それなりの節目でやめて良いとは思います。ただ「やりくり上手」になることで、本人の意志さえあれば「続ける」ことは可能なのです。本人の問題もありますが、大人の価値観で「集中する」「あれもこれもと大変」といったことを変に振りかざすことで、「やれる」ことを「やれなく」してしまうのです。私は生徒に「みんなと一緒にサッカーをやって疲れて帰って、他のみんなが家でゴロリと横になってテレビを見ている時に、自分は体育館で歯を食いしばってキックミットを蹴っている。その時に他のみんなにはない根性が付くんだ。」と教えています。無茶な理屈かも知れませんが人と同じことをやっていたのでは人並の根性しか身に付かないと思うのです。ただし、「サッカーを毎日夜の9時までやって、朝練も毎日です。」なんて言われたらそれ以上やれとは言えませんが・・・私自身も小学校から空手と剣道を両立してやっていましたが、さすがに高校に入ってからは盧山館長の稽古とインターハイ常連だった剣道部とは両立が難しく、剣道部の入部をあきらめたこともありました。内弟子時代など1日平均で8時間の稽古(指導も含めて)ですから、他のことなどやっている暇などありませんでした。それでもウエイトのジムに週2回、中国拳法の道場に週1回は内弟子稽古の他に通っていました。削るのは睡眠時間だけですね。剣道も就職してからは復活し、居合も並行してやり出して今に至っています。高校時代に、空手の道場に行くまでの少し空いている時間を利用して柔道部にも通っていましたので、就職してからは柔道もやる機会が結構あり、それこそ「何時やっているんですか」の生活となっています。
あれもこれもとやっていると中途半端になると思っている人もいると思いますが、実際は逆なもので、まず精神的な切り替えと集中力がつくものです。また、人と違う世界を持つことで、考え方の幅も広がりますし、単純に体力も付いてきます。中学校の部活動などは2年と少しの期間で区切りとなってしまいますが、武道の世界は長く続けることで得るものがどんどん増えていきます。もちろん辛い稽古もますます辛くなるので、良いことばかりではありませんが・・・
私は沢井先生の「若いうちは何でもポケットに入れておけ。いつか必ず役に立つときが来る。」という言葉が好きです。「後で」「そのうち」とお化けはでたことがないとも言いますが、やれるときに何でもやっておくことが特に若いうちは大切なのだと思うのです。海外のスポーツがなぜ強いかというと、子どものうちはいろいろなスポーツを経験させるからだとも言われています。子どもの可能性というものは無限にあるのですから、大人のエゴで1つに押し込めてしまうことは最大の罪だとも言えます。大人自身も、仕事があるから、付き合いがあるからといって自分のやるべきことから逃げてしまうのが現実です。それは自分が子どもの時に「野球だけ」とか「1つに打ち込む」といった偏った精神論のなれの果てかも知れません。
偉そうなことを書くと私も自分の首を絞めかねないので、今回はこの辺にしておきます。ただいま夜の8時20分です。ようやく仕事が終わりました。今日はウエイトと杖の稽古を予定しています。本当はジムでウエイトをやってから帰る予定でしたが、仕事が長引いたのでジムには行けなくなりました。したがって自宅の道場でノルマを果たさなくてはなりません。これらのことをこれからの時間ですべてこなさなければならないのですが、皆さんならどのような順番で、それぞれどれくらいやろうと思いますか?もちろん明日の朝の稽古も出勤(朝6時40分)前に行います。
これこそ「やりくり」の真骨頂ですか・・・でも結構疲れますけどね。

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其の三十九
追悼 ポール・ニューマン
ここのところ私の若い頃の思い出の人々がどんどん亡くなっていくので、それぞれに追悼の意を表す暇がないほどです。でもポール・ニューマンについては少し書いてみようと思います。
ポール・ニューマンと言えばやはり「スティング」と「明日に向かって撃て」です。「スティング」は私が将来映画監督になりたいなどと思ってしまったきっかけの映画ですからこれについて書かないわけにはいきません。私は小学校の時に将来「仮面ライダー」になりたいと本気で思ったことがあり、どうやればなれるのか真剣に考えたものでした。しかし、現実の世界ではないことがわかると(当然!)次はそんな「お話」を作る側に気持ちが傾いていったのです。
もともと絵を描くのが好きだった私は、ちょうど藤子不二雄さんのトキワ荘時代を描いた「まんが道」などにどっぷりとつかり、「俺は将来漫画家になる!」などと本気で考えたものでした。あちこちの雑誌にイラストを投稿したりして何度か入選したこともあります。小学校の高学年から高校卒業まで、結構な作品を描きためたものでした。高校時代に美術部に所属し、美大を三度も受験したことなどは、今では誰も信じてくれないような過去です。
漫画家志望については、「背景」を描く技術に行き詰まり(所詮子どもですから当然)、映像の世界に興味が移っていったのです。私の家は映画大好き家族でしたので、子どもも映画は夜更かしOKでした。当時はほとんど毎日のようにテレビで映画の時間があり、まあいろいろな映画を観たものです。映画について語ると「映画のこころ」になってしまいますのでそれは控えますが、『映画の出来』という一言で「これだっ」という出会いが「スティング」だったのですね。映像、ストーリー、音楽、役者、どれをとっても完璧でした。ジョージ・ロイ・ヒル監督のこだわりが結集した作品だったと思います。おかげで映画づくりにはまってしまった私は、近所の写真屋に弟子入りし、8ミリカメラの撮影や編集の技術を教えてもらったものです。高校時代は、郡山に下宿して空手三昧の生活ではあったのですが、ときどき実家に帰ると夜通し編集に没頭し、部屋は吊したフィルムでお化け屋敷のようになっていました。タコだらけの手で細い8ミリフィルムを切ったり繋いだりしたことが懐かしいです。結局は経済力のなさが挫折の原因となりました。当時は8ミリ映画など高校生の経済力では出来る代物ではなかったのです。だから、高校に通う列車の中などでカンパをしたりして金を集め、仲間達と60分ものの大作(?)を作ったのが最後でした。しかしこの時の経験は、今の仕事に就いてから結構役に立っていますから、何でもとことんやっておくものですね。
「明日に向かって撃て」はまた同じ監督の作品なのですが、実在の人物(ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド)を題材にしたアメリカの西部劇の傑作です。「スティング」と同じポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのコンビが出演しています。いわゆる西部劇時代末期の実話の映画化なのですが、アメリカという国に法と秩序が行き渡るようになり、いわゆる「無法者」と呼ばれる連中が次々と廃業する中、昔ながらの銀行強盗をくり返し、追いつめられながら最後は銃弾の中に飛び込んで行った2人の若者のお話です。はじめに原作を読んで感動し、実際に映画を観たのは19歳の時です。たしか池袋の映画館だったと思います。時代の変わり目の若者のそれぞれの姿がとても心に残りました。「俺たちに明日はない」とか、最近では「ラストサムライ」なども同種(?)のものかも知れませんが、何といってもポール・ニューマンの名演技が群を抜いていました。「かっこいい男」の姿を見たような気がしました。このころに「スラップショット」などという映画にも出演していたので、早速見に行ったものでした。
私は、実在の人物や事件が映画化されたと言うことで、この映画の史的事実についていろいろと本を買いあさって読みました。アメリカの歴史にはまった私は、内弟子時代の地獄の稽古の合間を縫って池袋の芳林堂書店に通ってだいぶ立ち読み(金がないので)をさせていただきました。すぐにはまってしまう私は、歴史について関心が高くなり、アメリカにかかわらずいろいろな本をかじり読みしたものです。そのうち駅で買った小説「竜馬がゆく」にどっぷりつかってしまい、現在の職業にたどり着いたと言えるでしょう。
「スティング」という作品は、映画としての完成度が高く、まさに名作といえるものですが、登場人物の個性や生き方など、いろいろと学ぶことがある映画でもあります。それぞれが特技を持ち寄って大仕事をするということが根っから好きな私は、それを仕切っているポール・ニューマンの役の男に憧れたものでした。「明日に向かって撃て」という映画は、時代の流れに逆らっていく(ついていけない)若者の姿が何とも格好良く悲しげに見えたものでした。この作品からは「自分ならどうする」という問いかけをたくさんもらったような気がします。ポール・ニューマンという偉大な役者のお陰で、私は10代後半の不安定で多感な時期に、たくさんのことを学ばせてもらいました。ポール・ニューマンとその2つの作品に心より感謝しています。
でも今だからしみじみとこんなことを書いていますが、実際の当時は、金がない、ひもじい、でも内弟子の稽古は地獄で毎日が血尿でした。そんな毎日の隙間にちらっと考え事をさせてくれたのがこれらの映画だったのかもしれません。

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其の三十八
追悼 赤塚不二夫
このページのネタが結構たまったまま横着しているうちに大事件が起こりました。赤塚不二夫さんが亡くなったのです。以前食道ガンと言うことでウイスキーかなんか飲みながら記者会見をしている姿を覚えていましたが、ああとうとう亡くなったかあ・・・という感じでした。ちょうど私は福岡県で琉球古武道の稽古をしていたときで、朝稽古が終わって朝刊の一面の記事で知ったのです。
赤塚不二夫さんといったら「天才バカボン」が代表作ですが、私的には「おそ松くん」ですね。昭和30年代頃の少年達の生活が題材なのですが、赤塚さんの漫画から一貫して感じることは、決して世間で言うようなナンセンスなギャグなどではなく、貧乏に負けない元気なパワーがどのキャラクターからもあふれていることなのです。「チビ太」なんて貧乏な子どもの象徴のようなもので、それでも元気でイタズラをしたりして活躍します。「イヤミ」は、フランスに行ったこともないのにフランスがえりを気取ってる訳なのですが、靴下に大きな穴が空いていたりして、意地悪なオヤジのようで精一杯痩せ我慢をしているのが子供心にもわかりました。物語もバカふざけというよりは、道徳的な教訓にあふれるもので、涙をこぼすような良い話しもありました。今、手元に1972年版の「おそ松くん全集」がありますが、「チビ太の花のいのち」なんて小学校の道徳の授業で使える話です。
「痩せ我慢」ということばがこの当時の日本の原動力になったような気がします。戦争に負けて10年ほどして、少しずつ日本は復興し、昭和30年頃から高度成長と呼ばれる時代になりました。それでも一般庶民はまだまだ貧しくて、子どもたちは空き地に群れて遊ぶだけです。ただ日本は少しずつ発展の兆しが見られ、東京オリンピック、鉄腕アトム、大阪万博と世界に飛躍する手応えを子どもたちも感じ取っていたはずです。そんな頃に赤塚漫画が子どもたちの心をつかんだのでしょう。「もーれつア太郎」なんて、子どもが八百屋をやっているんです。「いつ学校に行っているのかなあ」と時々思ったものですが、「でコっ八」「ニャロメ」「ケムンパス」などのキャラクターが次々と登場してきました。今思えばおかしなキャラクターですが、私にすれば決して空想の産物ではなく、「実際にそれっぽい奴いたよなあ」というものばかりです。誰もが貧乏で、痩せ我慢をしながら元気にふるまっている日本人の姿が感じられました。今の豊かになった日本が失った姿かも知れません。
この当時は、赤塚漫画だけではなく、「貧しさと元気」を表現した少年漫画が次々と登場しました。「夕焼け番長」などその典型です。大人の世界ではやっぱり植木等の映画がその象徴といえるでしょう。やがて、「あしたのジョー」「空手バカ一代」と続いていくと考えるのはちょっと手前味噌でしょうか。
赤塚不二夫といえば、「トキワ荘」という豊島区にあったアパート時代の逸話が有名です。ここには、手塚治虫さんをはじめ石森章太郎、藤子不二雄といった、歴史に残る漫画家達が、若い時代に共同で住んだアパートなのです。「トキワ荘」については、小学生の時に藤子不二雄の「まんが道」を何度も何度も読んで、憧れたものでした。私が空手と出会う前の、まだ武道の世界を知らない頃の憧れでした。「まんが道」に出てくる反射幻灯機など、小学生の時に実際に作ったものです。押し入れの中で、友達と実際に映してみてうまくいったときはうれしかったですね。私は、志を持った若者たちが狭い空間に共同で生活するような時代が好きで、水滸伝の梁山泊とまでは言いませんが、そのような経験を持つことに憧れたのかも知れません。最近娘の付き合いで見た嵐の「黄色い涙」なんてその通りの映画でした。まさに1960年代の若者の姿を描いていました。
「オッいいもの見たな」という感じでした。
盧山館長も水滸伝が好きで、内弟子の寮も梁山泊にひっかけて「盧山泊」と名付けたくらいでした。ここも全国からいろいろな素性の若者が住みついて、泣いたり笑ったりの修行生活を送っていました。私がいた頃は最も多いときで一部屋に13人が生活していましたが、ベッドが6つしかなく、ほとんどが床にごろ寝の生活でした。一週間で逃げるものもいました。辛い部分もありましたが、私はそんな環境が結構好きで逃げずに頑張れたのでしょう。6年間の内弟子生活でともに過ごした内弟子(寮生)仲間のうち、現在も空手を続けているものは4人です。
話を赤塚不二夫さんにもどします。「天才バカボン」という不朽の名作がありますが、第一作目のタイトルが「もしもし早くうまれておいで」というものでした。これは主人公(のはずだった)バカボンに天才の弟が生まれるというお話しなのですが、「4÷2=」は「よわるにィ」などというダジャレの連発です。しかし物語の最後にバカボンがママに受話器のコードを握らせておなかの中の弟に話しかける場面があり、結構しんみりする第一作目だったのでした。今時の家族がちょっと見失ったものがこの作品の随所に見られると思うのは私だけかな? 赤塚不二夫傑作集(立風書房刊)のあとがきに「天才バカボン雑記」という赤塚さんの文章が載っていました。
『 「天才バカボン」を「少年マガジン」に連載しはじめたのは、昭和42年の4月だった。
このとき、「おそ松くん」は連載丸5年を経て、人気のほうはかわりなかったが、そろそろ新しいものを、と考えていた頃だった。
(中略)
ぬけた男を主役にすえることは、喜劇やマンガの常道だが、私の以前の作品はそれがなかった。もっともワキ役にそんな人物をだすとたいがいうまくいったし、藤山寛美の新喜劇をみたり、落語を聞いたりしていて、あの味をマンガの中に拡大して描きたいと思っていた。
そこで、徹底したお人好しのバカと対極に、頭脳明晰なキャラクターを配するという設定で、「天才バカボン」は始まった。
しかし、タイトルだけはうまくいったが、天才であるハジメの設定はさっぱり生きてこないで、バカボンのおやじをいかに面白く動かすかということに、ウエイトがかかっていってしまった。天才はマンガの中では薬味にはなっても、主食にはならないのだ。
(中略)
いろいろな前衛的なギャグに挑戦してみた。だがこれは、オーソドックスなギャグを愛する人たちからは、大変な不興を買い、憎しみを込めた手紙をたくさん頂戴することに相成った。 曰く、
「手塚治虫は貴族の出、赤塚不二夫は乞食の出云々・・・」
私が満州生まれであることからの勘違いで、
「おまえは中国人のくせに日本人をバカにしたマンガをかきやがって・・・」 』

名作の陰にはいろいろな思いや苦労があったようです。

 赤塚不二雄さんが亡くなったことによって、また昭和の元気な日本人が遠い昔になってしまったような気がします。赤塚さんの死を惜しむ人たちがたくさんの言葉を贈っているようですが、こんな話しがあります。幕末に咸臨丸がアメリカに向けて出航する際に、艦将の木村摂津守の屋敷に多くの人が押しかけて人だかりができていたそうです。それは木村さんの航海の無事を祈るためにお札やお守りを持って訪ねてきた人ばかりで、身分の低いものなどはずっと離れたところで土下座をして拝んでいたそうで、木村さんはそのような人までも一人一人御礼のあいさつをしてお酒を出したということです。それを見ていた艦長の勝海舟が、木村さんのその時の様子に感激し、「人間、学問をしたとか威厳を持つとか、いってみたところで、徳の前にはから値打ちがないでんしょう。」と木村さんの人徳を讃えたそうです。木村摂津守は、咸臨丸渡米にあたり、彼の地での不測の事態に備え家財の一切をドルに替えて持って行ったそうです。そしてそれをすべて使い果たし、無一文で帰国しました。
 赤塚さんの業績と木村摂津守を重ねることには無理があるかも知れませんが、世の評価とはどこにあるかわかりません。赤誠を持って事に当たる姿には必ず多くの人が感銘を受け、後世に語り継ぐものです。咸臨丸もニャロメも日本人の「痩せ我慢」の心意気なのです。

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其の三十七
生きる力 生かす力
今、日本の教育界では「生きる力」の育成を掲げて、あらゆる実践を行っています。体験的な活動を重視し、学力の向上を図り、変動する社会に積極的に対応できる国民の育成・・・・うっ!ベロかんじまった。とどのつまりは、不安定な社会に負けない子どもを育てろと言うことなのです。
確かに今時の子どもたちは、昔に比べて社会体験に乏しく、集団生活の中で個性を伸ばしていく、自らの存在感を確立していくことが苦手かも知れません。昔は子どもも多くて、一人一人に手をかけることが不可能だったので、今のような細々とした指導はできなかったのでしょう。子どもたちでしのぎを削ってそれぞれが自分自身を鍛え上げていったのかもしれません。遊ぶ道具などあまりありませんでしたので、自分たちで遊ぶ場所を探したり、遊ぶ方法を考えたり、遊ぶ道具を編み出したりしました。メンコ(当地ではパッタといいますが)やコマや将棋など、ご当地ルールがいろいろあり、よそで遊ぶときにはルールを確認してからでないと間違いなくケンカになりました。ケンカにならないコツは、強引に押し切るか、相手の言い分を聞いて妥協点を見つけるか、全くの言いなりになるかのどれかですね。どれを選ぶのかは、相手によるか、自分のそのときの状況か、そのことについての道理によるか、理由は様々です。要は遊んで楽しければよいのです。
「ドラえもん」という漫画がありましたが、あの漫画の登場人物はそれぞれ子どもの特徴をうまく分類していると思います。ジャイアン、スネ夫、のび太、しずかちゃんそれぞれが「生きる力」を身に付けていると思います。「生きる力」とは、人それぞれが同じものではなく、強者は強者なりに、弱者は弱者なりに生きるための能力であり、それぞれに合ったスタイルを持っているのだと思うのです。ところが、どうも「個性尊重」といいながら同じ価値観でくくりたがるのが当世の悪い風潮のような気がします。
人間には、必ず自分の役割があるものです。職場での役割、学校での役割、友達の中での役割、家族の中での役割、社会の中での役割など、皆同じではありません。「役割」というものは、他人に与えられるものと自分で見つけるものがあります。人生の幸せとはどこにあるかわからないものです。肩書きなど仮の姿でしかありません。「社長」「社長」とおだてられてきた人が、その座を退いたときにどれだけの人が付いてくるのでしょうか。前にも書きましたが、人は一人で生きていけるものではなく、多くの人に「生かされている」ということに気づくべきなのです。そうすると、立場を越えて自分を「生かしてくれる」人たちに感謝する心が芽生えてくるものなのです。感謝するということは、他者の存在を尊重することにつながります。他者の立場や考えを尊重することは、他者を生かすことに他なりません。すなわち自分を「生かす」ことは他を「生かす」ことなのです。結局話は最初にもどりますが、「生きる力」とは「生かす力」なのです。私は盧山館長にどれだけ生かされてきたか。極真館の仲間にどれだけ生かされてきたか。そして家族にどれだけ生かされてきたか。あげればきりがありません。
私は学校に教育実習生が来ると、必ず自分のクラスで引き受けます。どちらかというと実習生は面倒くさい存在なのですが、実習生との関わりをとおして、励ますことや感謝することを生徒に体験させる良い機会と私は考えているのです。最後の日には生徒に「実習生を泣かせる」作戦を立てさせます。花束やメッセージをつくり、どのタイミングでどんなことばをかければ効果的か実習生に内緒で考えさせるのです。おもしろ半分の作戦のようですが、「相手が感動して泣く」という目標を達成するのは簡単なことではありません。「どの時間がいいか」「誰が手渡すか」「朝からいろいろと伏線を張っておくか」「いやいや前の日から勝負は始まっている」などと楽しそうに打合せをするのです。昔の「どっきりカメラ」のようなだまし方では不愉快に終わってしまいます。「心に残る仕掛け花火」のようにしようなどとキザな台詞も飛び出します。結果として、その時が来ると、生徒の仕掛けは成功し、実習生はわんわん泣きまくります。ところが私に小さなガッツポーズを見せる生徒たちもわんわん泣いているのです。実はそれが私の「仕掛け」なのですが・・・
今年も今の時期はどこの学校でも教育実習生をむかえています。かつて私のクラスで実習生を泣かせてガッツポーズを見せた女の子が実習に来ています。今度は君が泣かされる番ですよ。

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其の三十六
1日は誰にでも24時間ある
4月から転勤でこれまでといろいろ環境や生活時間が変わりました。まだまだ自分のリズムが作れないでいます。
得意の朝練も2月の国際指導者合宿で体調を崩してから何となく惰性になり、3月は転勤前の仕事のやりダメで首、腰、肩がガタガタになっています。それでも無理に稽古をしているためか股関節も痛めてしまいました。ウエイトトレーニングもペースが狂い、とりあえず筋肉に刺激を与えている程度です。
「そのうちとお化けは出たことがない」と言われます。つい「そのうち、そのうち」と逃げてしまうのが今時の当たり前なのかも知れません。しかし、この時期が肝心なのです。私の年齢で、今鍛錬を怠ったらもう二度と今の身体や技術を取りもどすことはできないでしょう。特に腱や骨は年齢とともに弱くなっていきますので、負荷を与え続けなければならないのです。サンプレイの宮畑会長のお話では、筋肉は90歳を越えても発達するということですが、それに耐えられる骨や関節の維持鍛錬が欠かせないのです。さらに加齢とともに心肺機能や巧緻性も低下していきますから、それらのトータル的な稽古内容をこなしていかなければ「空手の師範です」などと口が裂けても言えなくなってしまうのです。
「いつ、どこで、何をするか」が問題なのですが、基礎体力づくりと正しい型の稽古で相当に内容をこなすことができます。それと部位鍛錬をきっちり行っていれば空手の技術や身体はかなり維持できるでしょう。道場へ行ったときには組手をしっかりやることも大切です。間合いやスピード感は、これもやらないと衰えてしまいます。しかし、こうやって書いてみると簡単なことのようですが、実際に仕事との両立で実践可能なのでしょうか。今年からの私は、朝は6時半に出勤し、帰りは9時があたりまえ、睡眠時間もある程度は必要ですし、食事もします。風呂にも入ります。当然家族もいますから自分の都合ばかりでは生活できません。はてさて稽古時間はどうやってつくるのでしょうか。でもやるしかないのです。「人間は、環境や能力面では不公平につくられている。しかし、1日が24時間あるということだけは公平である。」ということを私はよく生徒に教えています。自分が教えていることを自分がまず実行しなければと無理矢理自分に言い聞かせて実行しています。
上の娘が小さい頃は、風呂に入れた後に稽古に行きました。身体がだるくてバーベルも持ち上がらないし、結局自分が熱を出してこのパターンはやめました。その後稽古を優先したために、朝も夜も子どもの寝顔しか見られない日が続いたものです。いつだったか突然早起きした娘が、朝練をしようとしていた私に「お父さん朝なら遊べるよね」と言って玄関までついてきたときには涙が出てしまいました。下の息子のときには勤め先がすぐ近くだったことや空手部があったので仕事の中で毎日稽古できましたから、何とか風呂に入れる時間を確保することができました。今では娘も黒帯を目指して空手を頑張ってくれるので毎夜9時から自宅道場で一緒に稽古しています。娘を口実に道場に足を運べますので、親孝行な娘と感謝しております。
あれもこれもとやらねばならないことがたくさんあって、優先順位もわからなくなってきていますが、妻や子どもたちの支えがあってこそ、そんなことで悩んでいられるのですから幸せな悩みかも知れません。
私のやっている具体的な稽古内容は複雑でここに書き出すことはできませんが、身体の痛みと、眠気が最大の敵です。「いつ、どこで、何ができるか」をひとつずつ確認しながらペースを上げていこうかと思っています。7月には館長とロシアに行く予定です。その辺を目標に鍛え上げていこうと思っています。
でも偉そうなことを書いても花見の誘いには弱いんだよなあ・・・

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其の三十五
ラジオにただいま
先日、早朝山歩きの場所まで車で向かう途中、ラジオからなんとなくいい曲が流れてきました。一青窈さんの「ただいま」という曲でしたが、久しぶりに歌詞ごとじっくりと聴いてしまいました。
最近はただもう忙しくて、流行りの曲を聴くと言うこともなく、どんな曲が流行っているのかもわかりません。娘に教えてもらっているのが精一杯です。自然と昔から聴いている慣れた曲だけをたまに聴くという典型的な「オヤジ化」状態ですね。・・・

ここまで書いてから急激な忙しさのために二カ月ほど何も書けない状態になってしまいました。考え事をする暇もなく、自分の意志とは関係なくどんどん時間が流れてしまいました。そもそも何を書こうか忘れてしまいましたが、今日はたまたま少し時間ができたので、思い出しながら続きを書こうと思います。
私の記憶に残る曲は色々ありますが、曲とその頃のできごとがセットになって思い出されるものです。その曲が好きとかだけではなく、「あの頃こんなことがあったなあ・・」という感じです。小学校の5年生の時、はじめて買ったLPレコードが「五木ひろし」のベストアルバムでした。ちょうど「夜空」でレコード大賞をとった頃です。空手と剣道を始めたころで、武道館の帰りに口ずさんでいました。ちょっとオヤジな小学生でしたね。
中学生のころはもっぱらビートルズでした。従兄の高校生にもらったテープをすり切れるほど聴きました。わたしはハマり屋だったので、ビートルズ関係の本をいろいろと読んでその軌跡を調べたものです。ビートルズの歌詞を訳す為に英語の勉強をしたようなものでした。
高校の頃から「中島みゆき」の世界に入っていきました。私は高校2年から下宿して一人暮らしを始めたので、タイミングとしてピッタリだったのでしょうね。私は、高校1年の時は、石川町から郡山市の高校まで朝5時35分の始発で通っていました。高校の帰りに郡山の道場で稽古をしていましたので、帰りは最終です。帰宅がほぼ夜の10時でしたので、何しに帰っているのかわからないほど家にいる時間が短かったものです。私は別に苦ではなかったのですが、私の生活に合わせていた(食事や弁当の世話)母親がたおれてしまったことと、盧山初雄館長の指導をもっと受けようと思い、下宿に踏み切ったのです。高校の担任の先生に紹介してもらい下宿を決めました。今では考えられないことかも知れませんが、実は私が高校の時に下宿するときからずっと、(つまりそのあとの東京での大学生活、それに平行してた内弟子生活を終えて)福島に教員として帰省するまでの10年間、私の母親は私がどこに住んでいたのかを知らないのです。高校卒業後は父親もそれを全く知りませんでした。内弟子をしていたことも知りません。部屋探しもすべて自分で行いましたので、放任もここまでいけばたいしたものというものです。それはそれで私にとってはよかったので何とも思っていませんが、よその人はこの話を聞くと結構驚くようです。
勝手放題を許してもらった分、泣き言は言えませんでしたのでそれはそれで大変でした。金がなかった話は以前書いたとおりです。この頃何が辛かったといえば、「空腹」と「孤独」です。金がないので腹か減るのは当然ですが、それ以上に誰とも会わない日、一度も会話をしない日がけっこうあり、これは結構きつかった思い出です。別に友達がいないわけではなく、東京に出た頃はむしろ溜まり場になるほど友達が押しかけてきていました。しかし、いつの頃からか自分はいったい何しに福島から出てきたのかわからなくなり、それまでの友達とは距離をおくようになりました。さらに思い切って最初の池袋のアパートからも1年目で練馬に引っ越しました。そうなるとアルバイトも禁止でしたので空手の仲間以外とはまったく会話の機会がなくなってしまったのです。興照寺へ内弟子の稽古に行っても誰も稽古に来ていなくて、夜の稽古も休みの時など、1日中まったく人と話をすることがないのです。それが何日か続いたときなど、本当に人恋しくなるのです。だれか友達のところでも訪ねていけはよいのですが、それをやったら自分に負けだと思い、変な意地で我慢しました。どんなに盧山館長の稽古が厳しくても、盧山道場から逃げなかったのは、孤独よりはマシと思ったからなのかも知れません。
夜、誰もいないアパートに帰り、それでも「ただいま」といってラジオをつけた頃が何とも言えず懐かしいものです。何を聴きたいというものではないのですが、人の話が流れてくるだけでホッとするのです。19歳の頃、もっとも1人暮らしが身に染みた頃、よく朝方まで眠れなくて、腹が減ってなけなしの小銭を集めて池袋の「吉野屋」に行ったものです。その時間なりの客がポツリポツリといて、それぞれがそれぞれの人間模様を持っているのでしょう。誰も会話をすることなく、同じ時間と空間を共有しているのですが、忘れられないひとときです。その頃中島みゆきの「狼になりたい」という曲をよく聴いていましたが、「夜明け〜間際の〜吉野屋あでは〜」という歌詞とピッタリと合った生活をしている自分がありました。遠い遠い過去の思い出です。
今では、仕事や家族、友達とのドタバタした毎日で、1人になるなんて考えられないことです。いつも誰かとのやりとりに追われ、自分のことなどほとんどできません。ふと昔のひとりぼっちが懐かしくなるときがありますが、贅沢な悩みなのかも知れません。ただ、ひとりぼっちの時というものは、時間というものが自分の好きなように使えるわけで、「考える」という作業が十分なほどできるのです。本当に思考力が研ぎ澄まされ、自分の脳がどんどん活性化されるのです。一歩間違うと気が狂うのでしょうが、ある時期は必要なこととも思うのです。おそらく、昔の武道家の「山籠もり」も実はこんな状態を意図的につくるためなのでしょう。修行においては不可欠な時間なのだと思います。
人恋しさに流されて、貴重な時間をダラダラと友達づきあいや恋愛ごっこに費やしている今の若者(今とは限らない、若者だけとも限らない)諸君、「若いときの孤独は一生の財産だよ」と誰かが言いました。「孤独ほど怖いものはない、しかし、孤独を知っているからこそ人とのふれあいの大切さがわかるのです」とも誰かが言いました。
話があちこちにいきましたが、結局は今の賑やかな毎日が一番幸せなのかも知れません。ラジオに「ただいま」より、家族に「ただいま」ですよね。

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