其の三十四
厳寒稽古酷暑修練
今年は寒い日が続きます。寒がりの私にとっては稽古を始めるまでが地獄です。しかし、「えいやっ」と始めてしまえば身も心も温まり「いや〜いい汗をかいたなあ」となるのですが、今年に限ってそうはならないのです。動けども動けども手足は血の気を失い、内臓まで凍り付くような感じになります。「空手着の下にシャツなど着るのはまかりならん!」(女子は別です)と豪語してしまっている手前寒いとは言えず。これこそやせ我慢の姿なのでしょうか。
福島は寒さの北限といった方がいました。それより北にいくと我慢の範囲を超えるので、そもそも暖房設備が当たり前だし、素肌に稽古着一枚なんてありえないというのです。たまの寒稽古ならどんなに寒くてもよい記念になるのでしょうが、毎日の稽古となると身体が持たないでしょう。まあ、秋田や青森でも毎日が寒稽古となっているところもあるでしょうから必ずしも福島が北限とは言い切れませんが、「我慢の範囲」で済まされてしまうところが辛いところということです。
盧山館長のことばに「厳寒稽古、極暑修練」というものがあります。「寒いときは寒いところを選んで、暑いときは暑いところを選んで稽古するもんだ!」ということなのですが、盧山館長の場合、話だけではなくて実際にやってしまうところがすごいのです。館長のロシアでのマイナス20度での裸足での屋外稽古は有名ですが、昔の盧山道場の冬の期間中毎度の外稽古も負けないくらい大変でした。
昔盧山道場が発足した頃(28年前かな?)は、西川口の青木公園となりの青少年会館を利用して稽古していました。生徒も多くなり、熱気のこもった稽古が行われるようになった頃、青少年会館の使用を断られることが起きたのです。事情は色々あったのでしょうが、次の施設が見つかるまで青木公園の青空道場ということになりました。冬にさしかかる頃だったので我々にとっては深刻な問題でした。結局春までずっと外稽古となったのですが、その時館長が発した言葉が「厳寒稽古、極暑修練」でした。単純な我々は「そうだなあ」と軽く納得したものですが、当時は今と違って結構雪も降りましたから、毎回の稽古は痛いの寒いの大変なことになりました。まず、6時前に公園の自販機横の藤棚の下のベンチで人目もはばからずに着替えます。もちろん裸足ですし、稽古着の中は何も着ることは許されません。大げさですが、凍え死にたくないので動くしかありません。館長が到着すると真っ暗な公園で稽古が始まります。基本が終わると汗はかいていますが、手足は凍らんばかりです。そのあと公園の一週1Hのランニングコースを走ったり、ウサギ跳びや手押し車をしながら何周もまわります。もう寒いのを忘れてクタクタですね。その後移動や型をやって、組手もしっかりやらされました。たるんでいると班別の競争などがあり、負けた班の班長は真冬の池にたたき込まれたりしました。私も何度か池に入りましたが、氷をバリバリと突き破り池からはい上がる姿は、今では笑い話ですが、当時はいったい何を考えてそんなことに絶えていたのか思い出せません。
たいてい稽古が終わるとパンツもグシャグシャに濡れているものでしたが、夜中9時近い公園で30人ほどの男達がケツを出して人前で着替えをしました。恥ずかしいとかは通り越していましたね。雪も大変ですが、冬の雨のときはもっと大変でした。着替えながらずぶ濡れになっていくのです。そんな時盧山館長は愛車バイオレットでパンツ一丁でズボンをはこうとしている私に追突してくるのです。「ひいちゃうぞ〜」と言いながらぶつかってくるのです。読んだだけなら大変な虐待行為なのですが、これが館長なりの冗談(イタズラ)なのです。何というか身体は冷え切っていても心は温まる時間なのですね。
濡れたパンツのまま帰って行くみんなの姿はどこか溌剌として寒さなんかはどこへやらといった感じです。帰りに私はよく故三浦師範と西川口の駅前の立ち飲みビールを飲んでいきました。なぜか当時は瓶ビールの自販機があり、無人のカウンターがあって、そこで勝手に飲む場所があったのです。お互い金がないので2人で一本とかでしたが、そのビールの美味しいこと。当時は大会とかは全く関係なく、毎日の稽古に全力で取り組むことしか考えていませんでした。よい時代でしたね。
昔聞いた中国拳法の世界の話で、ある北方の拳法の道場では、朝方マイナス20度くらいは当たり前で、しかし朝4時から弟子が集まって道場の雪かきが始まり、それで身体を温めてから稽古を始め、汗をかくようになってからは少しずつ上着を脱いでいき、最後はTシャツ一枚になるそうです。そして朝7時すぎに朝食をとってそれぞれ仕事に向かうのです。雪かきが一番体力がつき身体が温まるので、皆競って早起きしたそうです。すごい世界ですね。今の日本でそこまでできるでしょうか。でも今の中国の若者は、夜更かしを覚えてしまい、朝から拳法の練習など誰もやらないとも聞いています。沢井先生が修業した時代とは違ってしまっているのでしょう。時代錯誤かも知れませんが、そのような環境でしか本物の達人は出てこないような気がします。
今年は、今までになく寒いのですが、朝起きられないとか、寒いとか言って逃げていたら、武道の修行だなんて言っていられません。稽古の後の酒も美味いですが、はじめから酒に逃げてはいけません。酒を飲む前にまず稽古ですよ。

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其の三十三
鏡開きに想う
平成20年の年が明けました。身も心も新たにして頑張りたいと思います。今年の冬は雪が少ないのですが、朝晩の冷え込みは半端でない寒さとなっています。朝起きたときに挫けそうになってしまう自分との闘いの毎日です。
さて、先日総本部と福島県支部の鏡開きが行われました。前にも鏡開きの話をいろいろと書きましたが、今回も思うところをちまちまと書きたいと思います。
総本部は埼玉を中心に、近県の支部長も集結し、盧山館長の号令で熱気のこもった基本稽古が行われました。その後小宴という例年の行事ですが、毎年参加していると参加者の顔ぶれが少しずつ変わっていることに気づきます。今年は特に変わったかなとおもったのでそのことをまず書こうかなと思います。
昔は、稽古納めの後道場を掃除して、「お世話になりました」と師匠に酒の一杯も注ぐもんだと言われましたし、鏡開きではどんなに忙しくても顔を出して「よろしくお願いします」と酒の一杯も注ぐもんだと言われたものです。内弟子の頃は当たり前の行事ですから当然のように思っていましたが、就職してからはこれが結構大変なことで、福島から埼玉ですからなかなか調整がつかず出られないときもありました。それでもかなり無理をして出席したものです。しかし、たまたま仕事の関係で稽古納めに参加できなかったときに、盧山館長が宴会の席で「岡崎は来てないのか。これで岡崎の時代も終わったな。」と冗談で仰ったそうで、後でこれを聞いた私は焦りに焦ったものでした。それからは休まずに参加していると思いますが、館長との師弟関係もありますし、その時しか顔を合わせられない仲間と会える楽しみもあります。
だいぶ昔のことですが、明治大学ラグビー部の名物北島監督の特集番組がありましたが、タイトルが「前へ」だったかな。北島監督は当時90歳くらいの一人暮らしの老人でしたが、矍鑠として強豪チームの先頭に立って指導していました。スクラムを自分の身体で教える場面など感動ものです。その番組の中で、年末になると、ラグビー部のOB達が監督の家に集まり、大掃除をする場面がありました。恒例の行事らしく、大勢の屈強な男達が隅から隅まで掃除をして監督に対する感謝の気持ちを表すのです。大掃除が終わった後、先生を囲んで昔話や互いの近況報告に花が咲き、楽しいひとときを過ごすのです。監督にとっては最も嬉しい時間だったでしょう。今でも忘れられない場面です。
話はもどりますが、大山倍達総裁の存命中、いつのころからか埼玉の鏡開きに加えて当時の池袋の総本部の鏡開きには毎年必ず出るようになっていました。総本部の鏡開きは曜日に関係なく、毎年1月11日の早朝と決まっていますので、前の日最終の新幹線で埼玉に行き、当時の盧山道場の寮に泊まって内弟子達と朝方池袋に行ったものでした。前にもどこかで書いたと思いますが、たまたま仕事の関係で休んだときがありました。「また来年あるからいいか」と軽く思ったものですが、なんとその年の春に大山倍達総裁はお亡くなりになってしまったのです。私は残念でなりませんでした。行ったところで「よく来たねえ」と握手をしていただくだけなのですが、その一瞬の機会が二度となくなったと思っただけで後悔してもしきれませんでした。沢井先生のときもそうでしたが、また大切な機会を失ってしまったのです。中村先生にも毎年盧山館長とご一緒に御年始のご挨拶に伺っていましたが、ここ数年機会を失っています。
今回は、「毎年のことで当たり前という感覚が大切な機会を失ってしまう」ということを書こうとしています。年の初めに自分のことについていろいろと考えるところですが、新しい出会いがどんどん増えていく中で、少しずつ昔なじみの顔が見られなくなっていくのが少し寂しい気がします。盧山館長もこまめに顔ぶれを覚えてらっしゃる方で、一人一人に気づかってことばをかけていました。「○○は来てたか?」などと横でおっしゃられることがしばしばあり、かつて私が欠席したときもそうだったかと恥じ入るばかりでした。さらに、思い出してもらえるうちが花なのです。
今年の福島県支部の鏡開きは、当初150人で予定していましたが、200人もの参加があり、お餅の数が足りなくなってしまう嬉しい誤算がありました。ここのところ入門者が多くなったことが嬉しい結果なのですが、さらにうれしいことは、常連の黒帯指導員に加えて、就職や進学で道場から離れていた型の世界チャンピオンの千秋さんや、全日本チャンピオンの由希子さんたちが忙しい中駆けつけてくれたことです。今は道場から離れていても、子どものときから歯を食いしばって稽古した仲間やともにロシアで世界と戦った思い出は彼女たちにとってすばらしい財産なのでしょうね。
1年はあっという間に過ぎてしまいます。みなさん、それぞれに頑張っていきましょう。

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其の三十二
情けは人の為ならず
このことばは一般的に正しく理解されていない場合が多く、正しくは「情けは人の為ならず、めぐりめぐって己が為」というものだそうです。意味は、他人にかけた情けはいずれ自分に返ってくるものだから、他人に情けをかけることを惜しんではならないというもので、他人に情けをかけることはその人のためにならないといったよくある解釈は間違っているようです。
いつの頃だったか、わたしは母にこのことばの正しい意味を教えてもらいました。昔はそんなことばの意味を実感することはなかったのですが、最近はいろいろと感じることが多く、昔の人はいい教えを残したものだと感心しているところです。
最近、それなりに立場のある人の中に「自分に挨拶をしないのはけしからん」「今まで育ててもらった恩を忘れおって」といったことを、さも自分が常識人のような顔で仰る方がいます。確かに挨拶や恩に対して感謝の態度をとることは大切なことですが、はなからそれを期待するまたは要求する前に「自分はどうなのか」を振り返ることが大切なのではないのでしょうか。「自分で育てた」というならば、そのように育ててしまった自分をまず反省すべきでしょう。おそらくその人は駆け出しの頃、先輩たちにしっかりと挨拶をし、受けた恩に対して感謝の態度を表す努力をしてきたのでしょう。それはそれで当然ですし、すばらしいことだとも思います。ただここには大きな勘違いがあることを忘れてはいないでしょうか。それなりの立場にあるということは、決して自分1人でそうなったのではなく、それを引き立てた人、支援してくれる人がいてはじめてその立場に立っているということなのです。最初のうちは、周囲を気遣いながら努力したことでしょう。しかし立場が人を変えるものです。「自分が感謝される」「尊敬される」ことが当たり前の感覚になってしまうのです。『滞る水はドブになる』これは私のウエイトトレーニングの先生のよく言っていたことばですが、まさにそれです。目下も目上も関係ないのです。相手に感謝する心があるから相手に感謝される。相手を尊敬する心があるから相手に尊敬されるのです。これを見失った偉い人ほど始末の悪いものはありません。
私も武道やその他の部分でいろいろな肩書きや立場が増えてきました。ふんぞり返る気は毛頭ありませんが、ときには役目としてふんぞり返ることも必要です。ある時出先で「師範カバンをお持ちします」とどこかの内弟子が近づいてきたことがありました。自分も内弟子の頃すっ飛んでいってカバン持ちをしていましたから、何となく恥ずかしいやら申し訳ないやらで「いいよ自分で持ちます」といって断りました。そしたら近くにいた別の師範から「岡崎君、偉そうにしたくない気持ちはわかるが、彼ら内弟子には師範のカバン持ちをするという経験を積ませなければならない。その機会を与えてあげないとダメだよ。」と言われました。それは彼らにとって目上の人に対する礼儀の形を体験学習する場なのです。私は、あやうく彼らのその機会を奪うところでした。それからは「ありがとう。ご苦労さん。」と言うことばを添えて持たせることにしたものです。そう思うとかつて私にカバンを持たせた偉そうな方々が急に有り難く思えてきたものです。もちろんこんな威張り方や態度はしたくないという反面教師もたくさんいましたが・・・ひとつ勉強になったものでした。盧山館長などは嫌みのない明るい表現で「このカバンには現金が300万入っているからよろしくな!」などと内弟子が持たせてもらって嬉しくなるような一言をさりげなくかけています。
さて、人間は誰もが「感謝されたい」「尊敬されたい」という欲求があるものです。そしてそれはまず自分がそれを行動で示すことが大切なのです。立場がしたなら下なりに、上になったら上なりにすべきことがあるはずです。お陰様で福島県支部も会員数500名を超え、道場や稽古場所も20以上となりました。大会や審査も大勢の人が集まり、それもこれも支部長として嬉しい限りです。そしてここが最も忘れてはならないことで、分支部があっての県支部であり、会員があっての道場なのです。また、指導員あっての分支部長、支部長でもあるのです。きっかけは誰かが熱心に努力したからかも知れません。しかし、現在では、誰か個人の努力ではなく、仲間同士すべての支え合いがあってこの大きな組織が成り立っているのです。形の上では私は支部長であり師範ですが、それは私を「支部長」「師範」と立ててくれる人がいるからその立場にいられるのです。自分から押しつけても誰もついてくるものではありません。立場や序列は組織の都合上必要なことで、それをだらしなくするものではありませんが、それぞれの立場で皆が感謝し合い、尊敬し合い組織というものが回っていくものだと思うのです。それぞれが「与えられる」ことのみを欲して組織に寄生するようになったとき、その組織は歪み、崩壊するものと思っています。
もう一度表題の「情けは人の為ならず」にもどりましょう。塩川先生も「種まきを惜しんでは花は咲かんぞ」と仰っていました。「与える」ということは「見返り」を求めてはいけないと言うことなのでしょう。「見返り」を求めない「情け」がめぐりめぐって自分のところにもどってくるのです。先日福島県支部の指導員の忘年会がありました。各自得物持参と言うことで、酒や食べ物を持ち寄って大宴会が繰り広げられました。日本酒、焼酎、ビール、馬刺し、うまか棒までずらりと並び、注いで注がれて記憶の果てるまで宴会は続きましたが、皆大人の修学旅行のように楽しい一夜を過ごすことができました。自分がもってきた秘蔵の美酒を注いで回ることで、相手のそれも注ぎ返してもらえるのです。ともに白髪も生えるまで(もう生えてるかな?)この付き合いが続くといいですね。

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其の三十一
「蝉しぐれ」とあれこれ
「蝉しぐれ」という映画を観ました。藤沢周平さんの時代劇で、無外流も出てくるのでいつか観ようと思っていたものです。剣術が主たるお話しではないのですが、藤沢さんのこの時代の若者の描き方が好きですので良いものを観たなという感じでした。一青窈さんのイメージ曲もよかったですね。
物語は主人公の文四郎をはじめとする東北の若い武士たちの夢や悩み、生き方を描くもので、文四郎とふくの恋もこれまたほのかによいものがありました。時代が変わっても若者の心というものは同じで、どうにもならないほど無力な自分と向き合い、希望と絶望をくりかえしながら成長していくものなのですね。登場人物はそれぞれに個性があり、境遇も違いますが、とにかく若さと時代と世の中のしくみが絡み合って、先の見えない自分の人生を必死で前に進もうとしているのです。最後に歳を取って文四郎とふくが再会したときの2人の顔がとても印象的でした。
私はここで何が言いたいのかというと「思い通りにならない」という時代がいかに大切かということなのです。最近は「思い通りにならない」⇒「自分はダメだ」⇒「絶望」という考え方に流れる若者が多く、一時の失敗から立ち直れない若者(大人も?)が増えているような気がするのです。「まだダメだ」「今はダメだ」「おまえが間違っている」と言ってくれる人がいることで、実際どれだけ自分が成長できるかわかりません。盧山館長も「怒られているうちが花だ。」「ほめられるようになったら終わりだ。」とよく言われました。人間は抑制されたり否定されることで反発心が生まれ、それがエネルギーとなって成長すると思うのです。「自由」「平等」といった基本的人権の概念も抑圧や差別と言った歴史的経緯の中から生まれたものなのです。もちろん適度な励ましも必要かとは思いますが、最近はこちらのほうが過剰になっているような気がします。
私ごとですが、中学時代は理科が得意で将来は理系かな?なんて大きな勘違いをしていました。おそらく理科の先生の授業が上手で、それで勉強もしましたし成績も良かったのです。高校に進学してからも理科が好きだと思いこみ、物理と化学を選択し、熱心に勉強したものでした。ところが物理が突然難しく感じるようになり、なんと実力テストで0点を3回連続とってしまったのです。平均点が100点満点で一桁という難しいテストではあったのですが、3回連続0点は私だけだったようで先生の呼び出しをくってしまいました。そのときの言葉は一生忘れません。「君は理科の才能がないね。文系に移ったほうがいい」と慰めや励ましは何もなく、一刀両断の一言でした。特に「才能がない」は応えましたね。今では信じられませんが、途中から強制的に移されてしまいました。でも私は何かスッキリした気持ちになり、肩の荷が降りたというか、ホッとしたのを覚えています。今の私(社会科で生活している)があるのはこの時の物理の先生のお陰だと思っています。
私が極真館の前の組織を辞めるときに、ある方と約7時間話をしました。やめないように説得されたのですが、私の心は盧山館長と共にする意志が固いので揺らぐものは何もありませんでした。最後のほうになって、「あなたはもう盧山師範を師として仰がなくとも大丈夫でしょう。技術的にも独立すべきなのではないですか?」「なぜそんなに盧山師範を師としてこだわるのですか?」と聞かれました。私が考えたこともない質問だったので一瞬返答に困りましたが、「盧山師範は、私のすることに「よい」か「悪い」をはっきりと言ってくれる。それだけで師として一生ついていく値打ちがあるのです。」とだけいいました。私は武道家としても技術においても盧山師範の足元にも及ばないと思っていますが、ゴテゴテとお世辞がましいことは言わず、あえてそう答えました。応えてからしみじみ「そうだよなあ」と納得してしまいました。その方とはその後二度と会うことはありませんが、今の私もその時の思いに変わりありません。
「蝉しぐれ」の話にもどりましょう。この物語の舞台である海坂藩は、藤沢周平さんの故郷である山形県の鶴岡(庄内藩)がモデルだそうです。1622年、最上氏の改易により酒井忠勝が信州松代より入部して13万8千石で庄内藩が創設されました。決して裕福な藩ではなかったのですが、数々の苦難を乗り越え幕末まで藩政を維持し、戊辰戦争では佐幕の雄藩として戦いました。庄内藩を治めた酒井家は、無外流辻月丹資茂に学んだ酒井忠挙(前橋藩主)とは祖を同じくしており、物語に登場する無外流との縁を感じさせます。こういった地方の藩は、武士といえども暮らしは楽なものではなく、しかし武士としての権威と秩序を守るために節制と修学に努めたのです。さらに、家柄や身分という壁があり、将来の望みなど百姓町民よりも狭いものであったかも知れません。そのような環境で、精一杯生きようとする若者の姿がこの映画の中の随所に光っていました。正義に生きる者、道理をはずす者、立場が変わればどちらが正義か解りません。それぞれが追いつめられたなかでの選択なのです。映画の中に登場するお家騒動は、実際に庄内藩の中でも起こったもので「どちらに付く?」とせまられ、自分の判断や夢や希望など何一つ受け入れられるものではないのです。その中で、文四郎達は自分たちの正義を貫こうと行動を起こすのです。ラストシーンでふくが文四郎に行った言葉が心に残りました。「文四郎さんの御子がわたしの子で、わたしの子どもが文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」この一言がこの時代の若者の枷を表していると思います。「思い通りにならない」「やり直しがきかない」その中で精一杯生きているのです。
「自己が否定される」ということをすぐに「絶望」に結びつけてしまう今時の若者に対して、「我を生かす道」を見つけるチャンスでもあるとこの映画から学んでほしいと思いました。
話があちこちに行ってしまいました。別にこんな深読みをしてこの映画を観ることもないですけれど、普通に楽しんでいい映画なんですけどね。

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其の三十
正統について考える
「小沢昭一の小沢昭一的こころ」のような書き出しになっています。久しぶりに書こうと思うといろいろと浮かんできて書き出しに困ってしまいます。
最近は空手の世界も型や古武道について関心の高い人が増えてきて良い傾向だなあと思っています。実技がともなわない蘊蓄だけではどうにもなりませんが、よく稽古する方々が深く研究をすることで、実理一致という理想的な形になっていくものと思われます。
ただここでちょっと気になるのが「正統」ということばです。「この型が正統である」「この先生が正統である」ということをすぐに言い出す人がいますが、実は私は「正統」という言葉ほどうさんくさい言葉はないと思っているのです。要は「誰にどのように学んだか」が大切なのだと思うのです。もちろん伝承の系統とか技の成り立ちなどについては、どうでもよいというものではありません。また、「学んだ」という一言にも幅があり、実にいい加減な表現です。例えば「大山倍達総裁がこう教えた」と言い張る人がいたりします。私自身も中学の時から何度となく直接ご指導いただいていますが、総本部の人間ではありませんので、合宿や帯研の時に限られています。盧山館長のように大山時代から学んでいる方とは内容もかなり違っているかも知れません。内弟子と一般の稽古生でも違うでしょうし、学んだ年数やその人間の実力によっても違うでしょう。ただ、どれも学んだことには変わりはなく「正統」といえば「正統」なのです。私自身の空手については、盧山館長に学んだものがほとんどで、大山倍達総裁、中村日出夫先生、沢井健一先生については直接学んだこともありますが、盧山館長を通しての部分が大きいですから、ほぼすべて盧山館長から学んだといっても過言ではないのです。ここ十数年は塩川寶祥先生からも学んでいますが、不思議と盧山館長の教えとつながる部分が多く、よいものは共通しているというか別なものを学んでいる意識はないのです。
盧山館長が正統か云々の話をすれば、大山倍達総裁に学んだ、中村日出夫先生に学んだ、沢井健一先生に学んだということで、私はその人間性と技術に惹かれ師事しているだけなのです。大山倍達総裁についても船越義珍先生に学んだ、曹寧柱先生に学んだなどとあり、中村先生、沢井先生についてもその先には学んだ先生がある訳なのです。塩川先生も摩文仁先生、中島先生、乙藤先生、清水先生、中川先生、石井先生などと学んだ先生の経緯がはっきりしています。
  私は幸運なことに良師との出会いに恵まれていますが、私のけじめとしては、多くのことを学んでいても、「教えて良い」と許しを得たことしか教えないようにしていることです。古武術の世界では至極当然なことで、その許可証がいわゆる「免許」「目録」といった巻物なのです。大抵の巻物には、流儀の成り立ちと系譜が記され、技の名前が羅列してあるものです。その系譜により自分の歴史的な位置の証明がなされ、技の名称はそれを教えて良いという証なのです。したがって、この証のない技術を教えることこそ「正統でない」ということになるのかも知れません。現在の私は、すべて巻物や免状で許されたものしか教えませんし、特に空手については盧山館長の許可のないものは公開もしていません。そのため空手については基本的な部分をあっさりと紹介することが多くなってしまっています。この辺がよくわからない人は、本当は違うとか、勝手につくっているとか安易な批判をするのでしょう。肝心なことはそんなに簡単に教えるわけがないでしょうに。講習会などでは、内容を事前に公表していますので、ひととおり指導しますが、これも参加者の状況で多少の調整はします。ちょっとやって見せたことが一人歩きして困ったことが過去に幾度となくありました。私自身はまだまだ修行の途中にある身ですので、達人でもなんでもなく、「こうである」などと言えた立場ではないのですから。
例えば棒術の型についてですが、現在の日本にはいろいろなルートで入ってきており、同じ「周氏の棍」でも何通りも見ることができます。大方平信賢先生の指導のものですが、平先生も指導した時期や場所によって違いがあり、地域によってもいろいろなものとなっています。井上先生の団体がよく受け継いで世界的に普及されていると思いますが、他にも良い型がたくさん普及していることを忘れてはならないのです。どれも伝承がよいものであれば「正統」なのです。私も系統のはっきりとした先生から直接に同じ型を何通りも学んでいますが、最終的に盧山館長に指導していただき極真館として制定していますので、極真館の型も「正統」なものです。大切なことは、自分はいろいろと違う型を知っていることをちらつかせることではなく、制定したものをまずはしっかりと身に付けることが近道なのではないかと思うのです。
武道の世界では大きな連盟と「正統」「古流」とこだわりを持った小団体が乱立しています。連盟となるといろいろな指導者や会員がおり、普及しやすい部分がありますが、共通の型や技、試合など妥協していかなければなりません。後者の団体はこだわりを大切にしていくことができますが、普及や後継といった問題になると深刻な場合が多いです。大方一代限りとなる場合がほとんどでしょう。どちらがよいかは好みの問題とは思いますが、極真館はその両方の良いところを生かす団体でありたいと思っています。
海外などで講習会を指導すると、ベテランに限って自分の学んだものが「正統」であると主張し、学ぶ姿勢に問題のある参加者もいます。だったら来なければいいのですが、乗り遅れたくない不安はあるのでしょう。指導者にも個性や好き嫌いはあるものです。一般の稽古生なら好きなものを選んでやることもできるでしょう。しかし、指導者として看板を掲げる以上その看板に偽りがあってはならないのです。極真館として看板を掲げるからには、組手、型、武器についてはどこの道場でも制定されたものは一通り指導できることが前提としてあり、その上で自分のこだわりや好みなのではないのでしょうか。極真館が組織として伸びるかどうかはその辺が分かれ目かも知れません。この点は古武術の世界ではもっと顕著に見られます。皆が自分の技術を正当化するあまりに、同じ武術でも一緒に稽古することもできません。試合となればなおさらです。この辺の問題は一朝一夕で解決するものではありませんが、私は盧山館長をはじめとする先生方から学んだことを正しく伝えることが今の仕事と思っていますので、第三者から「正統であるか否か」を言われても答えようがありません。おそらく「極真空手の正統」と言われても確固たる答えが出ないと同じでしょう。
今回は少し難しい展開となりましたが、師走に入り、やり残しのないように頑張ろうと思った矢先に朝から雪が降り、気持ちが萎えそうになっています。
先日の三峯合宿で盧山館長、広重副館長から宿題をたくさんいただきました。寒いのなんのと言っていられません。頑張りましょう。

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其の二十九
懐かしい文章から
 20年近く前のある教育雑誌に掲載された懐かしい文を偶然見つけましたので紹介します。

忘れられぬ拍手
私が教員となって間もない頃、先輩の先生から「応援団の指導を手伝わないか」と声をかけていただきました。私は学生時代にその経験があったので、自分が役に立てるものならと引き受けることにしました。 中学生ぐらいの年頃には、応援団のように人前で大きな声を出すことは恥ずかしいものなのかも知れません。まして、自分でやりたいと思っていなければなおさらのことです。初めての練習のときの生徒は、声は出ない、手足は動かないというやる気のないものでした。
大きな声を出し、どなりつけてやらせることは可能かも知れませんでした。しかし、やる気のないものをどなりつけてやらせることは、生徒の主体性を引き出す指導にはならないという考えが私にはありました。そこで、生徒に「やってみたい」と思わせるには、まず良いものを見せることではないかと考え、私自身が応援の型をやって見せました。生徒たちのイメージは、それまでとはまったく違っていたようで、驚きやとまどいが見られました。でも、少しやる気が出てきたようでした。こうして私の応援団指導が始まった訳なのですが、実はこの時の生徒はたったの三人だったのです。
三人の生徒と私は、昼休みと放課後を利用して毎日練習に励みました。「どうせやるなら良いものを」が合い言葉でした。彼等の最初の目標は、中体連の壮行会の前に中庭で練習の成果を発表することでした。(中庭は、すべての教室から見えるので)発表までは、体育館の裏や校舎の際で人知れず練習をしました。 発表の日が近づくにつれて、生徒たちは不安になってきたようです。「失敗したらどうしよう」「笑われたらどうしよう」と口にするようになりました。しかし、「全校生徒に良いものを見せよう」と互いの気持ちを一つにし、発表当日を迎えました。
昼の放送が流れ、三人の応援団が中庭の中央に立ち、応援が始まりました。全校生は何事かとベランダから彼等に注目しました。そこでまず起こったのは、大きな笑いでした。ゲラゲラと笑われ、指さされながらも三人は応援を続けました。すると不思議なことに少しずつ笑いが静まりはじめました。中庭には三人の大きな声だけが響き、最後にエールをきり、応援が終わりました。少し間をおいて、拍手がおこりました。その拍手は徐々に大きくなり、彼等を包むように鳴り響きました。その中で彼等は、大粒の涙を流していたのでした。


この話にはいろいろ続きがあり、先日この3人の内の1人に20年ぶりにばったり合いました。立派な大人になっていました。いまだにこのときの応援団は良い思い出となっているようで、私も嬉しくなってしまいした。
「初心忘るべからず」とはよく言われますが、この文を見つけたのも何か天の采配のような気がします。

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