其の二十八
ウエイトトレーニングについて考える
極真空手といえば、ウエイトトレーニングは欠かせないものという印象があるかと思います。「ベンチ何キロ?」などと自然に挨拶代わりにでてきますね。ウエイトトレーニングは、古武道や中国拳法の世界ではとんでもないといわれるし、古い考えの指導者は筋肉が固くなるからとか訳のわからないことを言ったりもします。私はウエイトトレーニングについては、結構本気でやっておりますが、単純に好きでやっているので、これが空手にいいから悪いからという気持ちではないのです。ただそこには、本気でやっている方にしかわからない「無念無想」の世界があるのです。筋肉が大きくなるとかならないとかはそれに付随するものであって、私の場合「禅」と言ったら大げさですが、それに近い心境で取り組んでいます。鉄のかたまりを睨みつけて、呼吸を整え、勝負に挑むときの集中力はまさに真剣勝負と言っても良いでしょう。
ウエイトトレーニングというと、バーベルやマシンを使ったものと限定されがちですが、身体に負荷をかけて超回復を目指す運動はすべて含まれるので、道具を使わない昔からのあらゆる訓練法が実はすべてウエイトトレーニングと言っても過言ではないのです。要は、負荷のかけ方や回数、鍛える順番などに工夫があって、筋力や持久力、瞬発力などの目的に応じた体力向上がなされればよいのです。古くからのあらゆる訓練法が、バーベル、ダンベルなどの器具を使用することによって効率的に鍛錬することができるようになったために、とくにウエイトトレーニングとはバーベル、ダンベルなどの器具を使ったものと限定した認識が広まったのでしょう。ただ、古くからの鍛錬法は、いくつかの効果を総合的に鍛錬する場合が多く、バーベルやダンベルのように局所に集中して効果をあげるものとは違う部分があり、昔のものはそれなりに優れたものであったと思います。要は目的と好みなのだと思いますがいかがでしょうか。
私とバーベルの出会いは中学生の時でした、極真空手を始めて間もない頃、カラテマガジンに連載されたウエイトトレーニングに魅力を感じ、見様見真似で器具をこしらえて練習したものです。もちろん指立て伏せや逆立ちなどは当然のように行っていました。当時空手に必要なものはすべて小遣いを貯めて買っていましたので、空手着、サンドバッグは何とか買いましたが、特にバーベルは高価でしたので手が出ませんでした。いったい何が楽しいんだか、中学生の私は毎日部活動が終わってくると1時間必ず自主トレをしていました。まじめに空手着に着替え、庭先で基本をすべて100本ずつ行い、道路で型を行って、木に吊したサンドバッグを相手に大汗をかいて終わりです。合間に拳立てや腹筋、逆立ちなどを行っていましたが、それを見ていた父親がなんとバーベルとベンチのセットを買ってくれたのです。40Lのセットでしたが、中学生には十分でした。そのバーベルは上質のもので、現在でも使っているほどです。自己流ではありましたが、肩や胸が逞しくなっていくのが面白くなっていったのを覚えています。高校に入学してからは、週3日道場に通い、後は郡山市総合体育館のトレーニング室でウエイトトレーニングをするという生活になりました。そこには自衛隊出身のコーチがいたのでいろいろと教えてもらい、基本的な鍛え方を身に付けることができました。 高校を卒業してからは、盧山道場に入門するまで一月半ほど間があり、高田馬場のBIGBOXというスポーツジムに行きました。そこは会費が高くて続きませんでしたが、当時としてはすばらしい施設でした。中に180Bのサンドバッグがあったので、毎日独占していました。盧山道場に入門してからは、館長の教えをこなすのが精一杯でジムには行けませんでしたが、稽古場では中村先生のバーベル鍛錬を教えていただきました。あまり重いものを扱うわけではないのですが、これが結構きついのです。呼吸と関節を鍛錬するとでも言いましょうか、これこそ空手に適した方法だと思います。盧山道場の内弟子時代の最後の1年は、サンプレイの宮畑会長とのご縁もあり、盧山館長からもウエイトトレーニングの効果を勧められて、また週2回ジムに通うようになりました。結構熱心に行いましたが、食事が不十分だったので思ったほどの効果は無かったと思います。練習と休養、食事の3つが十分でないとダメだと言うことですが、勉強でも仕事でも同じ事ですね。最近「食育」などと言われていますが、相応の食事は特に大切だと思います。
福島に帰ってからは、仕事との両立で不安定な日々を送っていましたが、同僚からの情報で、近くに良い先生のジムがあると言うことで、さっそくそこに通うことにしました。そこの先生は、若いときに東京で遠藤光男氏などとトレーンニングした経験のある方で、自己流を認めず徹底的に基礎からやりこませる指導方法でした。私は自己流の癖がつきまくっていたので、全くの初心者にもどって一から指導していただきました。この時期の数年間は、徹底的にウエイトトレーニングに打ち込みました。先生のすすめでパワーリフティングも何度か出場することができました。デッドリフトで腰を壊した話は前述したとおりですが、これは私の未熟さであって、この先生の指導は絶対にケガをさせないという指導でした。実は、私が石川町で道場を始めたのはこの先生のお陰なのです。先生の息子さんやその友達に空手を教えてやってくれないかとすすめられ、はじめは断ったのですが先生の押しに負けて週1回だけということで始めたのです。これが現在の石川道場の始まりでした。約10年間このジムでお世話になりましたが、仕事の関係でどうしても通いきれず、今は足が遠のいてしまっています。このジムでは多くのことを学びました。基本の大切さ、ウエイトトレーニングの理論と技術、身体を鍛え続ける事への情熱など、今の私がウエイトトレーニングを好きなのはこのジムの教えがあるからなのだと思います。ここでは日本ボディビル連盟の公認指導員の資格も取らせていただきました。ここで学んだことは、自分だけでなく部活動の指導などでも大変役に立っています。
現在は自宅道場(「稽古堂」)に一切の器具をそろえてありますので、仕事が遅くなっても気兼ねなくトレーニングできます。週に2日は短時間ですが全力で取り組んでいます。現在の仕事先の近くにもジムがあるのでそこに行くこともありますが、私は誰と話すことなく、短いインターバルで狂気のようにトレーニングするようにしています。社交場のような気分でジムに行く方もいますが、ジムというのはそれも大事な役目だと思うので、それはそれで良いと思います。ただ私はトレーニングが始まったら「無念無想」で別人になるように心がけています。「○にキがつく」と教えられたとおりに実行しているつもりです。宮畑会長のサンプレイでのトレーニングも同じです。50人組手の前には会長に直接スーパーサーキットを指導していただきましたが、これなど○にキがつく世界でした。最初の日に始まって間もなく吐いてしまいました。石川のジムでシークェンスを教わったときと同じでした。ジムの帰りに車をとめて何度吐いたことでしょう。そんなトレーニングいや鍛錬が役に立たないことがあるでしょうか。武道界では「やると良くない」という方も多いですが、私は得るものが多い世界だと思っています。
ちょうどこの項を書いているときに石川のジムで一緒に汗と涙を流した林さんという女性の方の訃報が入ってきました。その方には、私が腰を痛めて泣き泣き練習している頃によく励ましてもらいました。また、私がパワーリフティングやベンチプレス大会で優勝したときも進行のアナウンスをしていただきました。仁義のわかる明るく元気な方でしたが、残念なことです。ご冥福をお祈りします。
空手の世界も良い世界ですが、バーベルの世界もなかなか良い世界です。絶叫しながらベンチプレスをする人やそれを補助する人、MAXに挑戦する人がいると皆トレーニングをとめて見守り、成功したらジム中で拍手をする。良いジムに行くと元気を一杯もらうことができます。私がアメリカに行ったときも、ジムで一人で懸垂をしていたら知らない黒人がすぐに補助に来て「もう一発頑張れ!(英語で)」と励ましてくれました。ハワイのジムでも私が腹筋をやっていたら60歳くらいのおばあさんが「ダメダメそんなんじゃ こっちに来なさい教えてやるよ(英語で)」と腹筋のサーキットを教えてくれました。えらいきつかったけれども何かとても嬉しかったです。言葉が通じなくともバーベルは世界共通です。そう思うとこれはこれで身体が動けるうちは続けていきたいと思っています。

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其の二十七
「お世話になりました」の一言が
私が教えることでもっとも大切なことのひとつが「お世話になりました」の一言を言わせることです。今時は大人も子どももこれが言えなくなってきました。「そう思えば言うし、思わなければ言う必要がないじゃないか。強制するのはおかしい。」という意見がすぐにも聞こえてきそうです。私は、自主性とか自発的とか言うことではなく、そう思えるように指導することが大切なのだと思っています。極端に言えば、場に応じてそう思っていなくても「お世話になりました」と言って頭を下げることができなければならないのです。
今では、お世話になることは当たり前で、それが権利として認められ、思い通りでなければ文句を言うといった感覚になっていないでしょうか。例えば、受験で合格したら頑張ったのは子どもで親は喜ぶだけ。先生に対して何の御礼の言葉もないのです。「先生が何様のつもりで御礼を言わせたいんだ」と切り返されそうですが、ここが教育のポイントだと思うのです。自分が何か成功したときに、喜ぶのと同時に、「誰のお陰か?」と気づかせる絶好のチャンスのひとつなのです。私の父親は、私が高校受験で合格したときに、私を電話の脇に座らせ、目の前で担任の先生に御礼の電話をしたものです。「お陰様で」「お世話になりました」を連発する父親を見て、「ああ俺はこんなにも先生に世話になっていたのか」と思ったものです。目の前でやって見せて教えてくれたのですね。しかも「おまえ小学校の担任に御礼言ったか?」と言われ、「そこまで必要あるのか」と思いましたが、逆らえる父親ではなかったので、小学校にいって担任の先生に御礼を言ったものです。そしたら小学校の先生の喜ぶこと喜ぶこと。それから30年以上経ちますが、いまだに嬉しかったと言われています。「自分の成功は誰かのお陰、失敗は自分の責任」と、うまいことを教えてくれたと親に感謝しています。
空手の世界でもこの言葉はとても大切です。私も上記のように親の教えで心がけていたつもりですが、20年ほど前の東北大会に出場し、3位に入賞したときです。盧山館長も審判で来られていたので、それなりに頑張ったつもりですが、力及ばず3位という結果でした。それでも一応入賞でしたので大会後のパーティーでは、挨拶があったりそれなりの待遇でした。内弟子時代はいつも裏方で主賓のような扱いをされたことがなかったものですから、多少浮ついてしまい、酒を注がれることにいい気になっていました。何かの拍子で館長の顔が見えたとき、ハッと我に返るところがあり、ビール瓶を持って急いで館長に酒を注ぎに行きました。なんとそれまで館長に酒を注いでいなかったのです。「オス、失礼しました。今日の結果は申し訳ありませんでした。」とまあしどろもどろの挨拶をしたのですが、「やっと来たか。まだまだだな。」と返されてしまいました。私は一気に酔いが覚めてしまいました。別に館長は偉ぶって言っているわけではないのです。私が一人で生きている訳ではないことを教えたかったのです。「人間は一人で生きているわけではない。多くの人に生かされているのだ。」ということを痛いほどわかっていたつもりが・・・恥ずかしさで一杯でした。「今で何を修行してきたのか」とすぐ浮ついてしまう自分が情けなくなってしまいました。
空手を一生続ける人間などほとんどいないのが現実です。始めるときはそれなりに勇気がいるものなのですが、始めて面白くなってくると「ずっと続けます」「一生やります」とか意気込んできます。ところがある日突然環境の変化や気持ちの変化でやめるときが来るのです。「やめる理由」が見つかったものはやめるものです。それを止められるものではありません。中学にはいるから、受験だから、他の習い事で忙しいから、飽きたからなど理由は様々です。やめるとなれば仕方のないことだと思います。ここで大切なことは「やめ方」なのです。何の連絡もなく来なくなってしまうものもいれば、「やめますから」の機械的なひとことでやめてしまう人もいます。町であっても素知らぬ顔という感じですね。逆に丁寧に「今までお世話になりました。」とあいさつに来る方もいます。そのような方は、その後どこであっても「その節はお世話になりました。」といういい感じのやりとりが続きます。人それぞれなのでどうこう言うことはないのですが、強くなるとか試合で勝つことなどよりも、実は「お世話になりました」の一言がいえるために空手の修行があったと思うのです。大会に出場したとき、審査を受けたときなど親や子の喜ぶ姿や悔しがる姿はよく見かけますが、「お世話になりました」「ありがとうございました」といった一言がつい忘れられているような気がします。決して先生に対してのおべっかなどではないのです。先生の側もそれで偉ぶるわけではありません。自分は「生かされている」という心を確かめるチャンスなのです。先生はそのための相手として利用しているだけなのです。「誰かのお陰で今の自分がある」そのことから「尊敬」や「感謝」の心が生まれてくるのです。
話があちこちにいきましたが、私は卒業する生徒達に「出会いはケンカでも、別れはお世話になりましただ。」「金や物ではない、ただその一言が俺の最後の教えだ」と教えています。それは先生に対してだけではなく、親や友達に対しても同じくするように教えています。今の時代、よけいな教えかも知れませんが、自分の子どもが高校受験に合格したときにも、子どもの目の前で担任に御礼の電話をしようと思っています。

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其の二十六
どならず、せかさず、いつのまにか事をなす也
今年の南東北空手道選手権大会も盛会のうちに終了することができました。来賓や出場した選手はもちろんのこと、なによりスタッフの皆様に御礼申し上げます。 「どならず せかさず いつのまにか事をなす也」とは、かつて私のモットーとして掲げていたもので、しばらく忘れていたことばでした。今から10数年前に勤めていたところにそのことばが残っており、最近そこに勤めていた人たちがいまだにそのことばを諳んじてくれていたのに驚き思い出したのです。当時私は30歳を過ぎたばかりで、ガンガン仕事に熱中していた頃でした。自分の企画が取り上げられ、それが認められて思い通りに職場が回ったものです。しかし、大体そういうときに「過信」というものが芽を出すのですね。いわゆる空回りが始まります。そうすると焦る。何とかしようと怒鳴る。帳尻は合うかも知れませんが、人の心は離れていくものです。 人間は焦ると内面の弱さが出てきます。怒鳴って相手を威嚇して何とかしようとする。怒鳴りつけることと指導の区別が無くなってしまうのです。これは、大人に対しても子どもに対しても同じです。ただ、子どもに対しては多少怒鳴りつけることも経験としては必要です。「大人は怒ると怖い」ということも教え込まなければならないからです。しかし大人相手ではそうはいかない。中には気にしない人もいますが大抵は怒鳴られた事実に対して根に持つものです。「昔の上司は厳しかった。よく怒鳴られたよ。」という話も聞きますが、「怒鳴る」そのものが悪いとは思わないので、別にそれも良いことだとは思います。要は怒鳴る側も怒鳴られる側も「人に寄りけり」ということだと思うのです。かつて私の上司にヒステリックに怒鳴り散らしている方がいました。今思えば言っていることはごく常識的に正しいことで問題のないことなのですが、言い方が悪い。部下は反発するだけで仕事が回っていきません。要は仕事が良く回り、働いた人間が「いい仕事をしたなあ。帰りに一杯やろうよ。」といえるようなオチになればよいのです。権力をカサにきて怒鳴ったり、威嚇したりする必要がなければしないほうがよいのです。 昔、25年ほど前、私が盧山道場で正指導員となり、川越道場を任されたときのことです。当時埼玉は支部が東西に分かれ、片方が脱会(除名?)する事件がありました。川越は脱会した側の道場を引き取ったところですから生徒はのこのこやってきた指導員に強い反発心を持っていました。はじめは私ではなく、実力のある先輩の指導員がうまくまとめていたのですが、その先輩が事情があって急にやめることになり私の担当となったのです。まだ二十歳を過ぎたばかりの若造ですから、元からいる連中は面白くないのは当然でしょう。中には好意的な人もいましたが、私も盧山館長の命で行くわけですから意地がありました。私はナメられたらいけないと思い。「返事が小さい!」「気合いを入れろ!」と怒鳴りまくりました。不満な顔をしたものには容赦なくビンタを放ったものです。組手は実力の差を見せつけるために叩きのめすまでやりました。指導に行っているんだか道場破りに行っているんだかわからない状態でした。当然生徒は激減です。毎回20〜30人いた生徒が7〜8人しか来なくなりました。事務の松澤さんから「岡崎くん、厳しいとか怖いだけでは人はついてこないのよ」と言われましたが、意地になっていた私はその言葉を受け付けませんでした。 そのうち盧山館長が「川越は何人くらい稽古に来ている?」と私に聞きました。盧山館長は、生徒の質と数で指導員を評価しますので、私は「しまった」と思いながらもあやふやな応えをしたことを覚えています。さらに、「今度埼玉県内の分支部をすべて指導に歩くからな」ということになり、私は自分の指導について、基本をすっかり見失っていたことに気づいたのです。さっそく盧山館長は川越に指導に来ました。生徒は10数名でした。川越は、埼玉では最も大きな分支部とされていたので盧山館長はがっかりしたことと思います。生徒も古参連中は一人も来ませんでした。私はてっきり館長に「何をやっているんだ!」と怒鳴りつけられるかと思いました。事務の松澤さんが私の指導の非を訴えるかと思いきや「岡崎くんは若いのによくやっていますよ。さすが盧山師範の仕込みは違いますね。」と褒めてくださったのです。道場の経営が傾けば松澤さんの勤めもなくなるかも知れないというのに、この一言が私を救ってくれたのです。私は、自分の焦りや思い上がりを反省し、空手を指導するということの基本を考えることにしました。まさに盧山館長が日頃から言っている「教えることは学ぶこと 学ぶことは教えることである」ということなのです。 不思議なもので私の姿勢が変わっただけで生徒の数は増え始めました。4年間川越道場を指導しましたが、生徒数は当時で140人になり、一度の稽古には少年部と一般部あわせて60名ほどが参加していました。姿勢が変わったと言っても厳しさについては館長譲りで妥協はありませんでした。ただ、自分の意地やプライドを捨てただけなのです。 その後も松澤さんは私の「埼玉のおかあさん」という感じでいろいろとお世話をいただきました。私が教員になるときに、桐の箱に入った白と黒の手作りのネクタイを「校長になったらつかってね」とプレゼントしてくれました。いつかその時には晴れ姿を見せたいと思っていましたが、一昨年、残念ながらその姿を見せることなく私の埼玉のおかあさんは病気のため他界してしまいました。松澤さんは書の達者な方で、私の太気拳の免状は松澤さんが書いてくださったものです。 表題のことばは、実は私が当時の職場で仕事が行き詰まったときに、大人相手に烈火のごとく怒鳴ったことがあり、その瞬間職場が凍り付いてしまったことを反省して残したことばだったのです。川越道場での経験が無駄になってしまうところでした。私は松澤さんから教えてもらったことをもう一度やり直そうと思いました。後の人は、その言葉からさぞ私が手品のように子どもを指導して成果を上げたと錯覚したかも知れませんが、決してそんなことはなく、自分に対する戒めでしかない言葉でした。ただ、いったん言葉に残してしまうと不思議なもので、そのことばが自分の足枷になってしまい、怒鳴らず事を成そうとする自分がそこに現れてきたのです。私がこの仕事に就いたときに「バカ」と「急げ」は禁句であるとも教わりました。これも近い意味があるかも知れません。 世の中では、毎日いやなニュースが流れています。人の心を戒める言葉はたくさんあると思いますが、それぞれがどれか一つを心がけるだけで、ちょっと世の中が変わるような気がします。
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其の二十五
学生諸君!いのちの50円
暑い夏が続いています。合宿やセミナー続きの毎日でしたが、猛暑の助けもあり予定の五キロ減量がほぼ達成できそうで、私にとっては良い夏になったと思います。この夏の空手関係者の話題は、どこにいっても「若者がいなくなった」ということです。確かに一般部の男子が少なくなったことはここ数年顕著な事実で、少年大会は盛況ですが、一般部の激減は深刻な状況になってきていると思います。かえって40歳以上の空手バカ一代世代は、「2度目の青春」といった感じで盛り上がってきているようです。まさに熱血オヤジと子どもだらけの極真空手といった雰囲気になっています。
若者の減少は、当初組織の分裂やK−1、プライド人気などに押されて極真空手の魅力が低下したと考えられましたが、どうやらそういうことではなく、単に若者のスポーツ離れ、武道離れに原因があることがわかってきました。極真空手に限らず、いわゆる伝統派空手も団体戦が組めないとか、柔道、剣道も閑古鳥が鳴いているようですし、人気があると思われるサッカー、野球も1部の愛好者のみでテレビで盛り上がっているほどやっている人は少ないようです。ではこの世に若者はいないのか?というと、遊び場や飲み屋には結構ウジャウジャいるのです。別に私は若い者は遊ぶのも仕事ですからどんどん遊んで良いと思いますし、私など稽古の合間を縫って腐るほど遊びました。「どうしちゃったの日本の若者?」と言う状況です。
私は「今時の若い者は」とは言わない主義です。どちらかと言えば「今時の年配は」ということも多いように感じるからです。この点はどうでもいいことですが、とにかく若者が汗を流して自分を鍛えなくなったのはどうしてか皆で考えてみましょう。このままでは日本が滅びてしまいます。いろいろ原因があるとは思いますが、一つには小学校、中学校時代の勝負偏重主義のクラブ活動(学校以外の社会体育も含めて)に問題があるかも知れません。「いわゆる燃え尽き少年」とでもいいましょうか。はじめたら何でも勝て勝て主義で押しまくり、勝ってなんぼの価値観しかない。勝つためにはどうするかの理論ばかりで、自分を磨く、鍛えることに喜びを感じない。だから勝てなくなったらやめてしまうのです。「勝てなくなってからが本当の修行である」と盧山館長には教わったものですが・・・。中学生に「高校に行ったら何をしたいですか?」と言う質問に対して「バイト」が第1位の回答となっています。中学時代部活で活躍した生徒もあっさりやめてしまうのです。また携帯とパソコンの普及が日本と日本の若者をダメにしているとも考えられます。昔は友達づきあいは家に帰るまで、家に帰ったら家庭のつきあいでした。電話など親に断って親の前でかけるのですから落ち着いたものではありません。だからよっぽどでなければ私用の電話などかけられませんでした。テレビも茶の間に一台ですから、見たかったら親と一緒で、チャンネル争いも一種のコミュニケーションでした。親もパソコンなどなかった時代には、明日のことは明日という仕事ぶりでしたので、今よりも家庭にいる時間が長かったと思います。パソコンの普及により仕事のテンポが速くなり、どの職場も忙しさが増していることと思います。そのくせ生活が豊かになったかというとそうではないのです。昔は、父親の稼ぎで家族四人が生活できました。決して贅沢はしませんが、一家の団らんの中で子どもが成長できたのです。サザエさんやまるちゃんの家庭が昭和の昔の良いところを残しているのでしょう。話はもどりますが、携帯を個々が持つようになったため、家に帰ってからも友達づきあいが続くのです。したがって、親(大人)との会話の場面が益々なくなり、同じ程度の人間の横のつながりでしか価値観が形成できなくなってしまっているのです。また、それぞれの部屋にテレビやパソコンがあるわけですから入ってくる情報も親の目を通さない、自分たちだけの情報となっていきます。個性尊重と言いながらやっていることや考え方は横並びで、毎日こまめに友達と連絡を取り合い互いに規制しあっている友達関係しかないのです。ある意味勝手なことができない、やればはじかれてしまうのですから下手な校則より厳しい関係ですね。悪いことばかりではないのでしょうが、化粧やファッションにばかり興味がいっている世の若い男達には「身体を鍛える」「強くなる」などダサイ(ウッ死語かな)ことなのでしょう。
さて、やはり若者の代表として、親の脛をかじっている学生諸君は、この先どうなるのでしょう。私の頃は、まわりの情報が「あしたのジョー」「巨人の星」「空手バカ一代」といった梶原一騎一色でしたので、小学生のくせに吉川英治の宮本武蔵を読んだりしましたし、大山倍達総裁の「男子三日あわざれば刮目してみよ」という言葉に触発されて、毎日拳立てと巻藁を続けたものです。「強い男」「鍛える」ということに誰もがあこがれを持っていました。女の子達も、軟弱な色男よりもいざとなったらケンカの強い男に人気が集まっていたような(ウッこれも勝手な思いこみかな)気がします。私の中学時代は、剣道に強くなることと空手を続けることに全力を注ぎました。高校進学も志望校決定の理由は道場に近いからです。ここまで極端なのはどうかと思いますが、私のようなものがゴロゴロいたのも確かです。でも空手ばかりやっていたわけではなく、将来は映画監督や絵描きになりたかったので、暇さえあればそちらの活動もやっていました。映画づくりはよくやりましたね。私の部屋は編集作業中のフィルムだらけで足の踏み場もなかったですから。制作費がなくて電車の中でカンパをお願いしたりもしました。映画づくりの仲間とは、空手とは別に長いつきあいで、いまでもたまに小さな作品はつくっています。
学生や若者達に言いたいことは、まず「金がないのが若者である」ということです。金がなければ遊べませんので、金は無いほうがよいのです。盧山館長は、寮ができる前は私に「バイトする暇があったら稽古をしろ」と厳しくバイトを禁止しました。とはいってもまだ指導料ももらえなかった頃は、本当に金がなく私は食べることもろくにできずに空きっ腹で過ごしていました。冬のジャンバーもありませんでした。冬でもトレーナーで過ごしていると「おまえは寒さに強いな」と言われたこともあります。いくらかの仕送りと米と味噌だけは田舎から送ってもらいましたが、アパート代と定期代を払うと1日300円分ほどしか残りませんでした。当時銭湯が190円でしたので、よくそれで生活していたものです。朝昼晩キャベツづくしというのもありました。キャベツのサラダ、キャベツ丼、キャベツの野菜炒めにキャベツのみそ汁といったメニューです。こたつが壊れていて冬に暖房がなかった年もありました。寒くていられないんですね。鍋でお湯を沸かして、それに手をかざして暖まったこともあります。300円オールナイトの映画館で寒さをしのいだこともあります。池袋駅前のロッテリアは夜の11時までやってましたので、コーヒー一杯で閉店までねばり、命をつなぎました。そのとき隣のテーブルにいたホームレスのおじさんが、他の客に迷惑になると言うことで店員に追い出されていた光景が忘れられません。もっとひどい時には、新宿駅の京王新線の改札前に座り込み、だれか知っている人が通るのをジッと待ったこともあります。広い東京でだれかに会うなど不可能なこととは思うのですが、その時は神様のお陰か高校の応援団の友達とばったり会うことができました。彼は私の境遇がわかっていましたので、何も言わずに食事をごちそうしてくれました。このような貧乏生活が続きましたが、稽古だけは変わりません。もしかしたら私が内弟子を逃げなかったのは、朝、館長宅でいただける一枚のパンがあったからかも知れません。
私には「いのちの50円」というものがあって、本当に追いつめられたときに親に連絡するための金でした。10円では用件の途中で電話が切れたら大変なので50円という額になったのです。どこまでこれを遣わずに耐えられるかという自分(貧乏)との闘いでした。最近のドラマで似たような話がありましたが、それよりもきつい生活だったと思います。結局この50円は遣わずにすみましたが、この金がない若者時代は私にとって宝だと思っています。先日の韓国セミナーの後、サインをたのみにきた若者達が、この後2年間軍隊に行かなければならないと言う話を聞きました。稽古中ひ弱に見えた彼らが急に逞しく、頼もしく見えたものです。それに比べて同じ世代の日本の若者は何をしているのでしょうか。現代の豊かな日本は、戦後の貧しい時代に育った人々が一生懸命に働いて築いたものです。美空ひばりの「東京キッド」のような「右のポッケにゃ夢がある」少年時代だったのでしょう。いったい今の若者はどんな日本を築こうとしているのでしょうか。
学生諸君!君たちに「いのちの50円」はありますか?

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