其の二十四
日本古武術を語る
これもまた私があれこれ語ることは大それたことですので、先に先輩諸兄にお詫びを申し上げてから書くことにします。
私が剣道を始めたのは、小学校5年の後半でした。何か武道をしたくてしょうがなかった私は、父親の知り合いに糸東流の空手を習ったりしていましたが、町に剣道教室があるということを知り、そこに友達と入会することになったのです。私の育った町は、剣道、柔道が盛んでしたが、ちょうど森田健作の「おれは男だ!」がテレビで流行っていた頃だったので、私は単純に剣道を選んでしまったのです。でも実はこれが私の長い武道人生に幸いしたのです。当時の先生は、小手先の技術で目先の大会に勝てばよいという考えではなく、「武道はまず基本から」という昔ながらの指導をする先生だったからなのです。しかし、今となっては有り難いと思っていますが、当時は基本の繰り返しなどアホらしくて、休憩時間に小手をつけて友達と殴り合いをしてふざけていたので、怒られて正座ばかりさせられていました。足捌きと素振り、切り返しだけの毎日ですから子どもは飽きて当然です。しかし、先生達は絶対にそれを曲げませんでしたし、できの悪い私など試合もさせてもらえませんでした。
中学に入ってから剣道部に入り、良い先輩達(?)のお陰で剣道には真剣に取り組むようになりました。今の中学では考えられませんが、朝練、昼練、放課後、夜の高校への出稽古と1日4〜5時間は当たり前だったようです。私の中学は地区では最も強い学校でした。私は1年生からレギュラーになり地区レベルでは幾度となく優勝を経験することができました。私は県南地区までの優勝が最高でしたが、地区内では負け知らずの選手だったと思います。周囲では高校進学後は絶対に剣道部に入ると思っていたようです。高校からの誘いもありました。しかし、私はこれまで並行してやってきた極真空手一本に絞ったのでした。高校1年の時には私はすでに茶帯でしたが、この時から盧山館長が福島に指導に来るようになりました。早い話が剣道などやっている暇がなくなったのです。この当時の話は別な項で紹介していますので省きます。
剣道から一旦は遠ざかりましたが、「剣」というものに対する興味がなくなったわけではありません。剣道形や制定居合など結構好きで続けていましたし、剣道で学んだ体捌きや間合いの取り方など、埼玉での顔面ありの組手等では大いに役立ちました。現代剣道は、厳密には古武術とはほど遠い存在ですが、「剣」という得物によって、空手本来の古武術性を常に考えることができたと思っています。埼玉から福島に帰った私は、仕事で剣道部の顧問となったことにより、また剣の世界にもどりました。私は生徒と一緒に稽古をすることで昔の勘を取りもどし、生徒を強くするためにいろいろと研究をしたものです。お陰様で東北大会にまで駒を進める選手も育ちましたが、一方で試合剣道とは別に古武術としての「剣」の魅力も感じるようになってきました。盧山館長の空手の考え方がそのままあてはまったのでと思いますが、身近に学ぶ機会もなく漠然とその思いを持って剣道の指導を行っていました。
29歳の頃だったと思いますが、私はある決心をして、雑誌などで公開されていた著名な先生の古武術の講習会にこまめに参加するようになりました。実は私は福島に帰ってから、無理な稽古と仕事の疲労で26歳から3年間の内に椎間板ヘルニア、右腕尺骨骨折、右膝脱臼、左膝靱帯損傷といった致命的な怪我を次々にしてしまいました。仕事の忙しさを理由に稽古をさぼらないようにと無理に空手やリフティングの大会に出場していたためですが、「大会のための準備」など全くなく、勝てるどころかケガをして当たり前での結果でした。ケガをしたまま稽古を続け、ケガの治らないまま試合に出るといった状態です。まさに埼玉での内弟子時代の貯金を使い果たしたような状態になったとき、「術」というものをもう一度見直そうと思ったのでした。 古武術の稽古は「目から鱗」の連続で、私は学んだことを一つでも自分のものにしようと稽古に打ち込みました。ただ平素の空手の稽古はそのままですから、時間の生み出し方には苦労しました。そのうち、神道夢想流杖術無料講習会という広告が目に入り、さっそく私は電話で申込み、千代田区の小学校の会場に行ったのです。「剣」とは別に「杖」にも昔から興味を持っていたので、楽しみにして行きました。稽古は、基本の何手かを学んだ程度でしたが、なぜかそのままそこの先生と飲みに行って意気投合し、そのまま入会してしまったのです。そのきっかけは、話の中の「下関のえらい先生」の魅力でした。また無外流という居合の存在でした。「杖道で初段をとったら居合を教えてやる」と言われたので、私は杖の稽古に励みました。杖は空手の棒術と共通するところが多く、たいへん学び甲斐がありました。私は2年かかって初段となりました。そこでようやく無外流居合兵道の入門を許していただくことなったのです。無外流は、江戸中期の剣豪辻月丹を祖とする流派で、幕末、明治と多くの実力者を輩出しました。現在の宗家は、前述の「下関のえらい先生」こと塩川寶祥先生でした。先生は糸東流空手の大家でもあり、杖道も知らないものないというほどの実力者です。塩川先生を招いての講習会に参加した私は、先生の動き、技の理論に感銘し、いろいろと出稽古に行っていた関係を整理し、この先生一本に絞ることにしたのです。そのことを盧山館長に相談したところ「おまえがそう思うんだったらその先生は立派な先生なのだろう。どうせやるなら皆伝もらうくらいの気持ちで頑張れよ。」と許可をいただきました。そのうち私は塩川先生の講習会の後の懇親会で声をかけていただき、雲の上の存在の先生に親しく話をしていただくようになり、居合で四段を取ってからは下関に直接稽古に行くことを許可していただきました。そうなると私は持ち前のしつこさで、毎年3〜4回ずつ稽古に行くようにしたのです。塩川先生は年3回ほど東京に来ましたので、ふた月に一度は直接ご指導いただくという恵まれた状態になりました。下関の稽古は、2〜3泊の滞在でしたが、当初は朝7時から夜の11時まで、食事以外はぶっ通しの稽古でした。先生方は2〜3時間おきに教える内容で代わるのですが、私は一人ぶっ通しでした。空手、杖、居合と徹底的にご指導いただきました。下関の先生方は皆50〜60歳代で、一般的な極真空手ではもう身体が動かない年齢ですが、皆さん矍鑠としてその技には衰えがなく、「おまえは固い」「無駄が多い」と厳しく指導してくださいました。塩川先生が東京に来たときも同じ宿に泊まり、夜も部屋や廊下で稽古をつけてもらいました。塩川先生をはじめ、高弟の皆様に共通することは、皆さん年齢に関係なくよく身体が動き、技が効くということです。身体の大きな私が蹲ったり右に左に転がされたり、頭がこぶだらけになったりするなどこの文を読む方々には信じられないでしょう。「理に叶う」と言うことなのだと思いますが、これが古武術の中核なのす。さらに何歳になっても動けるということは、身体に無理がないということも言えます。膝や腰を痛める動きでは、年を取るにつれて稽古ができなくなってしまいます。それまで私も「年を取ってからも強くなれるように」などと口では言っていましたが、盧山館長も当時まだまだ40代でしたし、沢井健一先生と中村日出夫先生以外には身近にそのような方はいなく、夢のような話でしかなかったのです。ところが古武術の世界には、実際に元気で強いお年寄りがウジャウジャいたのです。
若い頃、ケガをするほど無理をすると言うことも大切です。しかし、実際に稽古が続けられないほどのケガをすれば、本当の武道の修行の前に終わってしまうのです。「体力の衰えを感じてからが本当の武道の修行である」と言われますが、ケガをしては元も子もありません。私は思いきって決断をして良かったと思っています。ただ、私自身極真空手の組手は大好きですし、その点悔いを残さないために、34歳と11ヶ月目で50組手に挑戦しました。今でも道場でド突き合いの組手は行っていますが、選手という縛りから離れて自由に稽古をしています。
古武術のよさは、よく足を使うということです。足捌き、体捌きが重要であり、技や武器はそれに付随するものです。そしてその動きが、個人の力量や工夫に頼ったものではなく、体系的によく整理されているのです。もちろん素質も大きな要素を締めていますが、こつこつ続けることで確かな成果を上げることができるのです。これは中国拳法にも共通することですので、太気拳を続けていた私には合点がいくことばかりでした。また、技の伝授のシステムも閉鎖的な点が実は良いと思っています。達しないものにはその技すらも見せないのです。この閉鎖性が、確実な伝承と修行者の格付けをしっかりとしたものにしているのです。今は何でもオープンになり、空手の世界では小学生がアーナンやスーパーリンパイを演武しています。試合で勝ったものだけが評価されるという状態もあります。おそらく教えている先生も伝承の手順がわからないのでしょう。確かに昔のように握り3年立ち方3年の考えでは人が集まらずしかも続かないのだと思いますが、長い目で見れば実はそれが一番の近道だと思うのですが・・・。
私が下関に通い始めてちょうど10年目の時に塩川先生が「君は10年間ずっと態度が変わらんなあ」と仰いました。私は何も意識していなかったのですが、大抵2〜3年でもう稽古に来なくなったり、段々なれなれしくなってくるものが大体なのだそうです。私が盧山館長に許可を得るときの言葉を伝えたところ「君はいい先生を持ったねえ」と褒めていただきました。実際のところ私など以上に下関の古参の先生方は何十年と塩川先生に対する尊敬の態度を変えずに稽古に励んでいるのですから、私など特に褒められたものではないのです。今では無外流居合兵道の免許皆伝をいただき、その後継者にまでしていただきましたが、修行中であることには変わりが無く、年3度の下関稽古は続けています。
よく「いろいろと学んでいて、いつどうやって稽古しているのですか」と聞かれますが、私の身体の中では、空手、太気拳、居合、剣術、杖術、柔術などすべて一つのものなのです。あちこちから「もうやめろ」といわれているウエイトトレーニングも好きでやめられず、週2日は必ず全力でやっています。はじめの頃は消化不良を起こしていましたが、長年続けていると不思議とどれも中途半端にならずに形になってくるものです。空手にしても糸東流という枠で考えていないので、極真空手も同じ空手だと思うといろいろと相乗効果があるものなのです。ただ、これらすべてを結びつけているキーポイントは実は太気拳(意拳)なのかもしれませんが、これは物議を醸し出す発言になるのでここまでで控えます。
日本古武術についてのうんちくを語ろうとしましたが、単なる思い出話になってしまいました。ただ、すべては出会いによって導かれた世界であると言うことだけは確かで、まさに「天の采配」という言葉があてはまると思います。まだまだ学びきったものはなく、暇さえあれば(なければつくる)稽古をするという毎日がこれからも続くのです。

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其の二十三
中国拳法を語る
まず私が中国拳法についてあれこれ語ることは大それたことですので、先に先輩諸兄にお詫びを申し上げてから書くことにします。私が空手について語る場合に、中国拳法はおよそその中核に位置するものであるため、触れないわけにはいかず、お叱りを覚悟で書くことにします。ただし、私の体験と浅はかな修行のなかで理解したことなので、読まれる方はその辺のことをご理解下さい。
私が中国拳法と出会ったのは、高校を卒業して盧山館長の内弟子となったときです。もともと漫画の影響で太極拳など見様見真似でやっていましたが、「太気至誠拳法」という思いも寄らぬ拳法を正式に学ぶ羽目になったのです。最初内弟子は私一人でした。私は池袋にアパートを借りていましたが、朝8時に北園団地の館長宅にお邪魔し、そこから通称「稽古場」といわれていた差間にあった興照寺というお寺の境内に、二人で行って稽古をするのです。館長の都合によってはまっすぐに稽古場に行ったりしましたが、ここでの稽古はまさに内弟子の特権で、館長とマンツーマンで稽古ができる恵まれた時間でした。私は、館長がよいというものは、何のためらいもなく取り組むようにしていましたので、太気至誠拳法(以下太気拳とする)には熱心に取り組みました。ただ、館長とマンツーマンというと何かいろいろと手取り足取り教えてもらえるように思われそうですが、実はそんなことはなく、「立禅」をただずっと「まずは立つこと」というだけでじーっと立つだけの稽古でした。足は震える手は震える、ただ辛いだけでした。館長は腰を低く落とし、約40分間微動だにしません。館長は稽古内容がきっちりと決まっており、立禅、半禅、揺、発勁、這、練と進んでいきます。私の他に先輩がいるときには推手や組手も行っていました。その後が砂袋です。コンクリートのような砂袋を正拳、裏拳、脛の三カ所を基本として延々と叩くのです。血尿は当たり前です。気の遠くなるような稽古でした。夜の道場での空手の稽古は型あり組手ありで動き回る楽しさがありましたが、昼の稽古はただもう忍耐の稽古でした。私は中国拳法の認識が全くできていなかったので、ただもう「立つ」稽古が「いったい何の役に立つんだ!」という心と「これをやれば強くなるんだ!」という心との葛藤の日々だったのでした。
この当時の稽古の楽しみは、太気拳の創始者沢井健一先生が月に一度稽古場に指導にお見えになるときで、この時は館長他、当時の広重副館長をはじめ、館長と親しい先生方とその高弟が集まるのです。稽古内容はいつもと同じなのですが、沢井先生の軽快な話しぶりと、集まる方々の意欲満々の雰囲気が、私にとって末席にありながらも中国拳法の魅力に取り憑かれることとなりました。沢井先生は、当時70歳を過ぎていたと思いますが、矍鑠として動きも機敏で、いったいこのエネルギーはどこから出てくるのだと不思議に思ったものです。当時の私は、稽古に参加しているというだけで、沢井先生からは声もかけられませんでした。稽古の後はいつも食事会があり、私や湖山さんは端の方でおとなしくしながら館長や副館長たちが沢井先生を囲んで身振り手振りで武術の話で盛り上がっているのを羨ましい思いで一生懸命に聞いたものです。
盧山館長は、指導の際によく沢井先生のことばを引用されました。まず私の好きな話は、「馬賊」の話です。暗闇でモーゼルを組み立てる話など、まさに職人芸で何度聞いてもワクワクする話です。「粟粒の中の栗になれ」「山は頂上まで登れ」「若い内はポケットに何でも入れておけ」「壊れた時計の話」など一つ一つ紹介すれば膨大な文章になってしまいます。今は何でもビデオだDVDだと安易に映像で情報を手に入れようとしますが、当時は実際の稽古とことばだけでした。何度も何度も先生のことばを繰り返して自分のものにしていったように思います。
最初の半年は、立禅と半禅だけでした。館長からは揺と這まで教えていただいていましたが、沢井先生の稽古では、そこまで許してもらえませんでした。しかし、半年が過ぎてから揺と這の稽古に進むことが許されました。ただ「やってみなさい」といわれただけで、何がどうと直していただいたわけでありませんでした。実は私がちょっと得していたことがあって、沢井先生は、稽古の時に西川口の駅で館長と待ち合わせをしており、そこから館長の車で稽古場に行くのですが、私もその車に乗せていただくようになったのです。後ろの座席に沢井先生と2人で座るのですが、話し好きな先生ですから、いろいろと話しかけていただきました。私の前腕を見て、触りながら「太い腕だねえ、柔らかい筋肉だねえ、君は強くなるよ」などといっていただいたのがうれしい思い出です。そんな訳ですから、益々太気拳にのめり込んだものでした。人に見られることがあまり気にならない性格の私は、いろいろなところで立禅や這を行ったものです。冬の公園で手の甲に玉のような汗が乗るほど反応がよくなりました。2年目になってようやく「練をやってみなさい」というところまでいきました。この稽古は本当によくできたもので、「練」とはよく言ったものです。私は身体が弾力のある粘土のようになった気分になりました。時間を忘れて太気拳に没頭したものです。
いろいろな事情によって沢井先生の月1回の稽古会はなくなりましたが、稽古場での稽古には益々熱が入りました。もちろん、道場での空手の稽古はおろそかにはしていません。部位鍛錬も血尿が出るまで行っていることは断っておきます。このころ、盧山館長からは、太気拳をもっと理解するためには、そのもととなった形意拳、さらに同様の内家拳である太極拳、八卦掌を学ばなければならないといわれ、館長が台湾の王樹金先生より学んだ型をいくつかご指導していただきました。私はこれもまた面白くて、やがて出稽古をして、さらに太極拳、形意拳、八卦掌などを学びました。私は型をたくさん覚えることよりも、中国拳法の身体の使い方を少しでも理解したくて、いろいろな先生を訪ねたものです。具体的な内容については伏せておきますが、私が好んで学んだ拳法は、すべて身体の運用に精密な理論があるものばかりでした。人間の能力を引き出す手段として型があるのです。この理論や実際は、あらゆる空手の動作に的確に合致し、空手の認識を更に深めることができました。現在行っている居合や杖などの日本古武道もすべて同じかと思っています。先日、日本で最も古い流派の先生が「この武道の原型は中国拳法から伝わったものだと思う。」とはっきりと仰っていました。私も薄々感じていたところでしたので、その発言には後光が差して見えたものです。日本と中国どちらがすぐれているというものではありません。ただ、技術や理論が共通することによって、相互に発見があり、相乗の効果が現れるということなのです。
中国拳法を語るなどといっておきながら沢井先生との思い出話になってしまっています。私の内弟子生活6年間のうち、後半の3年間は顔面あり組手の時代でした。それは盧山館長の組手に対する方向性が元々そうでしたし、それまでも顔面を叩くことは暗黙の了解でしたので、あまり抵抗はありませんでしたが、中国拳法との交流試合が始まったことにより、特に力を入れるようになりました。この交流試合は3回行われ、私は3回とも参加しました。この内容については、やった人間にしかわからない世界ですので、ここで述べることは控えますが、試合の後の沢井先生の指導の相手をさせていただいたりして、得るものが多かったとだけ書いておきます。その後、私は福島に帰ったために沢井先生とお会いすることがなくなりました。具合が悪いという話も聞こえてきましたが、特に急を要する情報は入ってきませんでした。しかし、昭和63年だったかと思いますが、私が館長たちと湖山さんの結婚式で米子に行ったときのことです。朝、館長がホテルの自分たちの部屋に入ってきて、「沢井先生が亡くなったぞ」と仰いました。私は驚いて思わず「東京にもどられますか」と聞いてしまいました。館長は「死んだ人が生き返るものではない。今日は湖山のめでたい日だ。」ときっぱりと言いました。私達は「オス」の一言を返すのみだったのを覚えています。後日沢井先生の葬儀ではいろいろなことがあったそうですが、盧山館長の悲しみは計り知れないものがあったと思います。私も悲しむとともにたいへんに後悔しました。もう沢井先生から直接学ぶことができない。そう考えると悔やまれてなりません。武道の世界で「そのうち」は禁句とされています。そのうちお会いできるだろう。そのうち学べるだろう。しかし先生はいつまでも生きているとは限らないのです。私には先生と一緒の写真すら残っていませんでした。
現在の極真館は、中国意拳の孫立先生のご指導で、太気拳という名称ではなく、意拳として指導がなされています。孫先生は、本場中国で王向斉老師直系の拳法を学んだ方で、人間的にも尊敬に値する先生です。私も個人的にご指導をいただくことがあり、中国拳法への理解が一層深まったと思っています。ただ、私は沢井先生、盧山館長に学んだ太気拳に対する思いも強く、その技術と系統は失いたくないと思っています。その考えを盧山館長に話したところ、それはそれでいいことだということで太気拳「錬士」の許状をいただくことになりました。今はもう沢井先生にお会いすることはできませんが、いまだに私の手や首などに先生に技をかけていただいた感触が残っています。この感触がある限り、私の稽古が途切れることはありません。さらに孫先生の意拳を学ぶことで、理解できなかったことが次々と理解できるようになってきました。
太気拳を教えてよいという許状をいただいたものの、実際に太気拳の生徒をとって教えてはいないのでこの拳法は私だけのものになっていますが、田んぼで這をやったことや風呂屋の隣の公園でばあさん達に囲まれながら立禅をやっていたことが懐かしい思い出です。技を残すということは、その技を学ぶ過程で教えを受けた先生の感触も残るということなのです。私が太気拳を続ける限り、沢井先生は目の前にいて、あの溌剌とした声でご指導なさっているのです。
私の自宅道場には、大山倍達総裁、盧山初雄館長、中村日出夫先生、沢井健一先生そして塩川寶祥先生の写真が飾られています。これらの先生方の写真に睨まれながら毎朝毎晩稽古しているわけなのですが、つくづく良い先生方に恵まれたと感謝しております。それもこれも盧山館長をとおしての出会いですし、館長の稽古に耐えたからこそこの出会いがあったのだなあと思っています。盧山館長や廣重副館長が沢井先生を囲んで大陸の話で盛り上がっている姿がいつまでも私の心に残っています。
今回は太気拳と沢井健一先生の話になりましたが、他の先生方との思い出の話もいつか書きたいと思っています。

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其の二十二
黄昏のジャンジャン横町
大阪に行くと必ず立ち寄る場所がジャンジャン横町です。通天閣に行く途中の小路ですが、串カツと土手焼きがおいしい店が並んでいます。観光客で賑わうと言うよりは、地元のオッさん達のたまり場という感じが好きですね。大阪弁で「めっちゃ好っきゃねん!」とでも言うのでしょうか。
ここには何軒かの囲碁、将棋クラブがあります。地元のお年寄りやおじさん達がドッカと腰をおろしてタバコをふかしながら昼真っから将棋を指しています。仕事をしているかどうかはわかりませんが、特に仕事を引退しているお年寄りにとっては、仲間と楽しい空間を共有できる娯楽スポットなのでしょう。ブラリとここにやってくると昼間から将棋好きの友達がウジャウジャいるのです。真剣に将棋を指している人もいれば横から腕組みしていろいろと講釈している人もいます。そしてひとしきり楽しんだ後は、隣の串カツ屋で串カツ一本と土手焼き二本も食べて中ビンのビールをグイッとやる。息子の嫁にでも「じいちゃんこれで遊んできなよ」とでも言われて持たせられた2千円ほどで十分楽しめる至福の時なのです。ほろ酔い気分で夕暮れの横町をふらふらと帰って行く老兵達を見ていると、私は「人生のオチはこうでありたいなあ」としみじみ思うのでした。この空間にいると、武道の達人だとか組織の肩書きだとか、世間の知名度などどうでもよく、あそこのカウンターでビールを飲みながらタイガースの話に盛り上がっている、あの無名のじいさんになりたいなあと心から思ってしまいます。おそらくそれは、私自身の今現在の忙しい生活からの現実逃避なのだと思うのですが、昔から汚い飲み屋の片隅で安いつまみでウダウダ飲むのが好きでしたので、武道と同じくらいに根っから好きな環境なのかも知れません。
武道に限らないのですが、芸事というものは長く続ければ続けるほど得るものが多いのですが、一方では孤独な世界になっていくものです。続けるからこそ名人達人になれるのです。そして多くの人はこの「続ける」ということができない。だからこそ続けた人間にのみ、そうでない人間には到達できない境地に立つことができるのです。おそらくその時、自分はひとりぼっちになっているのです。多くの後輩や弟子達に囲まれているかも知れません。教えを請いに訪ねてくる人間が跡を絶たないかも知れません。しかし、同じく何十年もの道のりをともにした同期のものはどこにもいないのです。黒帯をとる前に師範や先輩から共にぶっとばされて泣いた奴、試合に出るために一緒に合宿をしたり、砂袋を叩く回数や立禅の長さを競争した奴、みんな遠い昔の話になってしまいました。まだまだ若いと思っている私がこんなことを書くのは情けないかも知れませんが、高齢になっても黙々と続けられている大先輩達も同じ気持ちを持っているのでしょうか。人より朝早く起きて、立禅をやって砂袋を叩いて、身体の痛みに耐えながら刀を抜いて棒を振り回している生活、ちょっと朝寝坊をして昼から将棋クラブに顔を出し、帰りは串カツでチョイと一杯という生活、ここに価値の違いがあるのでしょうか。武道などさっさとやめて引退し、昔の武勇伝として酒の肴にしてしまった方がずっと気楽なのかもしけません。
よく「毎日そんなに忙しいのに、いったいいつ稽古をしているの?」と聞かれますが、朝晩しょっちゅう稽古をしているのです。私にとってはお勤めのようなものですから、今日は何を頑張ろうといったものではないのです。ですから何を何時から稽古していますといった答えはあまり期待しない方がよいのです。こんなことがいったいいつまで続くのでしょうか。前にも書きましたが、私の場合は「続ける責任」があるので、「やめる」という選択肢がないのです。
ただそれだけで、毎日きついきつい稽古を続けているのです。そのうち空手歴60年!なんて時が来るのかなあ・・・・
今回の文は、怠惰な気迫のないものになっています。ただ、こんなとりとめもないことをダラダラと書いているうちに、あることに気づきました。
『朝、人より早く起きて立禅をやって砂袋を叩いて、ひとしきり稽古をしてからひと風呂浴びて、ふらりと横町に行き、将棋クラブで名もない友達に紛れて将棋を楽しんで、隣の串カツ屋で土手焼き一本とホッピーでも飲んで黄昏のジャンジャン横町をプラプラと家路につく!』
この集団の中にこっそりと鍛え抜かれた年寄りが混ざっていてもいいのかなあ。そんな老後も有りかなと思ってしまいました。
結局、稽古からは離れられないんだなあ。

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其の二一
さらば東北書店
 郡山市に「東北書店」という老舗の書店があります。駅前アーケードのなかにあり、ビル3階までの大きな書店で、専門書の豊富さが「本屋オタク」「活字中毒者」の人気を集めていました。実はこの東北書店が、経営の悪化で今月20日に閉店することになったのです。このニュースは、新聞報道などよりも東北書店ファンの間で飛び回りました。私は、先に植木等さんがなくなったことにひき続きショックを受けました。
 東北書店は昭和26年創業で、郡山の知的文化の象徴としてその存在を示してきました。私は、東北書店がある限り郡山市は不滅だと言い続けてきたのです。私は、その町の知的文化のバロメーターは、本屋と喫茶店と図書館にあると思っております。しかし、この三拍子がそろっている町が今激減しています。そのどれもが生活がかかっていますから、売れない本屋、コーヒー一杯で粘る客だけではやっていけないのでしょう。どこも漫画と雑誌と何かの抱き合わせの書店ばかりです。私が一生懸命に本を買ってもたかが知れていますが、「すまない。俺が悪かった。」とただただ東北書店に詫びるだけであります。
 私と東北書店の出会いは、高校入学の時からです。石川町から郡山の高校に通っていたので、下校時に必ず立ち寄る本屋でした。武道関係の本が豊富にありましたし、参考書はもちろん私の好きな歴史の専門書も所狭しと並んでいました。私にとって一日いても飽きないところでした。空手を本格的にやるために郡山市内に下宿してからも、道場に行く前に必ず寄ったものです。何を買うわけでもないのですが、本に囲まれるとほっとする自分がありました。その当時いつか自分の書いた本がこの書棚に並んだらいいなあとも思っていました。また、当時は階段の壁のところに高校の美術部の作品が飾られることがあり、私も実は美術部に入っていた(他に応援団と柔道部と水泳部に入っていた)のでしばらく飾ってもらったことがあります。ここで「あしたのジョー」を全巻立ち読みしたのもよい思い出(?)です。高校を卒業してからは、東京の高山本店など、神田の老舗に毎日通ったものです。前にも書きましたが、私は本が好きで本に埋もれて生活をするのが夢でした。今の家には狭いながらも念願の書斎をつくりましたが、この春から娘の勉強部屋にとられてしまいました。娘も本が好きなので、郡山に連れてっては東北書店に行き、洗脳しようとしていた矢先の店じまいですからこれまたショックでした。
本というものは、人間の知的文化の象徴のようなものです。どのような本が売れているか、どのような本が置いてあるのかで、その地域の文化水準、教養水準がわかるものです。本屋を一回りしてみると世の中の人々の考えていることが見えてきます。今の人は本を読まなくなったとも言われます。インターネットで買えるから本屋に行かないという人も増えています。しかし、本屋という独特な空間はその場に行かなければわかりません。駐車場があるからとか、便利だからというものではないのです。もちろんこんな時代ですから企業努力というものも必要でしょう。しかし、何はともあれ私が30年通った東北書店がその歴史の幕を閉じるのです。高校時代、盧山館長の指導の日など、休む理由が見つけられず、さぼるのは自分に負けた気がしていやだし、かといっていつものように一番乗りというには気が重い。そんな時に東北書店によって立ち読みをして気持ちを整えて「エイヤッ」と道場に行ったものです。受験の時、就職の時など、東北書店の変わらぬブックカバーにどれだけ励まされたことでしょう。
閉店の知らせを聞いた次の日、私は書店に行き、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」を全巻ブックカバー付きで買いました。他にも買ってしまいたい本がありましたが、持ち金がなくてだめでした。数日して娘を連れてまた行きました。もう少しずつ書棚の整理が始まっており、お目当ての司馬遼太郎さんのコーナーは特に品薄となっていました。「項羽と劉邦」をねらっていたのですが既に売り切れていました。私は「明治という国家」を買いました。この本はすでに初版で持っていますが、記念にカバーをつけて買いました。この本は私が最も好きな本です。何度読んだかわかりません。娘には「二十一世紀に生きる君たちへ」を買いました。 世の中の移り変わりの中で、ほとんどのものは、いつかなくなってしまうものです。しかし、残しておきたいものもあるはずです。それは物であったり、習慣であったり、心であったりします。形を変えて残る場合もありますが、よいものがなくなってしまうことは本当に寂しいものです。私だけのことではなく、私の子ども達やこれからの人たちにとっても大きな損失です。こじつけのようですが、武道の世界も同じです。いろいろと流行り廃りがありますが、よいものを残していく努力をする者がいなければ絶えてしまうものがたくさんあります。自分がどの道を選択するかは個人の自由ですが、武道もまた日本が世界に誇ることができるすばらしい知的財産であると確信しています。
東北書店の閉店によって、おそらく郡山駅前アーケードにはほとんど行かなくなるでしょう。古き良きものがまたひとつ消えてしまうのです。「さらば東北書店」!30年間の心地よい空間をありがとうございました。

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