極真館福島県支部
其の二十
「奪還」に思う
先日、息子の具合が悪く、家内が仕事に行っている間、寝ている息子の側でしばらく暇な時間を過ごすことがありました。さて、たまにはビデオでも見ようかと思い、久しぶりに選んだものが1995年のNHKスペシャル「奪還」でした。
 これは作家の沢木耕太郎スペシャルという副題が付いており、プロボクシング元世界ヘビー級チャンピオンだったジョージ・フォアマンが、45歳という年齢で再び世界タイトルに挑戦するのを沢木さんが取材してつくったドキュメンタリー作品でした。何年か前にこの作品を見たときに心が奮えるような感動がありましたが、現在自分が作品の中のフォアマンと同じ歳になり、あらためてこのドラマを見ると学ぶところが多く、また違った感動がありました。
 ジョージ・フォアマンといえば1970年代のボクシングヘビー級全盛時代のチャンピオンでした。モハメッド・アリをはじめ、ジョー・フレージャー、ケン・ノートンなど強豪ボクサーが活躍しており、日本でもタイトルマッチが行われたものです。後にマイク・タイソンが脚光を浴びましたが、私は個人的に当時のボクサー達の方が好きでした。フォアマンはまさにハードパンチャーで負け知らずのままチャンピオンに上りつめたボクサーですが、モハメッド・アリとの一戦でその栄光が逆転してしまったのです。
 この話は、私は高校の時に読んだ「リングサイドでうたを聴いた(1977発行 佐瀬稔著)」という本の中の「さらばモハマッド・アリ」という話で知っていました。「キンシャサの暑い夜明け」というタイトルでこの話が書かれており、本の中ではアリの立場で書いてありましたが、私の脳裏に焼き付いて離れない試合でした。モハメッド・アリといえば、オリンピックで金メダルを取った後プロに転向し、圧倒的な強さでヘビー級チャンピオンになりました。ベトナム戦争の徴兵を拒んだためにチャンピオンとボクサーのライセンスを剥奪されましたが、3年間のブランクの後カムバックを果たしました。全盛期の「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という動きは衰えていましたが、32歳の時、7つ歳下のチャンピオンであるフォアマンに挑戦することができました。この試合が“キンシャサの奇跡”とよばれる試合になったのです。
 当時フォアマンは無敵のチャンピオンで、試合前の予想では圧倒的にアリが負けるとされていました。実際に試合が始まると、全盛期のアリの動きは見られず、ただフォアマンの猛攻に耐えるだけが精一杯という状況でした。誰もがアリの負けを確信していました。しかし、8ラウンドに奇跡が起こりました。フォアマンの一瞬の隙をついて放ったアリのパンチが炸裂しました。まさに一撃必殺で、フォアマンはマットに沈み、テンカウントとなりました。試合後のインタビューで、アリは「もう二度と新聞記者に、私を“アンダードッグ(負け犬)“と書かせない」といっていたそうです。
 番組「奪還」の話はこの直後から始まっています。「栄光と自我を失った」とフォアマンのインタビューが淡々と行われます。「アリにはあの苦しみに耐えるだけの目的があった」「人間は目的さえあればどんな苦しみにも耐えられる」「アリには死んでもいいと思える目的があったのだ」と次々とフォアマンの口から出ることばが私の心に刻まれました。フォアマンは、バラバラになった「自我」を拾い集めるために、苦悩の年月を送りました。その間に伝道師となり、ボクシング界からも離れました。そして、青少年の更正施設のための資金を稼ぐためにカムバックします。年寄りの元人気チャンピオンですからエキジビションで十分に金は集まると思いますが、彼の本当の目的はそこではなかったようです。フォアマンは、ホリーフィールドをはじめ、タイトルマッチに挑戦します。はじめは動きがついて行けず判定負けに泣きますが、「失った自我を取りもどす」ために練習を積み重ねます。そして、アリに倒されてから20年目の年にチャンピオンのマイケル・モーラーに挑戦しました。モーラーはスピードのあるハードパンチャーで、負け知らずのチャンピオンでした。
フォアマンは動きが鈍く、防戦一方でした。まさに20年前のアリとの試合の逆の状態でした。「キンシャサの奇跡」は再び起こるのかという期待は無理だと思わざるを得ないほどモーラーは強かった。しかし、20年かけてフォアマンはこの苦しみに耐えられるだけの目的を見つけたのでしょう。フォアマンは決して闘志を失わず戦い続けました。そして10ラウンド目に「奇跡」が起こったのです。スローで見なければならないほどの一瞬の隙に、フォアマンのストレートがモーラーをとらえたのです。まさに一発KO劇でした。
 というお話ですが、私などが書いても今ひとつ伝わらないかもしれません。フォアマンほどの偉大なボクサーについて、私はわかったようなコメントは書きません。でも「拳のこころ」20回目にはよい話かなと思って書きました。やっぱりNHKはいい番組作るね!

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其の十九
型は空手の範疇である2
型の話を続けてみましょう。例えば「後屈立からの逆突きは実戦では使えない」という人がいます。「だから型はつかえない」と結論づけられてしまう。しかし、実際に後屈立ちや前屈立ちそのままで戦うわけではなく、後屈立ちを通して何を学ぶのか、前屈立ちを通して何を学ぶのかというところに気づかなければ、基本も型もすべて何の役にも立たないものになってしまうでしょう。
私は、常々型を学ぶ目的として次の3点をあげています。

体の運用
技の連環
攻防の妙

「体の運用」とは武術的な体の使い方ということです。武術的なということは日常的なということに対する言葉ですが、両方が同一になれれば最高です。しかし、実際のところは訓練によってこそ武術的な身体がつくられていくものなのでしょう。「滞りなく、力に頼らず、最大の威力を発揮する」という表現が適当かどうかはわかりませんが、私は普段そのように解説しています。したがって、体の動きをつくり出す訓練が型の要素の一つであるとするならば、足の使い方、腰の使い方、骨盤や肩胛骨の使い方などを学ぶために特殊な動作が工夫されていることを理解するべきでしょう。立ち方や引き手など「実戦で・・・」ということとは別次元のものであるということがわかれば「使える」云々の愚論に陥ることはないわけです。参考例として居合の形を考えてみましょう。正座から始まる座技が一般に多く見られますが、私が学んでいる流儀に限っていえば、そもそも帯刀しながら正座をして相手と敵対することなどあり得ないということを理解しなければなりません。ですから、相手がこうきたからどうするといった「理合」は初心者のための方便でしかないのです。もちろん初心者には動作のイメージがつかめないので、わかりやすい解説が必要だと思います。ですからこのような理合や分解組形などがつくられたのでしょう。しかし、形の本来の目的については、実はそこにはないのです。そこが「表」「初伝」から「影」「裏」「中伝」といった段階の変化なのです。そうなると同じ形でも、理合が変わったり、動作そのものに変化が出てくるのです。その辺まで進んで初めて「あ、この形はそれでこのような動作と技の組み立てなのか」ということがわかってくるのです。ただし、残念なことにこの段階については、段位や経験年数ではなく、真伝を与えられる者だけに口伝直伝でしか授けられないものなので、誰もが身につけられるものではないのです。ですから表の形だけで止まっている者は、その動作にいろいろと独自に意味づけをして深めていくしかなくなるのではないでしょうか。とってつけたような解説があちこちで見られますが、個人の努力で気づいたり達する方もいますので、特にそれらを否定するものではありません。空手の型も同じだと思います。べつに秘密主義な訳ではないのですが、むやみに公開することは逆に混乱をまねく場合があるので、どうしても表の部分は普及させても真伝の部分は閉鎖的にならざるを得ないのでしょう。現在、極真館でも型の分解動作を紹介していますが、今述べた「表」の部分でしかないことを理解してほしいと思います。ただし、それらを正しく身につけて、使いこなせることが次の段階への切符になることを忘れてはいけません。物事には「順序」があるのですから。「秘伝」「奥伝」などは、徹底した「表」の修練の土台があってこそ授けられるものなのです。
 次に「技の連環」です。これを単なるコンビネーションと片付けると偏った認識になってしまうと思います。私はある先生より、型は足捌きを隠してあると教わったことがあります。また、わざと抜いてある技があるとも言われました。ある時期からそれらを学ぶことができたときにこれまた目から鱗が落ちる思いでした。「技の連環」とは、「技の組み立ての原則を学ぶ」とでも言いましょうか。例えば上段受けから逆突きをするとします。相手の突きを受けて突きをかえすわけでありますが、実際にこんな呑気な攻防は無いでしょう。しかし、受けるという行為から相手がどのように反応し、どのような体勢になり、その状態に対して何をするかという見方に立つと、これまた実用的な技の組み立てになるのです。中段突きを決めるためには、上体がどのような状態になればよいのかを理解できれば、その状態をつくるためには何をすればよいのかがわかってきます。そうなると上段受け以外からの技の組み立てが次々と生まれてくるのです。ここで、「技の名称に固定されない」という認識も必要となってきます。「〜受け」という動作の名称があるから受けることしか思いつかない解釈があります。技の名称というものは、教える都合で後からつけたものがほとんどですので、突きとか受けという名称は、初心者向けの外見的なわかりやすい分類上のものであるということなのです。「身体の使い方に技を乗せるとどうなるか」という視点で型の技の組み立てを考えると、型というものはうまくつくられていると感心せざるを得ません。先人の知恵には頭が下がります。
 最後に「攻防の妙」ということですが、相手の動きを読む力、相手の心理を読む力を養うとでも言いましょうか。戦闘状態の思想を身につけることも型の重要な習得要素なのです。前後左右あらゆる状況での対応のノウハウを型の各所で学ぶことができます。それは1つの動作で1つの場面での対応だけではないのです。相手の反応や力量で何通りにも変化できる要素を含んだものでなければなりません。したがって、動作が20動作の型だからといって、その技が20だけの技なのではなく、それらを変化させることで、50にも100にも膨れあがるということなのです。ただし、それは正しく学ぶからこそ変化の幅も大きくなるので、正しくない型は応用が利かないばかりか、かえって動きを悪くしてしまうものです。演武や競技のため、自分でやりやすくするために安易に型を変える人がいます。こういう型こそ役に立たない型なのです。先人の知恵の結晶である型は、我々凡人がかってに変えられるものではないのです。この点については、また居合の例で考えてみましょう。居合という武術は、もともと単独で存在するものではなく、柔術や剣術など総合的に行うもののひとつなのですが、近年普及の過程で、日本刀を操る形武道として位置づけられてしまっているところに大きな誤解が生じているのです。ひとつの流派の中に居合、剣術、柔術、長得物、短器、手裏剣など総合的に網羅されたものや、いくつかの単独流派を併伝しているものなどありますが、どちらも一貫した理論に貫かれているものです。それらは膨大な技術となり、それらの技術はどうやって身につけて、いつ稽古するのだろうと思われるほどです。昔の武士とて一日中稽古しているわけではありません。実はそれらの技術はうまく稽古がかみ合って、稽古しきれる時間で消化できるようになっているのです。そこで「一貫した理論」ということばが出てくるのです。わかりやすく言えば、「居合」は「剣術」の基本であり、「剣術」は「柔術」の基本であり、「柔術」は「居合」の基本であるとでも言いましょうか。要するにそれぞれの技術は重なり合って存在するのであり、単独で分離されたものではないということなのです。居合を素手で行えば柔術になってしまう。そうなると、形の要求がより精密なものになってきます。しかし、居合の稽古が即ち柔術の稽古になっていると考えれば、何と効率的ではないでしょうか。しかし、残念なことにここまでの理解やカリキュラムに接することのできない方、刀をうまく抜く形だけの居合までしか経験していない方には想像できない世界でしかないのです。そのような方は、刀を抜きやすくするために安易に形を変えたりするのです。形を変えた時点で、そこから派生する柔術や剣術、その他の技術が消滅してしまうのです。形を正しく行うということは、膨大な技術の可能性を失わないためなのです。形(型)を修行する者は、このことをしっかりと認識しなければなりません。
「型は憲法である」と言っても過言ではありません。最近は憲法改正論議がさかんになっていますが、憲法を変えるということは、それに付随する様々な法律や条例も変えていかなければなりません。ことばをひとつ変えただけでは済まないのです。型の動作も同じです。その動作ひとつひとつに先人の知恵と努力が結集されているのです。
今回は型についての話が長くなってしまいましたが、「型は空手の範疇である。」という定義の説明になったかはわかりません。盧山館長がよく言われたことばに「極真空手は強くて当たり前、しかしその強さは空手の強さでなければならない。空手の強さは型から学べ。」というのがあります。私は審査会てこのことばをお借りして話をしていますが、私の長々とした文章よりも、このことばが一番的を射ているかもしれません。

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其の十八
型競技を考える
「型なんてやってもしょうがねえんだよ」「型なんかやっても強くなれねえんだよ」「極真空手には型なんていらねえんだよ」「型なんて組手が弱いやつの逃げ道だよ」だいたいこの辺のことばが型競技の後にそこここで聞かれるお約束の言葉です。もう慣れましたし、過去に私の見解を示してありますが、先日の全日本もありましたので、ここでも少し述べておこうかと思いました。
そもそも空手の「型」というものは、鋳型の型の字をあてているとおり、窮屈な動作に自分の体を当てはめていくという苦痛と根気を伴う訓練の方法なのです。これをやるかやらないかは本人の「好み」の問題でしかないので、「やったから」「やらないから」といった問題もまた論ずるには及ばないことなのです。ですから型の必要性についての議論ほどムダなことはないと言うことを理解するべきだと思うのです。ただ、型をやってもしょうがないと思っている方の大部分は、ご自身が型をうまくできなかったり、なにより型についてしっかりと指導できる指導者に恵まれなかったからだと思います。これはウエイトトレーニング不要論を唱える古武術家たちにも同様に言えることかも知れません。型の稽古がいかにきついかということは、型を正しく指導してもらった人間にしかわからないのですから。また、型で強くなった人間と組手をしたときに、今までの自分がいったい何だったのかと思うほどこてんぱんにやられてしまうのです。剣豪千葉周作と馬庭念流との出会いにもそんな話が伝わっています。これも出会いに恵まれたかどうかということですので、それが良いか悪いかというものではありません。私も出会った先生が違っていれば「型なんてやっても・・・」の旗頭だったかも知れません。
何度か書いたと思いますが、私は高校時代生意気な茶帯で、型などバカにして組手さえ強ければいいという人間でした。当時寸止め空手経験者が道場に入門してくるとボコボコにしてしまい「寸止めはダメだ」「型なんやっているから弱いんだ」などと言っていました。今考えればお恥ずかしい限りです。その時期に盧山館長と出会った訳ですから、まさに青天の霹靂、コペルニクス的転回でした。「おまえは基本ができてない!」「なんだその型は!」この連発で、審査を受けては落とされて、一級の茶帯を1年半も締めました。結局は私の人間性(組手さえ強ければという姿勢)と型が癖だらけで下手クソだったからなのでしょうか。しかし、盧山館長に認めてもらおうと思い嫌な型も熱心に稽古する内に、どうにも自分の体がうまく動かないことに気づきました。如何にこれまでの自分はごまかした動きに頼っていたかということがわかったのです。館長は、私のごまかしを見抜いていたのですね。その辺から型の稽古が「きつい」と感じるようになり、それとともに自分の動きが少しずつ変わってくるのに気づきました。これまでの組手の動きに違和感を感じるようになったのです。決して目に見えて強くなったというわけではありませんが、型の稽古がおもしろくなり始めたのは確かです。それによって組手のいろいろな対処の仕方が型の中に見つかるようになってきました。そして、ようやくその頃に館長より黒帯をいただくことができたのです。
私の話はこれくらいにして、型競技の本題に入りましょうか。私が極真空手の型競技を指導するようになって12年ほど経ったかと思います。当初私は福島に引っ込んでいて、型や武器は自分だけの楽しみとして極真空手で普及しようとなど面倒くさくて考えもしませんでした。何人かの興味のある後輩や生徒に教えていただけでしたが、「極真空手でも型をしっかり学ばせたい」ということで私が人前に引き出されるようになったのです。要するに型の競技化が始まったのです。最初の講習会は60名ほどの参加でしたが、極真空手で型の講習なんてめずらしいという程度の方がほとんどでした。中にはこの機会にしっかりと学ぼうという方もいて、それなりによい講習会だったと思います。やがて各大会で型の競技が開催され、未熟ではありますが、出場する選手も増えてきました。何人かのトップの選手が伝統派にも負けないくらいの型を演ずるようになり、講習会の参加者も100名を超えるようになってきました。ただこの辺からいろいろな動きが出てきまして、積極的に取り組む先生とそうでない先生の間に大きな差が出てきてしまったのです。特に少年部の型への参加意欲は日に日に素晴らしくなりました。保護者は子供達に型も組手もしっかりとやらせたいのですね。そうなると自分の先生がきちんと指導できない場合には、自分の先生に対して不信感が出てくる訳なのです。私のところにも手紙や問い合わせがきたものです。組織としてはちょっと困った問題になってきました。「ウチは型の選手は出さない」「型なんてやっていると組手が弱くなる」「型なんてやってもしょうがない」という言葉がきこえるようになりました。講習会の参加を禁止する支部も出てきたくらいです。
実際問題競技がさかんになってくると、本来の型稽古よりも、競技としての型稽古になってしまうことは否めない事実です。審判の規準があるわけですから、それに沿って正確に行うことが第一になります。審判規準に沿った型が悪いというわけではないのですが、分解や部位鍛錬がおろそかになり、見た目のきれいさのみの稽古になってしまうという問題も出てくるのです。しかしそれだからといって型競技が悪いのか、型競技はやる必要がないのかというとそれはまったくの別問題なのです。まず、競技によって型をやろうという生徒が増えてきたことがあります。先日の型競技錬成大会など400名の参加がありました。10年前には信じられないことです。また、演ずる型も全体的に大変上達してきました。しかも上位にくい込む人間は、見た目の型だけの稽古をしていない者であるということが極真館の良さなのです。組手もやり、武器もやり、部位鍛錬も徹底的に行っています。裏技もしかりです。はっきりいって、武器と裏技のこなせない人間の型は今ひとつ内容の浅いものになってしまうのです。極真館の型競技の審判の良さは、自分自身もしっかりと稽古として、見た目のきれいさだけでは評価しないようにしていることです。さらに、型の上位の選手が組手でも上位で活躍しているということがすばらしいことです。今の極真館の少年部は、はじめから型ありきでスタートしていますので、型と組手をしっかりやることが当たり前になっているのですね。
最後に誤解のないようにしたいのですが、「型だけやっていれば強くなる」ということは決してありません。徹底的に組手の稽古を積まなければ、「強くなる」ということはあり得ないのです。型は大切ですし、型から学ぶことは限りなくあるのですが、そこのところは誤解のないようにしたいです。また、怪しげな型の蘊蓄を語る指導者も多くなり、「あれは違う」「話にならん」などと自分の生徒の前でうそぶいている方もいるようです。今はいなくなりましたが、数年前は講習会の時、稽古に参加しないで後ろで腕組みしてどうのこうのと能書きだけをいっている方が何人もいました。そういう方こそ型競技に出てみてはいかがでしょうか。大山総裁の言葉の「証明なくんば信用されず」です。
いつも思うことなのですが、指導者合宿の時、私が前で指導するときに必ず後ろの方で、型でも組手でも棒でもビシビシ稽古されている盧山館長の姿を見たら、私は何も偉そうなことは言えません。正しく流す汗こそが、正しい空手をつくっていくものだと思っています。

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其の十七
余事である
余事!これは秀吉の謀将竹中半兵衛の口癖であったといわれる言葉である。「武道の他はすべて余事である」と常々言っていたそうであるが、たまたま私が今読んでいる小説に出てきたのであらためて「そうだよなあ」と納得してしまった話を書こうと思う。
40代など武道の世界ではハナタレ小僧であるが、社会的には多少なりとも人の上に立つ立場となってくるために何かと瑣事煩事が多くなり、自分の思い通りになる時間が少なくなってくるものである。また、人間関係においても、頼まれごとや揉め事から避けられなくなってきており、自分としては「冬の時代」としてここ数年は割り切るようにしているつもりであるが、時間と体には限りがあり、「困ったなあ」と思う気持ちがちらほらと出てきたのである。そんな時に「余事である」と言い切る一節に出会い、私は何か吹っ切れた気持ちになれたのである。単純と言えば単純であるが、小説には「自分の主題に適う事柄以外はすべて余事なのである。みじかい一生のうちの何分でも余計のことにわずらわせられたくない。」とある。自分勝手と言われるかも知れないが、私は、この言葉の真意は自分の目的外のことはしないということではないと思う。日常の瑣事煩事をこなしながらも決して心を奪われない、本道を見失わないと言うことなのだと思うのである。かの坂本龍馬も同様のことを言っていた気がする。つまらないことで腹を立てたり、イライラすることは、何の得にもならず、かえって自分の値打ちを下げてしまうものである。「俯瞰する」という言葉もあるが、一段高いところから見ることができる余裕があれば、人間そう腹も立たず、忙しい中にも隙間を見つけられるものなのである。「忙しい」とは心を亡くすと言う意味だそうだが、まさにその通りだと思う。忙しいときこそ心に余裕を持って一日を過ごしたいものである。そのときにこそ「余事である!」の一言がぴったりと当てはまるような気がする。
昨日は仕事が終わって帰宅したのが9時だった。いろいろあってぐったり疲れたが、「えいやっ」と玄関を素通りして道場に行き、ダンベルで上腕を鍛え、刀を振り、型を練って、たった30分だが休みなく汗をかいた。風呂に入って夕食が10時、10時半には就寝であった。今朝も5時過ぎには起きて、立禅に砂袋、棒と刀を振って、スクワット等で足を鍛え終了。さて出勤・・・別に武道だけが楽しみなのではないが、これをなんとかモノにしたいと思うだけで後は何も考えないことにしている。今日は一般部の稽古を9時半まで行う予定である。週末は館長と撮影で一日を共にする予定である。今はそのことだけであり、他はすべて「余事である」。

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其の十六
器の話
「器(うつわ)の話」を書きましょう。これは10年以上昔の話ですが、盧山道場の夏合宿でのことでした。当時は館山かいわきのどちらかだったと思います。海岸での稽古の時、恒例の騎馬戦が行われました。100人以上の一般部の男達が二手にわかれ、一斉に闘うのですから結構迫力があってなかなか見物です。隊長、副隊長がそれぞれの大将騎に乗るわけですが、その時隊長が故三浦師範で、私は副隊長でした。私は仕事がら集団行動の支持は慣れているので、一旦集めて作戦を伝え、各馬に役割を与えて、全員で正拳突きを行い、心を1つにさせました。相手は馬をつくるのに時間がかかり、これといって打合せもなく気勢を上げて盛り上がっていました。館長の合図で騎馬戦が始まりました。こちらは作戦通り先鋒隊が突撃すると相手はそれに群がって団子状態です。そこを左翼が攻撃することで相手の大将騎が海に逃げ込みます。そこを右翼に待機していた別働隊が攻撃し、相手の大将を海に沈めました。二戦目は、作戦を変えて、先鋒隊の後ろに突撃隊を続けさせて一気に大将騎を攻める方法でした。おとりの左翼と右翼を出していたので、相手はそちらにも戦力を裂くことになり、中央ががら空きになりました。そこを突撃隊がつっこみ、速攻で勝負を決めました。私達は勝ちどきを上げ大きく盛り上がりました。所詮遊びといえば遊びですが、こういうことにも全力を尽くすのが盧山道場のモットーでした。このときの騎馬戦は、三浦師範の悔しい顔と合わせて今でも鮮明に覚えています。
この騎馬戦の後、館長より「器の話」をいただくことができました。「大将の器」「中将の器」「少将の器」という話でした。「大将の器」とは、文字通り大軍の将たる器を指します。多くの人の心を惹きつけるカリスマ性があり、的確な指示を与えて集団に目的と機能性を持たせることのできる人間力のことです。人が多く集まれば、考えや価値観も違ってきます。すべてが好意を持てる人間ばかりでもありません。中には反旗を翻すおそれのある者もいるでしょう。清濁併せのむ器量も必要となってきます。盧山館長がその典型であるといえばわかりやすいでしょう。「中将の器」とは、大将の命を受け、的確に小部隊に指示を出し、目的を達成するために一糸乱れぬ動きを可能にする能力を指します。全体の中の自分の位置を把握し、常にバランス感覚を持ち、自分の采配のタイミングを心得ていることが必要です。「少将の器」とは、少人数を束ね、全体の中での自分の役割意識を明確に持ち、自分の与えられた役割を達成するために的確に行動できる能力を指すのです。一人一人に気を配り、細かい信頼関係を築きあげる器量が必要です。おおよそこんな話をしていただいたと思います。「少ない人数を任せることはできても、大人数を任せられる人間は少ないんだよなあ。これは経験でどうなるものではなく、「将器」というのはもって生まれたものなんだなあ。」と仰っていました。三浦師範の名誉のために言いますが、単に騎馬戦の勝ち負けだけで盧山館長が三浦師範の器がどうのといった話をしたわけではありません。「采配」と「器量」ということについて話をするきっかけになっただけです。「おまえ達、器量を磨けよ」ということだったのでしょう。
ところが三浦師範はそうはとらなかったのです。「どうせ俺は器が小さいんだ」と時々思い出したようにその話をしていました。よっぽど気にしていたのでしょうか。ただ三浦師範のすばらしいところは、「器の話」を自分を卑下する材料にせず。「ならば自分の器の中で最善を尽くそう」という前向きな考え方になれたところでした。当時、三浦師範は巨大な盧山道場の一角を暖簾分けしていただき、埼京支部を設立しました。小さな道場でしたが、整理整頓が行き届き、砂袋の位置も自分の体格に合わせて置く場所もしっかりと決めていました。生徒に対しても一人一人を大切にし、小さくともまとまりのよい支部をつくっていたと思います。いつも丼勘定で、どこに何人生徒がいるか考えたこともない自分とは対照的な道場でした。やがて少しずつ強い生徒も現れ、埼玉地区で団体戦の優勝をしたときには本当に喜んでいました。いつも自分の道場を最優先に大切にしていました。ようやく軌道に乗り、道場を拡大しようと動き出した矢先に、三浦師範は事故で他界してしまいました。多くの人が彼の死を悲しみました。自分はちょうど福島で合宿をしていたときで、午前の稽古が始まろうとしているときに連絡をもらったのです。自分は合宿を中断し、いそいで駆けつけました。葬儀の時に、彼の鍛えに鍛えた左の正拳を握りしめて大泣きしたのが忘れられません。
結局、何を書こうとしているのかというと「器」というものは、本人の努力や経験で変わっていくものだとも思いますが、基本的に持って生まれた大きさを自覚することが大切だと言うことです。自分の「器」をよく理解し、最善を尽くすことが大切だと言うことを盧山館長は教えたかったのでしょう。人を動かすことが得意な者もいれば、細々とした役割を果たすのに向いている者もいます。見栄を張らず、背伸びをせず、自分の持てる力を最大限に発揮する方法を理解し、実行することこそ「武士道」なのだと思います。かくいう自分もたいした器量があるわけでもなく、自分にできることを精一杯やることしか思いつきません。盧山館長にとっても、けして自分は一番の弟子ではありません。自分よりも能力がある弟子、かわいがられた弟子はたくさんいます。それはそれで気にするつもりはなく、盧山館長にとって自分が何番目の弟子であるかということはどうでもよく、自分にとって盧山館長が一番の師匠であればよい訳なのですから。ただ、自分は自分の器量というものがよくわかっていないので、まだまだ修行が必要かなと思っています。最近は人の上に立つような役目が多いのですが、それはそれで与えられた使命は果たそうとは思いますし、内弟子のようにちょこまかと動き回って下働きをするのも結構好きです。三浦師範のように自分をこうだと決められないのが自分の良いところであり悪いところなのかもしれません。ただ、自分の都合のいい形に逃げ込まずに、何事も経験という気持ちで頑張ろうと思っています。
最近、井上靖さんの「蒼き狼」を読んだので、いろいろな登場人物の器量から盧山館長の「器の話」を思い出したのかもしれません。

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