其の十
反省するは我にあり
私が学校の生徒や自分の子どもに対して「絶対にこれだけは」と指導することは、「嘘をつかない」「人のせいにしない」「どうせやるならよいものを」の3つです。「自分だけじゃない」とか「みんなやっている」、「誰々のせいだ」などと言ったら最後、烈火のごとく怒ることにしています。人のせいにすることは簡単なことです。自分自身はかわいいものです。できれば他人のせいにしてしまいたい。自分の責任を軽くしたい。という心理が働くことは当然のことでしょう。しかし、どんなに他人のせいにしても「結果」というものは自分自身のものなのです。他人が謝ろうとも泣こうとも、失敗して困るのは自分自身なのです。ただし、医療ミスとかは全く別の問題ですのでこの文とは別の次元のこととします。要するに他人のせいにして物事を考える人には、自分自身の向上はないということを述べたいのです。
私は自分の道場の生徒には、勝負について「負けるには負ける理由がある。その理由は自分の中にさがせ。」と言っています。組み合わせが悪いとか、審判が悪いとか。自分の先生が悪いとか。そのうち生んだ親が悪いとか。他人のせいにすれば、きりなく出てくるものです。しかし、どんなに他人のせいにしても決して自分が変わることはないのです。かつて私も何かのせいにしたいことは山ほどありました。雨の中の演武でぬれたバットを手刀で折って手首も骨折したり、傾いた氷柱を割って前腕がくの字に曲がったりしたときなど、何とも悔しい情けない思いをしたものです。約20年前、パワーリフティングに出ていたときの話ですが、前年度県大会3位で今年は優勝をねらっていたときです。ベストの記録を出せば優勝と言うことで、数ヶ月前から計画的にトレーニングしてきました。3日前に最後の練習を予定していたのですが、その日は急な仕事でジムに着いたのが9時半でした。疲れはピークでしたが、これが最後と奮起してトレーニングしました。その日はデッドリフトでした。最後なので軽めに行う予定でした。200キロを挙げて、ラスト170キロで終わるはずだったのですが、この最後の一発で腰が「ボキッ」と鈍い音を立てたのです。夜も10時を回っていましたので、もう眠い時間でした。思い切ってその日は練習を休めば本番ではもっとよい記録を出せたかもしれません。しかし、忙しい中でやりくりして練習をしていたので、意地でも計画通りにやろうとしたのです。これが間違いでした。私は腰の力が抜け、激痛の中四つんばいになり、そのまま動けなくなりました。ジムの先生が私の腰を30分以上もほぐしてくださり、何とかおきあがり家まで帰りましたが、そのまま崩れ落ち身動きができなくなりました。次の日から一週間仕事を休むほどの重傷で、大会はもちろん棄権となりました。「出れば優勝できたのに」と私を慰める人がそう言いました。「やればできたのに」この言葉は私の最も嫌いな言葉です。それと同様の言葉をかけられて、私は情けないやら恥ずかしいやらでした。私は仕事のせいにしてよいのか自分の判断力のなさを責めればよいのか、ただもう悔し涙を流すだけでした。私は横になりながら就職したことを後悔したり、急な仕事が起こったことを責めたり、それまでの日々の生活で思い通り練習できなかったことを何かのせいにしようとして色々と理由を考えました。しかし、結局は自分で選んだ道ですし、その生活環境はこれからも変わらないわけです。むしろこの先もっと忙しくなるかもしれない。そうなると仕事のせいにしたり、他人のせいにしていたのでは自分の進歩はあり得ないと思いました。その後も無理をしたために、何度か同様のケガを繰り返し、ついにはヘルニアになってしまいました。ケガの武勇伝などけして格好のいいものではありません。もっと無茶をして、今稽古ができない身体になっていたかもしれないと思うとゾッとすることがあります。膝の靱帯を切ったときには目の前が真っ暗になりました。すべて私の判断のミスでした。自分に厳しくすることと無茶をすることは別なのです。きつい稽古をする一方で、上手に疲れをぬくことも大切なのです。多くのケガを通してそのことを学びました。今では一つ一つのケガが私の授業料と思っております。
世の中うまくいかないことの方が多いと思います。しかし、うまくいかないときこそが試練の場であり、修行の中心なのです。自分自身への甘えや、判断の悪さ、計画性のなさなど、すべて自分の問題でしかないのです。たとえ周囲の問題で不利な状況が生まれても、それを何とかするのも自分でしかないのです。もし、関ヶ原の戦いで石田方が負けたのは小早川の裏切りであるとするならば、それは裏切った小早川を責める前に裏切られた石田方の甘さを反省するべきなのです。徳川の動きに対する読みも甘かったのです。 「反省するは我にあり」ちょっとゴロの悪い言葉ですが、盧山館長も他人のせいにすることは大嫌いですよ。

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其の九
帯は人がくれるもの、実力は自分でつけるもの
空手に限らず、武道をやっていると段や級は必ず欲しくなるものです。私も空手を始めた頃はとにかく黒帯にあこがれたものです。中学1年から極真空手を始め、7級⇒6級⇒4級⇒3級⇒1級と進みました。1級の時から盧山館長に指導を受けるようになり、茶帯は1年半締めました。その間審査を2度受けて落とされ、3度目でようやく黒帯になりました。高校2年の3月でした。「組手は強くて当たり前」と当時の盧山館長はよく仰ってました。「空手として必要なことをすべてこなして本当の黒帯になれる」ということを審査前に言われていましたので、いろいろな稽古をしたものです。「柔道も黒帯とってこい」といわれて柔道部に行って稽古して黒帯の審査を受けたりもしました。「自分と同じ体重のバーベルをプレスで挙げろ」と言うことで、当時70キロくらいでしたが、意地で持ち上げたりしました。「ブロック一枚くらい割れないと」ということで毎日ブロックを叩いて割れるようになったものです。組手もいろいろな状況で稽古しました。両足を縛られて右手を後ろに縛り上げられ、左手一本で組手をさせられたりしました。相手はフリーでしたので「何で俺ばっかり」と思ったものです。逆立ちをしたときも「ずっと立ってろ」と言われ、ふるえながら立っている自分の腹をローキックでガンガン蹴られてぶっ倒れてうずくまると「そんな弱い身体でどうする?」と叱られたものです。この手の話は本が書けるほどありますのであとは控えますが、黒帯をもらったときはうれしくてたまりませんでした。しかし、館長は審査の時には必ず「帯は人がくれるもの、実力は自分でつけるもの」と仰っていましたので、自分は黒帯としての実力があるのだろうかといつも不安で、以前より稽古するようになったものです。
それでもいくらか天狗になっていたようで、高校を卒業して埼玉の盧山道場に入門したときに、当時の師範代にコテンパンにやられてしまい、すっかりその鼻を折られてしまいました。「茶帯からやり直させてください」と泣きついた自分に、盧山館長は「ワシがやった黒帯だぞ、意地でも締め通せ!」と叱りとばしました。そんなこんなで帯の色がどうのより、「まずは実力!」という気持ちで稽古に励んだものです。6年間の内弟子生活の期間、ずっと初段で過ごしました。当時の黒帯はボロボロなってしまいましたがよい記念です。しかし当時の館長はぼろの空手着や帯を締めていると「ろくに稽古もしていないくせに稽古しているような格好をつけるのはやめろ!」と厳しく指導しました。館長は不潔な空手着やだらしなく長いズボンが大嫌いだったようです。しかし、今思えばもっともなことで、稽古着の着方一つでその人間の姿勢が表れると思います。よい指導をしていただいたと感謝しています。
ある日、キックボクシングの経験のある、自分より二回りもお大きい人物が入門してきました。当時の首都圏交流にも白帯で出場し、黒帯を破って3〜4回戦まで勝ち上がった実力者でしたが、盧山館長が留守の時に自分と組手をすることになりました。相手は本気でいきなり顔面の叩き合いになりました。迂闊にもガツーンと一発いいのをもらってしまい、私はそこから記憶がなくなりました。我に返ったのは、師範代が止めに入ったときで、私は気を失いながら組手をしていたようです。一応引き分けと言うことになりましたが、黒帯のメンツは丸つぶれです。館長がいなかったのがせめてもの幸いでした。私は悔しくて悔しくて、師範代に「来週もう一度彼と組手をさせて欲しい、それで勝てなかったら黒帯をはずします。」ということで、一週間道場に行かないで一人で稽古に励みました。毎日池袋の公園で夜中に稽古しました。顔面有りで自分より大きい人間相手です。色々考えました。一週間後、道場に行き、師範代の審判で彼と組手をすることになりました。何度も相手をひっくり返し、得意の前蹴りで倒すことができました。相手は肋骨が折れたとのことです。何とか黒帯は守ることができました。その後彼とは親しくなり、食事をしたりする仲にもなりました。「苦労するから黒帯、玄人だから黒帯」といろいろ洒落もありますが、黒帯って大変だなあと思ったものです。
結局初段のまま福島に帰り、自分の稽古に専念していましたが、ある武道の行事で空手関係の会合に出たときのことです。私だけが初段で、他の人達は流派は違いますが五段六段ばかりです。初段と言うだけで鼻から相手にされず、この人達は稽古をしているのだろうかという手や身体をしている人たちがやたらと発言していました。このことを率直に盧山館長に相談したところ「そりゃおまえ、段をもらっておけばいいんだよ。何で今まで審査受けないんだ?」「えっ?師範がどうだって言わないものですからまだまだだと思ってました。」「ばか、おまえが何も言わないからワシもその気がないんだなってほっといたんだよ。」「えーっ!」何という師弟でしょう。結局私は26歳で審査を受けて二段になりました。9年間初段を締めていたと言うことになりますね。その後は館長の許可を得て親友の三浦師範とともに計画的に受けることにして、34歳で五段になりました。当時極真空手は50人組手が審査の最高でしたので、それで一区切りとしました。
話はもどりますが、段が欲しい方はたくさんいます。盧山館長の仰るとおり、段は結局他人があげるものですから欲しい方はどんどんもらったらよいと思います。きちんと審査で受けてもらってもよいし(合格できたら)、いろいろと伝手をつかってもらってもよいです。要は、それに相応しい実力と内容を持っているかと言うことなのです。これは空手もそうですし、私が他にやっている居合などの古武道もそうです。段が欲しくて私に相談する暇があったら目の前で技を見せて欲しいだけです。一緒に稽古をすれば一目瞭然です。実力があれば自然に段は上がるものです。もちろん、実力だけでなく人物や貢献度も加味されることは当然です。強いだけで、何の協力性もない者には、段を与えても悪い影響しか生まれません。私も決して順調に段が上がった訳ではありません。杖道で下関まで行って五段の審査を受けたときも、塩川先生に「ゲタもはかせられん!」と言われて落とされました。簡単に合格できないからその値打ちがあるのです。金を積んだり、お願いをしてもらうものではないのです。
また、もらった後に自分が恥をかかないように実力を保てる稽古をする覚悟があるかと言うことです。ある居合道範士の先生が雑誌のインタビューで、毎朝必ず稽古をしている事について「範士のつとめですから」と応えていました。こんな言葉をさらりと言えるように稽古をしたいと思います。

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其の八
型は空手の範疇である1
先日型の錬成大会がありましたので、少し空手の型について述べてみたいと思います。
まずは大会プログラムに書いた挨拶文を紹介しましょう。

「型の修練こそ空手道の王道である」   極真館技術委員長 岡崎 寛人

この度の極真館型競技錬成大会の開催にあたり、ご挨拶を述べさせていただきます。
沖縄で発祥したとされる空手道は、多くの格闘技には見られない型稽古を主体とする所にその特徴がありました。中国の武術も同様な稽古体系を持ち、その影響を大きく受けたものと思います。日本の古武道も型稽古が主体ですが、2人で組んで行う点が空手や中国武術の独演型と違うところです。
型の成立過程を考えてみると、実戦の中での有効な技を稽古しやすくまとめたものが始まりと考えます。当初は決め技のパターン稽古だったものが、いくつか組み合わせたり、鍛錬の要素を取り入れたり、いくつもの応用に耐えられるように工夫されたりして、分かりにくく難しいものになっていったのでしょう。ですから、一見しただけでは組手に役立たないと結論づけられても仕方がないようなものになっているかもしれません。しかし、「何故この形なのか」「この形から何を学ぶのか」が理解できてくるようになると話は別になります。型の稽古が即ち組手の稽古になり、空手の身体、動きを鍛錬するもっとも有効なものであることに気づくのです。そうなれば、型の稽古こそ空手の稽古の王道であることが真に理解きるはずなのです。
型の稽古については、大きな誤解がその障害となっていることも理解しなければなりません。一人で演じるだけが型稽古と思われがちですが、本来は二人で行う分解組手に時間と労力をかけるものなのです。その分解組手も一つの技で何通りもの使い方があるのです。また、素手で行うということも固定された考え方で、物を持っての稽古もあり得るのです。さらに、同じ型でも修行者の段階によって発展していくことも理解しなければなりません。それらを正しく理解してこそ型の稽古が生きてくるのです。
極真館では、空手本来の稽古に回帰することを目標にしております。そのための様々な試みがなされておりますが、この型稽古の復権こそがその中核であると確信してやみません。「型より入り、型より出でて、型に戻る」ということばがあるように、極真空手は一旦型より出でて、その実戦性を追求しました。極真館はその次の段階として、極真空手の実戦性を型の中に求め、空手本来の強さを取り戻したいと考えています。本錬成大会に参加した選手の皆様は、見せかけだけの型ではなく、空手本来の型の実現を目指して大いに頑張ってください。

というように型に対する認識を述べてみました。これまでもあちこちで色々と書きましたので、重複は避けたいと思いますが、私の考えの基本となるものが「型は空手の範疇である」ということばです。空手と名の付く武術は、すべて型の中にある技術を持って空手と称すべきであり、それが空手と他の格闘技や武術と一線を画するものであると思います。空手着は着ているものの突き蹴りさえ行えばすべて空手であるという見解もあるかもしれません。行っている者が「自分は空手をやっている」と言えばそれも別に否定されるものではないでしょう。要は単なる「好み」の問題なのかもしれません。型をやるやらないも好みだし、空手と称するもしないも好みなのだと思います。
ただ私の見解として先に述べたとおりです。盧山館長からもそのように仕込まれたつもりですし、それでこれまでの修行に何ら迷いもありませんでした。ただ、型さえ稽古していれば強くなるとか、型の稽古だけが空手であるといった誤解は避けなければなりません。ありとあらゆる稽古と経験を持って空手なのです。盧山館長は、先日の型の錬成大会の時に「同じ乗用車でも、都市仕様のものと軍事仕様のものでは大きな違いがある。軍事仕様のものは、崖から転げ落ちようが、川の中に落ちようが走り続けなければならない。しかし、都市仕様のものはちょっとぶつかっただけでへこんだり走れなくなってしまう。同じものでも目的が違えばこうも違ってくるものだ。空手の型もそうである。」と仰っていました。まさしくその通りだと思います。

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其の七
武道家のピークは何歳か?訂正します。
今年も各道場で鏡開きが行われていることと思います。福島支部も先週盛大に行いました。皆さんそれぞれに新年の抱負を発表しましたが、達成できるように頑張ってほしいと思います。
さて、その次の日は埼玉の総本部の鏡開きです。盧山館長を中心に、埼玉勢をはじめ、大井町の金子師範や全日本チャンピオンの藤井選手など豪華な顔ぶれがそろいました。まず館長の号令のもとに基本稽古を行い、全員がいい汗をかいたところで恒例の演武です、何名か型の演武を行った後に藤井選手と水谷選手の模範組手がありました。稽古を終了し、懇親会となりました。館長から新年のご挨拶をいただき、私が乾杯の音頭を取り、賑やかな宴会となりました。宴会の最後は、いつも必ず幹部のあいさつと歌となるのですが、今年の自分は、盧山館長の仰った「武道家のピークは55歳だ!」まであと10年となったので、頑張ります!といったことを述べたと思います。
かつて盧山館長は、我々が内弟子だった頃(20代前半)、武道家のピークということで「35歳」という数字を明言されました。肉体的にも精神的にも充実しているということなのでしょう。その頃は、30歳になったら体力が衰え、引退するのが当たり前と言われていましたので、それを戒める意味もあったのだと思います。私は、20代後半に靱帯を切ったり、大きな骨折をしたり、ヘルニアになったり、運動をする人間にとっては致命傷となる怪我を次々としてしまいましたが、盧山館長の「35歳」を信じて頑張って稽古を続けたものです。自分のけじめとして、「35歳までに50人組手に挑戦しよう」ということになり、故三浦由太郎師範と稽古に励んだものです。34歳と11ヶ月で50人組手は何とか完遂いたしました。それを盧山館長に報告したときのことです。「おうご苦労さん。でも岡崎ね、これからが本当の稽古なんだよ。本当の武道家のピークは55歳だ。あと20年頑張るんだな。」そう言われて気が遠くなるようでしたが、また稽古する楽しみができたと頑張ったものです。無外流辻月旦開祖の「更参三十年」と同じですね。
さて、懇親会に戻ります。私の後に盧山館長がトリで挨拶されたのですが、その時に「たった今岡崎くんが武道家のピークは55歳といいましたが、訂正します。武道家のピークは70歳です!」と言い切ってしまわれました。私は「えーっ」という感じでしたが、「やっぱり館長、ただでは済まさなかったな」とうれしくなりました。館長曰く、大山倍達総裁は70歳で亡くなったけれども、亡くなる間際まで自分の拳を握りしめ、「私はこの握り方が本当に正しいのかまだ疑問なんだよ」と仰っていた姿を見て、武道家は死ぬときまでが修練なのであり、したがって死ぬ瞬間がもっともピークなのだということでした。そう言えばかの山岡鉄舟もそうだったなあ。やはり我が師は偉大です。私の甘い考えをぐさりと突いてきました。帰りの新幹線で私は煮え切らない新年を迎え、情けない演武をしてしまった自分を深く反省しました。3日間新年会が続き、ぐったりして帰りましたが、今朝からまたしっかりと朝練に励んでいます。
この文を読んでいる皆さん。武道家のピークは「70歳」ですよ。腰が痛いだの息が切れるだの言ってられませんよ。今年も元気に稽古に励みましょう。

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其の六
正しいことを言う奴は信じるな
昨年奈良の市川選手とウクライナに行った時のことです。長い時間一緒にいましたので、いろいろと話をしました。彼は若いながらもしっかりした考えを持った人物で、私にとってもためになる話がいくつもありました。その中で、彼が尊敬するある先生のことばに「正しいことを言う奴は信じるな」というものがあったそうで、特にそのことばが私の頭に残りました。彼の話と私の記憶にくい違いがあるかもしれませんので、私の解釈として述べたいと思います。
「正しいことを言う奴は信じるな」とは、なんと理不尽なことを言うのかと思うでしょう。しかし、辺りを見回してみると結構当てはまることが多く、意外と的を得たことばかもしれません。「正しいこと」は、あくまで「正しいこと」ですから何も問題はありませんし、「正しいことを言う人」は、それはそれで立派なことなのだと思います。では、いったい何が問題なのかというと、その先があるからなのです。正しいことを言う人の中には、自分自身が正しい人と思ってしまうことがあります。次に自分だけが正しいと勘違いしてしまい、自分以外は正しくない、すなわち自分以外はすべて間違っているという決めつけをしてしまうのです。そうなると他人のすることをすべて否定的に見るようになり、自分の意に沿わないことはすべて認めたくなくなってしまいます。自分だけが正しく、常に自分が賞賛されることを望むようになってしまうのです。いわゆる「正義の押し売り」です。こうなってしまうと、これは「悪」以外の何ものでもなく、どんな世界でも厄介者となり、せっかくの「正しいこと」が誰にも相手にされなくなってしまうのです。
先日ある人と数名で移動中の車の中で道路脇のゴミの話になりました。その人は、長年ボランティアでゴミを拾って歩いているのですが、それはちょっと真似のできないすばらしいことです。しかし、ここから先がいけなかった。とにかく道路脇のゴミを見るたびにゴミの話をする。捨てる人間の不道徳を批判する。そのうち、そのことに関心を持たない他の人々を批判する。ついにはこのゴミについて問題視しているのはこの世で自分だけのような言い方になり、同乗している我々まで立場がなくなってきてウンザリしてくる。「何なら今から降りてみんなでゴミ拾いやりますか?」と言い出しかねない雰囲気になりました。ボランティアとはそんなものではないはずだと思うのですが。
今から10年ほど昔、ある学校に勤めていたときにこんな事がありました。その学校で私は応援団の指導をしていました。私の指導する応援団は、知る人ぞ知る安積高校式のスタイルで、結構人気があり、その中学校では団員が100人を超える大所帯になりました。モットーは「皆さんに喜んでいただける愛される応援団」でしたので、いろいろな行事で発表し、その場を盛り上げる働きをしてきました。生徒達は朝、昼と時間があれば練習し、いつも学校では和太鼓が鳴り響いていたものです。卒業も近づいたある時に、学校功労賞を検討することがありました。その時「応援団はどうだろう」という声が上がりました。それはいいと言う声が多くなり決まりかけたのですが、私は全く考えたこともなかったので、そんな名誉なものもらって良いものかと返答に困り、少し時間をもらうことにしました。そんな話が出ていることは伏せた形で、生徒に遠回しで聞いたところ、「そういうのはいりませんよ先生、そういうものをもらわないところが俺たちの活動の良い所って言ってたの先生じゃないですか。先生のよくやったの一言で十分っス。」という答えが返ってきました。私はハッとしました。もしかして「そんなのもらったりして」と思った自分が恥ずかしくなりました。「誰もそんな賞もらいたくてこれやってませんからね」とけろっと言ってのけた生徒の顔が忘れられません。結局その賞は丁重に辞退しましたが、生徒達は何も知らず、何も欲せず毎日練習に励んだのです。そして次の年もたくさんの生徒が入団してきました。
何かあちこちに話がとんでしまいましたが、要するに正義や善意というものは、相手に押しつけたり見返りを求めたりするものではないということです。また、それらを押し通すために相手を否定したりするものでもないということなのです。「悪」や「不正」は許すべきものではなく、それを正すために決して怯んではならないと思います。しかし、それを安易に決めつけることは慎むべきで、人にはいろいろな側面があり、「よさ」を引き出すことでその人が生かされることが往々にしてあるものなのではないでしょうか。組織の分裂などだれかが正義を振りかざし、他者を否定することから始まるような気がします。
「自他共栄」とは講道館を興した嘉納治五郎先生が残した言葉ですが、私が好きな言葉の一つです。共に栄える道をつくり出すことこそが本当の意味での「正しいこと」ではないでしょうか。盧山館長の周りにはいつも人の輪ができます。それは、盧山館長がいつも「自他共栄」の精神に満ちあふれているからだと思うのです。ちなみに極真館のマークの意味は「人の輪」を表しています。

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