其の六十二
カラスと少年
新しい年が明けてここしばらくはよいニュースが流れていません。昨年からのいじめと自殺の問題や教師の体罰の問題など、教育現場もいまひとつ明るくなれません。困ったものです。
さて、かなり前の話になりますが、息子としみじみと話をする機会があって、もうすぐ5年生になる息子と「お父さんは5年生の時にカラスを飼ったことがあるんだよ」という話になりました、息子は「へえー」と熱心に聞いてくれました。
私が小学5年生の夏休みのことでした。私の父は玉川村の須釜小学校で先生をしており、私を連れて学校に行くことがしばしばありました。特に夏の早朝の学校の校庭はカブトムシやクワガタの宝庫で、父のバイクの後ろに乗って何度も虫取りに連れて行ってもらったものでした。
そんな夏休みが終わりに近づいたある日のことでした。父は私に「このカラスを家で飼え」と一方的にカラスを持ち帰ってきたのです。実は、父は学校の裏山で巣から落ちたカラスの雛を拾って学校で飼っていたのですが、夏休みが終わると学校においておけないので自宅で飼うことにしたというのです。しかし、面倒を見るのは私の役目でしたので、私にとってはえらい迷惑な話でした。
ところが、カラスというものは飼ってみるとなかなかいい奴でした。まず頭がよいので人間の言葉が理解できるのです。そして結構茶目っ気があっていろいろとイタズラをしてきます。私はすっかり仲良くなって、まるで兄弟のように楽しくすごしたものでした。カラスの名前は「カン三郎」と名付けました。空を飛ぶようになってからは家のまわりをクルクルと飛び回り、私が「カーン!」と呼ぶとサーッと飛んできて私の肩にとまるのでした。子どものカラスといっても結構大きいですから、とまる瞬間はガッシーンという衝撃があり、体がぐらつくほどでした。さらに爪が大きく鋭いのでとまられたあとは真っ赤に食い込んでいたものです。カン三郎は私の肩にとまって頭をクチバシでつつくのが好きで、加減はしてくれているのですが、とにかく痛かったです。特に耳の穴が好きで、これがくすぐったくて、嫌がるとそれが面白いらしくさらにつついてきたものでした。鳴き声もカラスらしくなく「ガガガ」「ググー」といった甘えた鳴き声になり、頭の上にも飛び乗ってじゃれていました。
私たちは家の中でも一緒でした。テーブルの上にものってきて、私がテレビや本をみているとじゃまをしてきます。はじめの頃は家の中で糞をしたこともありましたが、わかってくるとそれもなくなりました。学校が始まってからは、私のランドセルに乗って一緒に登校です。町の中に入り、他の小学生を見かけるとサーッと飛んでいってしまうのですが、私の帰る頃になると、帰り道の中島病院の上を旋回していました。私が一人になり「カーン!」と呼ぶと、サーッと飛んできてランドセルにガシーッ!と、とまります。そして私の頭をつつきながら帰るのでした。ちょうどこの頃の私は、学校では今でいういじめに近いものがあり、結構困っていたときだったので、カン三郎の存在はちょっとした心の支えになったものでした。
別な稿でも書いたかも知れませんが、私は小学4年の時にあることがきっかけで、ある児童から執拗な嫌がらせを受けていました。5年生の時にクラス替えでその児童とは離れたのですが、それでもしつこくイジワルをされていたのでした。以前に書いた「北町」という地域の少年達の抗争は、いじめとは違った「少年仁義なき戦い」でしたので、気分的には健康的なものではあったのですが、「妬み」を基本とした意地悪な行為はストレスがたまるものでした。ほかに友達はたくさんいて、毎日孤独なことはないのですが、ターゲットにされるということは気分のよいものではありませんでした。ロッカーに入れておいた大切なスケッチブックをバラバラにされたり、新しい自転車に小便をかけられたり、細かいことはいろいろありました。特に私が嫌だったのは、そいつにくっついて関係のない奴がちょっかいをかけてくることでした。まさに尻馬に乗るタイプで、何の考えもなく手を出してくるのです。そいつらは腕力で向かってくるわけではなく、遠回しに言葉の暴力や小さなイタズラ繰り返してくるのです。別に私は仲のよい友達もたくさんいましたので、放っておくことにしていたのですが、こういう連中はとにかくしつこくて困ったものでした。この頃の私は、まだ空手も剣道もやっていなくて、マンガを読んだり描いたりするのが好きなボーッとした小学生でした。
カン三郎との楽しい生活は長くは続きませんでした。ある日のこと、カン三郎の首に大きな傷がついていたのです。よそのカラスに攻撃されたのでしょう。カラスは群れで生活をしていますから、人に飼われたカラスをほうっておく訳にはいかないのでしょう。カラスは空を飛ばないと死んでしまうといわれましので、毎日自由に飛び回らせておいたのでが、地元のチンピラカラスたちに目をつけられてしまったのです。
ある日の夕方、私は家の周辺に大量のカラスがいたのに驚きました。木や電柱にずらりと留まったガラの悪いカラスたちは、まさしくヒッチコックの「鳥」を彷彿させるものでした。そして、なんとその上空でカン三郎と何羽かのカラスが空中戦をやっていたのでした。よたよたと飛んでいるカン三郎に次々とチンピラカラスがクチバシでぶつかっていくのです。下で見ていた私は助けることもできずただ「やめろ!」叫ぶだけでした。石を投げてもあたるものではありません。大切な友達がひどい目にあっても何もできない自分が悔しくて悔しくてたまりませんでした。そのうちカン三郎は力尽きて地面に落下しました。私は、急いで駆け寄りました。首のまわりが傷だらけで血が流れていました。
その後もチンピラカラスは家のまわりを飛び回りカン三郎の様子を見に来るようになりました。私は、カン三郎を小屋から出すことができず、空を飛ばせてやることができませんでした。数日がたち、カン三郎はどんどん衰弱しはじめました。どうやら体内に虫がわいたようで、ぐったりと横たわっているだけです。私は学校にいる間も心配でした。家に帰ると真っ先に小屋の前に行き、ただずっと側にいることしかできませんでした。話しかけるとちょっと首を動かして「ガガ・・」と声を出してくれました。私は、かわいそうに思う気持ちと悔しい気持ちで一杯でした。
今でも覚えています。秋の冷たい雨が降っている日でした。カン三郎は、ぐったりとして動かなくなっていました。私は父に「様子が変だ」と言いました。父はしばらく見てから「ダメだ。もう死んでいる。」と言って小屋の外へ出しました。そして墓をつくってくれました。私は冷蔵庫からカン三郎の好きだったソーセージを持ってきて墓前に供え、雨の中いつまでもそこに座り込んでいました。当時の自分にとっては一番大切な友達だったのです。それを失った悲しみと、何も助けられなかった悔しさは今も忘れることはできません。私が空手や剣道を始める少し前のできごとでした。
しばらくして、作文の宿題があり、私はカン三郎との思い出を書くことにしました。思い出す一つ一つに涙が溢れたものでした。
ところがようやくできた作文を、提出日に出し忘れた私は、父の「カバン検査」でそのことが発覚し、ぶん殴られた末に、夜担任の先生の家に一人で届けに行かされたのです。先生の家などわからない私は、腫れたホッペタに涙顔で、作文を握りしめて夜の町中をウロウロしていました。だれか知っている人が通るのを待っていたのです。ちょうど別なクラスの担任の先生が通りかかり、事情を知って私を担任の先生の家まで送り届けてくれました。そのとき担任の先生の家で飲んだホットミルクの味は忘れることができません。その後、私の作文はコンクールに出品され、なんと特選となりました。副賞として学研の大きな図鑑をもらいました。それは今でも大切な大切な宝物です。
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