其の六十四
爆買い
 昨年(平成27年)の流行語大賞に『爆買い』が選ばれました。中国の観光客の猛烈な買いっぷりに対して使われて言葉ですが、確かに中国の皆様の海外での金の使い方は半端ではないようです。電気製品はもちろん、コンビニまでも買い占めんばかりに金を使っています。皆さんお金持ちなのは悪いことではなく、不景気な日本にとってはたいへん有り難いことかも知れません。そして、中国人の観光客は、東京や京都、大阪などばかりではなく、地方にまで押しかけています。私の石川町は桜の名所なので、春は観桜客で賑わいますが、ここ数年は中国の団体客が目立つようになってきました。パッと見て中国人と日本人の区別は難しいような気がします。しかし、着ているものの色や柄、髪型などで「かな?」とわかるのですが、時として異様な感じに見えるのは私だけなのでしょうか。
 日本でも「大人買い」と称して箱ごと買うような買い方を言い表したことがありますが、「爆買い」とは、さらその上をいくものなのだと思います。数年前までは見られなかった中国語の案内掲示が至るところに設置され、中国人へのサービスがこれでもかと行われています。買う方も売る方も真剣勝負なのでしょう。
いつまでこの経済状況が続くかわかりませんが、わが国もその昔、「バブル」といわれた頃には海外で「爆買い」をしていたことを思い出します。1980年代後半から、海外の土地や建物を買い占める日本人が話題となりました。世界の中心であるニューヨークでさえ、ほとんどの土地や建物を日本人に買い占められたと聞いたことがあります。
実は、私は「爆買い日本」の頃、アメリカに研修に行っていましたので、日本経済の強さを現地で痛感してきました。田舎は別として、都会ではとにかく日本語の表示が目立ちましたし、店員も片言の日本語で対応してくれました。おかげでインチキ英語でウロウロしていた私も一人歩きが可能だったのです。当時は円が強かったので、革製品などは日本の3分の1か5分の1で買えたようです。私がワシントンで皮のジャンパーを現金で買ったところ、店長が出てきて丁寧にあいさつされ、握手まで求められました。ニューヨークでシャネルの店に冷やかしで(とても何か買えるほどの金がなかったので)入った時など、カッコイイ長身で黒人のエレベーターボーイが「いらっしゃいませ、何階ですか。」ときれいな発音の日本語で話しかけられた時は、こっちが日本語で返答できないほどビビッてしまいました。
 おまけの話として、成田空港で、毎回中国人と間違えて私に英語で話しかけてくる日本人のスタッフにはやめてほしいと思います。モスクワでも一度あったかな・・・
H27.12.18  

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其の六十三
嗚呼!大河ドラマ
 今年(平成27年)の大河ドラマは「花燃ゆ」というタイトルで、幕末から明治にかけて生きた長州の吉田松陰の妹「文(ふみ)」を主人公にしたドラマでした。大河ドラマ史上最低の視聴率と酷評されつつ最終回を終えましたが、私の見るところではたいへん面白い作品であって、何ら歴代の作品に劣るものではないと思ったのですがいかがでしょうか。確かに「八重の桜」の会津に対する長州版という感じはしましたし、総理大臣の肝いり云々の話も聞いたことはあります。しかし、それはそれとして物語の善し悪しには何も関係ないと思います。おそらく、日本人特有の「知ってる贔屓」というものかと思ったりもします。戦国であれば織田信長や豊臣秀吉のでてくるものは視聴率が高いといった具合にだれもが知っているものに対してハズレのない安心感があるのでしょう。でも「花燃ゆ」に登場する高杉晋作などはこれまでになくよかった気がしますし、吉田松陰もよかった。随所随所にベテランがいい仕事をしていました。
 大河ドラマといえば、NHKの通年歴史ドラマとして、昭和38年の「花の生涯」からスタートし、数々の作品で高視聴率を記録してきました。確かに昔は対抗できる番組も少なかったでしょうし、一家のお父さんがチャンネル権を握っていた頃は日曜日の夜は大河ドラマという風になっていたのだと思います。これに対抗できるのは、王、長島全盛期の巨人対阪神戦の日曜ナイターくらいでしょう。視聴率の最高は何といっても「独眼竜政宗」でした。平均視聴率が39.7%と今では考えられない数字でした。私は就職して間もない頃でしたが、結構面白くて見ていました。次の年の「武田信玄」もそれにせまる高視聴率でした。私が大河ドラマを熱心に見た最初の作品は、昭和49年の「勝海舟」でした。ちょうど中学2年生だったと思います。勝麟太郎が、貧乏時代に本屋で辞書を借りて、それを2冊写して、1冊を有料で貸し出し、1冊は自分の学問に使った話などよく覚えています。大人になってから、子母沢寛の原作を読みましたが、できるならもう一度見たい作品でした。その後「元禄太平記」や「黄金の日々」などは見たものの、高校を卒業してからはまったく遠ざかってしまいました。内弟子の寮では大河ドラマは見ませんでした。(日曜の夜は稽古が休みでしたので、寮になどいるわけありません。)
 就職してからはそれなりに見るようになったと思いますが、日曜日は大会や稽古などで遠出することが多く、今のように録画もできなかったので、なかなか全部見ることができずに終わってしまったものでした。以前も書きましたが、全部見ることができたのは「龍馬伝」が初めてでした。「平清盛」は挫折しましたが、「八重の桜」と「軍師官兵衛」はなんとか見ることができました。息子は、この「軍師官兵衛」が好きで、よく一緒に見ました。ここから息子の大河ドラマ好きがはじまり、「独眼竜政宗」「新選組」「秀吉」と続けざまにレンタルで借りまくり一緒に見たものでした。
 私は、変な凝り性があるため、ドラマと並行して小説を読んだり、史実を勉強したりするものですから、面倒くさくて困ったものです。普通にドラマを楽しめばよいのにそれができないのです。こういう人間がいるから毎年新しい大河ドラマが近づくと関連本が次々と出版されるのですね。来年は真田幸村を主人公にした「真田丸」です。予習で司馬遼太郎の「関ヶ原」と「城塞」は読みました。昔、白土三平の「サスケ」に真田幸村が登場したのが記憶に残っています。「サスケ」は父が買ってきてくれた漫画で、「いい本だから読め」と全巻揃えてくれました。何度も何度もボロボロになるまで読んだものでした。今でも本棚に並んでいます。息子も読んでくれるかなあ。
 最近「花燃ゆ」に合わせて「世に棲む日々」を読みました。今回で三度目ですが、この本は、幕末の吉田松陰から始まり、高杉晋作が長州征伐に対抗し奇兵隊を創設し、藩内クーデターを成功させた後、幕府軍を破るという実話に基づいた物語です。毎年、暮れには下関に稽古を兼ねてあいさつに行くということを二十数年行っていますので、ちょうど下関に行く時に読み終わるペースで読み進めました。博多駅から新幹線で小倉駅に到着するあたりで次のくだりでした。

「小倉が堕ちた」
 と、晋作がおうのに言い、あおむけざまに寝ころんだまま筆をとった。・・・

晋作が最後に読んだ歌が「おもしろき こともなき世を おもしろく」ですが、私としては「浮世の値わずか三銭」という言葉が今回は特に印象に残りました。
下関に通って二十数年経ちました。はじめの頃、塩川先生に高杉晋作の東行庵や功山寺に連れて行っていただいたことが懐かしい思い出です。テレビで功山寺挙兵の場面をやった時には、塩川先生が直々に門前でその場面を語ってくれたことがつい昨日のことのように思い出されました。
大河ドラマは1年で人の一生を表しますが、私の一生はどんな落ちになるのやら。「わずか三銭」にも満たなかったりして。H27.12.21  

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其の六十二
カラスと少年
 新しい年が明けてここしばらくはよいニュースが流れていません。昨年からのいじめと自殺の問題や教師の体罰の問題など、教育現場もいまひとつ明るくなれません。困ったものです。
 さて、かなり前の話になりますが、息子としみじみと話をする機会があって、もうすぐ5年生になる息子と「お父さんは5年生の時にカラスを飼ったことがあるんだよ」という話になりました、息子は「へえー」と熱心に聞いてくれました。
 私が小学5年生の夏休みのことでした。私の父は玉川村の須釜小学校で先生をしており、私を連れて学校に行くことがしばしばありました。特に夏の早朝の学校の校庭はカブトムシやクワガタの宝庫で、父のバイクの後ろに乗って何度も虫取りに連れて行ってもらったものでした。
 そんな夏休みが終わりに近づいたある日のことでした。父は私に「このカラスを家で飼え」と一方的にカラスを持ち帰ってきたのです。実は、父は学校の裏山で巣から落ちたカラスの雛を拾って学校で飼っていたのですが、夏休みが終わると学校においておけないので自宅で飼うことにしたというのです。しかし、面倒を見るのは私の役目でしたので、私にとってはえらい迷惑な話でした。
 ところが、カラスというものは飼ってみるとなかなかいい奴でした。まず頭がよいので人間の言葉が理解できるのです。そして結構茶目っ気があっていろいろとイタズラをしてきます。私はすっかり仲良くなって、まるで兄弟のように楽しくすごしたものでした。カラスの名前は「カン三郎」と名付けました。空を飛ぶようになってからは家のまわりをクルクルと飛び回り、私が「カーン!」と呼ぶとサーッと飛んできて私の肩にとまるのでした。子どものカラスといっても結構大きいですから、とまる瞬間はガッシーンという衝撃があり、体がぐらつくほどでした。さらに爪が大きく鋭いのでとまられたあとは真っ赤に食い込んでいたものです。カン三郎は私の肩にとまって頭をクチバシでつつくのが好きで、加減はしてくれているのですが、とにかく痛かったです。特に耳の穴が好きで、これがくすぐったくて、嫌がるとそれが面白いらしくさらにつついてきたものでした。鳴き声もカラスらしくなく「ガガガ」「ググー」といった甘えた鳴き声になり、頭の上にも飛び乗ってじゃれていました。
 私たちは家の中でも一緒でした。テーブルの上にものってきて、私がテレビや本をみているとじゃまをしてきます。はじめの頃は家の中で糞をしたこともありましたが、わかってくるとそれもなくなりました。学校が始まってからは、私のランドセルに乗って一緒に登校です。町の中に入り、他の小学生を見かけるとサーッと飛んでいってしまうのですが、私の帰る頃になると、帰り道の中島病院の上を旋回していました。私が一人になり「カーン!」と呼ぶと、サーッと飛んできてランドセルにガシーッ!と、とまります。そして私の頭をつつきながら帰るのでした。ちょうどこの頃の私は、学校では今でいういじめに近いものがあり、結構困っていたときだったので、カン三郎の存在はちょっとした心の支えになったものでした。
 別な稿でも書いたかも知れませんが、私は小学4年の時にあることがきっかけで、ある児童から執拗な嫌がらせを受けていました。5年生の時にクラス替えでその児童とは離れたのですが、それでもしつこくイジワルをされていたのでした。以前に書いた「北町」という地域の少年達の抗争は、いじめとは違った「少年仁義なき戦い」でしたので、気分的には健康的なものではあったのですが、「妬み」を基本とした意地悪な行為はストレスがたまるものでした。ほかに友達はたくさんいて、毎日孤独なことはないのですが、ターゲットにされるということは気分のよいものではありませんでした。ロッカーに入れておいた大切なスケッチブックをバラバラにされたり、新しい自転車に小便をかけられたり、細かいことはいろいろありました。特に私が嫌だったのは、そいつにくっついて関係のない奴がちょっかいをかけてくることでした。まさに尻馬に乗るタイプで、何の考えもなく手を出してくるのです。そいつらは腕力で向かってくるわけではなく、遠回しに言葉の暴力や小さなイタズラ繰り返してくるのです。別に私は仲のよい友達もたくさんいましたので、放っておくことにしていたのですが、こういう連中はとにかくしつこくて困ったものでした。この頃の私は、まだ空手も剣道もやっていなくて、マンガを読んだり描いたりするのが好きなボーッとした小学生でした。
 カン三郎との楽しい生活は長くは続きませんでした。ある日のこと、カン三郎の首に大きな傷がついていたのです。よそのカラスに攻撃されたのでしょう。カラスは群れで生活をしていますから、人に飼われたカラスをほうっておく訳にはいかないのでしょう。カラスは空を飛ばないと死んでしまうといわれましので、毎日自由に飛び回らせておいたのでが、地元のチンピラカラスたちに目をつけられてしまったのです。
 ある日の夕方、私は家の周辺に大量のカラスがいたのに驚きました。木や電柱にずらりと留まったガラの悪いカラスたちは、まさしくヒッチコックの「鳥」を彷彿させるものでした。そして、なんとその上空でカン三郎と何羽かのカラスが空中戦をやっていたのでした。よたよたと飛んでいるカン三郎に次々とチンピラカラスがクチバシでぶつかっていくのです。下で見ていた私は助けることもできずただ「やめろ!」叫ぶだけでした。石を投げてもあたるものではありません。大切な友達がひどい目にあっても何もできない自分が悔しくて悔しくてたまりませんでした。そのうちカン三郎は力尽きて地面に落下しました。私は、急いで駆け寄りました。首のまわりが傷だらけで血が流れていました。
 その後もチンピラカラスは家のまわりを飛び回りカン三郎の様子を見に来るようになりました。私は、カン三郎を小屋から出すことができず、空を飛ばせてやることができませんでした。数日がたち、カン三郎はどんどん衰弱しはじめました。どうやら体内に虫がわいたようで、ぐったりと横たわっているだけです。私は学校にいる間も心配でした。家に帰ると真っ先に小屋の前に行き、ただずっと側にいることしかできませんでした。話しかけるとちょっと首を動かして「ガガ・・」と声を出してくれました。私は、かわいそうに思う気持ちと悔しい気持ちで一杯でした。
 今でも覚えています。秋の冷たい雨が降っている日でした。カン三郎は、ぐったりとして動かなくなっていました。私は父に「様子が変だ」と言いました。父はしばらく見てから「ダメだ。もう死んでいる。」と言って小屋の外へ出しました。そして墓をつくってくれました。私は冷蔵庫からカン三郎の好きだったソーセージを持ってきて墓前に供え、雨の中いつまでもそこに座り込んでいました。当時の自分にとっては一番大切な友達だったのです。それを失った悲しみと、何も助けられなかった悔しさは今も忘れることはできません。私が空手や剣道を始める少し前のできごとでした。


 しばらくして、作文の宿題があり、私はカン三郎との思い出を書くことにしました。思い出す一つ一つに涙が溢れたものでした。
 ところがようやくできた作文を、提出日に出し忘れた私は、父の「カバン検査」でそのことが発覚し、ぶん殴られた末に、夜担任の先生の家に一人で届けに行かされたのです。先生の家などわからない私は、腫れたホッペタに涙顔で、作文を握りしめて夜の町中をウロウロしていました。だれか知っている人が通るのを待っていたのです。ちょうど別なクラスの担任の先生が通りかかり、事情を知って私を担任の先生の家まで送り届けてくれました。そのとき担任の先生の家で飲んだホットミルクの味は忘れることができません。その後、私の作文はコンクールに出品され、なんと特選となりました。副賞として学研の大きな図鑑をもらいました。それは今でも大切な大切な宝物です。

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