其の六十一
ケガ自慢
 「ケガ自慢」とは、いろいろなケガの遍歴を話のタネにして「へえ〜」と場を盛り上げることなのですが、どこにでもそんな人は一人や二人は必ずいるものです。実は私もその一人です。自慢をするわけではないのですが、ケガが多かったことは事実なので、今回はケガの話を少し書いてみます。
 最近は、人生半世紀を過ぎ、ケガをすることが怖くなりました。なぜならば、なかなか治らなくなってきたからです。ちょっとやそっとのケガはケガの内には考えていませんが、大きな骨を折ったりするとなかなかくっつかなくなってきましたので、いろいろと不便になってきました。また、昔のケガの影響であちこちのバランスが悪くなり、矯正のための訓練も必要となってきました。若い頃はケガも勲章の内と考えていましたが、とんでもない勘違いでした。ケガをする位激しい稽古をすることは大切ですが、ケガをしたらやっぱりダメです。
 実は私は高校生になるまでは骨折したことがなく、近所の病院では、レントゲン写真を見て「こんな丈夫な骨はめったにいない」と言われたものでした。この言葉が私の過信につながったのです。私の初めての骨折は、高校1年の時です。郡山の道場に稽古に来た他流の黒帯の人と組手をやったときでした。その人は大変強くて、道場の人たちは誰も相手になりませんでした。当時の福島県支部は、黒帯がいなくて色帯がリーダーとなってやっていましたので、いくら極真空手が強いといっても、他流の強い黒帯とガチンコ(顔面あり)でやるにはまだまだ未熟でした。私はたまたまその日道場に遅れて行ったのですが、実は私が1級で一番帯が上だったので、私が最後に組手の相手をすることになったのです。私は体も大きく老けた顔をしていましたが、当時はまだ16歳でした。相手の黒帯は、キックの選手もやっており、当時郡山で最強といわれていたそうで、ただの寸止めの黒帯とは違っていました。私は、中学から東京にちょいちょい稽古に行っていたので、他の方より昇級が早かったのですが、この時ばかりは「帯が上ってえのは辛いなあ」と思いました。その組手では、私が東京の真樹道場で習ったばかりの変則回し蹴りが、ポンポン入りました。ビンタのような回し蹴りをもらった相手は目を白黒させていましたが、結構打たれ強く簡単には倒れてくれませんでした。かえって本気にさせてしまったようで、顔面を狙った正拳がバンバンとんできました。そのうちの一発が私の鎖骨にあたったのです。私が相手の突きをよけながら突きを返そうと思ったところにカウンターで当たったようで、しびれるような衝撃だったことを覚えています。その前に何発か顔を叩かれていましたので、頭もくらくらしました。しかし、極真空手のメンツがありますから負けるわけにはいきません。私は当時の得意技の足払いをかけて何度か床に倒しました。やがて時間切れとなり、お互いに握手をしましたが、そのとき「君は若そうだが何歳だ?」と聞かれました。私は「16歳ですが。」と答えると「なに!16歳だって?それでは私の負けだ。極真空手はやっぱりすごいなあ。」といってくれました。私は鎖骨がしびれてそれどころではなかったのですが…夜は眠れないほど傷みました。次の日医者に診てもらったところ鎖骨にしっかりとヒビが入っていました。
 結局その方は他流の道場をやめて私たちの支部に入門してきました。その方も謙虚な素晴らしい方だと思いました。その後盧山館長が福島県支部の師範となり、私はその方と一緒に第10回全日本にも出ましたし、黒帯も一緒に取りました。
 その後の私は骨折が多くなり、いろいろと骨折話が多くなりました。高校時代は、こんなこともありました。「ブロック割り」に目覚め、やたらと自信があった頃ですが、ある時、いわき市の温泉街で大勢の高校生の前でブロックを割る羽目になりました。私は気張ってブロック2個を重ねて正拳で叩きました。上の1個は割れたのですが、下の1個は割れませんでした。右の中指の付け根にグシャッという感じがあったので、残りの1個は肘で割りました。私は、「失敗した」と思ったのですが、見ていた連中は2度に分けて割った方がビビッたようで、その場は効果抜群でした。しかし、結局中指の付け根は骨折したので次の日は右手が巨大なあんパンのように腫れ上がってしまいました。石膏で固められてえらい目に会いました。
高校を卒業して、盧山道場の内弟子になったときもいろいろとありました。雨の中の演武があり、雨に濡れながら手刀でバットを折ったときでした。右手で2度叩いて折れなくて、左手でようやく折りました。雨の中でしたので、右手はすべって手が弾かれたのです。館長からは「スピードが無いからだ」と指導されましたが、夜になってまたあんパンのように手が腫れ上がり、痛くて眠れなくなってしまいました。救急で病院に行き、脱臼と骨折がセットで見つかりました。もちろん次の日から稽古は休めませんし、館長には内緒でした。
 全日本に出場したときには、いつもケガがつきまといました。第14回大会のときには、2回戦で左足の親指が陥没しました。その試合は一本勝ちをすることができましたが、その後は棄権となりました。第15回大会では、2度の山籠もりを行い、雲取山を裸足で登山するなど苦行に耐えての出場でしたが、1回戦で右大腿部の筋断裂をおこし、ビッコの状態で2回戦に臨み敗退しました。その大会では、前年の私と同じように試合中に足の指を折った大西選手が優勝しましたので、ショックは二倍でした。第16回大会では、山籠もりもいい感じで仕上がり、1、2回戦はスムーズに勝ち上がったのですが、池袋で夕食を取っていたときに脇腹に激痛が走り、真っ赤な血尿が出てそのまま川口の済生会病院に緊急入院となりました。何と腎臓破裂と診断されて入院となってしまいました。ぶつけた記憶はないのですが、運悪く試合中に何かが入ったのでしょう。幸い出血もおさまり手術をせずに済みましたが、さすがに自分の運の悪さを恨んだものです。第17回大会は、山籠もりは疲労がたまりすぎるので実施せず、道場で調整しました。一週間前に20人組手で稽古を仕上げようと思ったのですが、何人目かの突きを体で受けていたのがよくなかったようで、次の日の朝、背中が痛くて起きられませんでした。「またか」と思いましたが、病院でレントゲンを撮ったところ肋骨の背中の方に亀裂が入っているということでした。突きをするどころか手を上げ下げすることもできませんでした。もちろん館長にも言えませんでした。1年間に300日以上も血尿を流し、前歯も砕けるほど顔面のたたき合いの稽古もし、あらゆる稽古に耐えたなあと思った矢先のことでしたので、とことん勝負の神様には見放されたと思ったものでした。1回戦は右の三日月蹴りが上手く決まったので勝ちましたが、2回戦は伸び盛りの八巻選手でした。私はとても踏ん張りきれるものではなく、あれよあれよと負けてしまいました。結局はこの試合が最後の全日本となってしまいましたので、「この次」は無かったのです。別にあきらめたわけではなく稽古は続けましたが、その後就職をして環境も変わり、右腕骨折、左足膝靱帯損傷、右膝脱臼と次々とケガが続き、稽古だかリハビリだかわからない毎日が続いたものです。卒業アルバムの職員の集合写真で2年連続ギブスをしているなんて滅多にない話ですよね。
 就職してから一番悔しかったケガは、パワーリフティングの県大会直前のケガでした。私は、就職してから体をもう一度鍛え直そうと、ウエイトトレーニングに本格的に取り組んだ時期があります。現在は週に2回しか行っていませんが、当時は週に4回、2時間ずつ行っていました。学校では毎日剣道部で稽古し、ウエイトの日以外は道場に行っていましたので、稽古時間は内弟子の頃の3分の1程度だったと思いますが、できるだけの稽古をしていたと思います。ジムのすすめでパワーリフティングの県大会に出場することになり、私は運良く3位になることができました。そうなると欲が出るもので、次は優勝を狙ってやってみようということになったのです。しかし、空手も剣道も目一杯やりながらですから、疲労が抜ける暇がありません。その日は大会の3日前の木曜日でした。私は、仕事が遅くなり、ジムに行った時間は夜9時を過ぎていました。その日は大会前の最後の練習にするつもりだったので、何が何でも第1試技の重さは上げておこうと思ったのです。それが失敗だったのですが、ベンチプレス、スクワットとこなし、最後のデッドリフトのころは10時頃でした。190kgまで挙げ、最後に170kgまで落としてやめようと思ったのですが、 この170kgのときに腰にグイッという変な感触があり、バーベルを持ち上げることができずに這いつくばってしまいました。腰から下の感覚がなくなり、その状態から動けなくなってしまったのです。ジムの先生が何とか腰をマッサージして家まで帰れるようにしてくれたのですが、もうダメでした。次の日からは、起きることも体を曲げることもできず、腰の激痛に苦しむようになったのです。何とか医者に診てもらったのですが、腰痛捻挫ということでとにかく安静ということになりました。仕事も休みですし、もちろん大会も出られません。練習の記録のままなら優勝を狙えただけに悔しさ百倍でした。もう泣くしかありません。
 しかし、これほどケガを続けると人間感覚的に麻痺してくるもので、ケガをした状態でどれだけできるかという自分への挑戦のような意識が芽生えてくるのです。特に腰の故障は持病のようになり、疲れがたまるといわゆるギックリ腰が頻発するようになりました。柔道の三段審査の時など前日の練習で腰をやってしまい、痛み止めの注射を打って審査を受けました。試合は何とか負けずにやりましたが、形で「肩車」は地獄でしたね。空手の30人組手の一週間前には右膝を脱臼し、そのままテープで固めて審査を受けました。手加減されるのは嫌だったので、ケガのことは誰にもいいませんでしたが、覚悟を決めると何とかなるもので普通に組手をこなすことができました。大山倍達総裁に「君は強かったねえ」と言っていただいたのが救いでした。
まだまだ続きますが、私のケガ自慢はこの辺までにしておきましょう。ケガそのものについては、私の弱さの証でもあるので、それ自体は自慢にもなりません。稽古は人一倍やったという自信はありましたが、ケガをしない稽古が本当なのですから、結局はやり方が正しくなかったのでしょう。医者が私の骨を標本にしたいといったこともあるくらい骨折しましたが、私以上に家族にとってはいい迷惑だったと思います。
 稽古とリハビリを年中並行してやっていわけで、そのうち稽古でケガを治すという意識まで出てきました。また、同じきつい稽古でもケガをしないでできる稽古方法を考えるようにもなりました。中国拳法や古武道には、単に鍛えるだけではなく、体を矯正する作用もあり、特に腰や膝を痛めることなく鍛練できるので、たいへん助けられました。私は、小学生から空手と並行して剣道の道場に通い、中学では剣道部でした。高校では柔道部でしたので、空手だけではなく武道の稽古をしていたのがよかった面と悪かった面があったかも知れません。技術的にはたいへんよかったのですが、体力的には常にオーバーワークだったのでしょう。
 剣道と柔道は内弟子の期間を除いてはその後も続けていますので、それが古武道を始める際にはたいへん役に立ちました。また、内弟子の時から始めた太気拳から続く中国拳法も途切れることなく行っていますが、これも30年以上になりました。20代の前半や試合に出ていた頃は、これらはまだ詰め込みの付け焼き刃の状態でしたので、技術的な効果は表れなかったと思います。ただやることがたいへんで稽古の量だけは多くてもその内容が消化しきれなかったのです。しかし、今となってはこの時期の稽古が少しずつ形となってきており、人より早く、余計に稽古したことを今更ながらよかったとも思っています。沢井健一老師が、「若いうちは道ばたの石ころでも何でもポケットに入れておけ。何時か必ず役に立つ。」と仰っていましたが、若い頃に拾った石ころの一つ一つが今の私をつくってくれたのだと思うようになりました。
 ケガ自慢からそれてしまいましたが、ケガをして失ったものはたくさんありますが、得たものもまたたくさんあります。その一つはケガに対する抵抗力です。医者ではありませんが、実際にケガをした本人にしかわからないこともありますので、その体験は自分にとっても、指導者としてもたいへん役立つ知識となっています。盧山館長は、「ケガをしてからが本当の修行の始まりだ」とも仰っていました。もう一つはケガをしない方法です。かつての私は特にこれができませんでした。一番は疲労を残さない方法。要するに「休み方」なのです。武道的には「毎日の修行に休みがあってよいのか」と思われますが、上手に休む方法はいくらでも工夫できるのです。中村日出夫先生でさえ、「鍛練は毎日行いなさい。ただし、月に2~3日はまとめて休みなさい。」と仰っていました。ウエイトトレーニングの世界でも、筋肉は48~72時間の休養が必要と教えています。例え毎日稽古したとしても内容を工夫すればよいのです。かつての私は、ただもうやればよいという稽古でしたので、毎日自分を追い込むだけでした。「休むことは自分に負けたこと」と思っていましたので、よく熱も出しました。これらの反省は、今では指導者としてたいへん役に立っています。お陰で生徒が柔道でも剣道でも空手でもよく活躍してくれました。特に柔道部の時には、「土日完全休養」を実施し、そのかわり平日は地獄の稽古を行いました。はじめは周囲から「そんなやり方でよいのか?」と言われましたが、5年連続で県大会出場を果たし、5年目には8人からスタートした部員が55人にふくれあがりました。計量の時にうちの部員達の体を見た係の先生が「おまえらみんな仮面ライダーか?」と言ったのが記憶に残っています。
 もう一つ書いておきますが、「体のケガ」は何とかなりますが、「心のケガ」は手強いものです。しかし、「折れない心」もまた鍛練によって作り上げなければなりません。仕事でも勉強でも、困難な場面から逃げない自分を体験することが必要だと思うのです。それはまず子供の頃の体験が最も重要です。子供の頃から打たれ強い心を作り上げるためには「打たれる」ことを数多く体験することが大切ですが、今の子供は打たれる場面が少ないように思えます。いじめとか自殺とか簡単にコメントできない問題もありますが、社会全体で「折れない心」を作り上げることを考えることも必要な時代になってきていると思います。
 話があちこちにそれてしまいましたが、最後に…、ある映画で、ほおに大きな傷のある男が出てきて、その人を見て「あの人、強そうだね」といった奴に、「あの傷をつけた奴が本当に強いんだよ」といった奴がいました。う〜んなるほどなあ。

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其の六十
追悼 松田隆智先生
 今年の7月23日、わが国の中国拳法研究の第一人者である松田隆智先生が急逝されました。心よりご冥福を申し上げます。
 私は、この報をA氏よりの電話で知り、ただもう愕然としたものです。それは司馬遼太郎さんが亡くなったときと同じくらいのものでした。司馬さんも松田先生も、それぞれにとっておきのものを残しておいたということも聞きました。それを発表しないままこの世を去ったのですから、私たち以上に残念なのは当人だと思います。
 松田先生は、日本に中国拳法を紹介し、幾度もそのブームをつくった大功労者です。漫画「男組」に登場するさまざまな拳法、雑誌「武術」の発刊、そしてまたまた漫画「拳児」となると知らない人はいないでしょう。ひらけポンキッキの「カンフーレディ」を覚えていますか。こんな子ども番組で陳氏太極拳が登場していたなんて想像できますか。
 日中国交回復以前は、中国拳法の情報は皆無に近く、せいぜい簡化太極拳程度でした。少林寺拳法という言葉はあっても純粋な少林拳などは見ることもできませんでした。沢井健一老師のように現地で本格的に修行を積んで帰国した人はほんの少数でしたので、中国拳法とはまったく謎の存在でした。ただ、台湾を通して学ぶルートがあり、王樹金老師をはじめとする大家が来日し、少しずつ本格的な中国武術が日本でも学べるようになりました。やがて日中の国交が回復すると、全日本太極拳連盟をはじめとする団体が大陸の制定武術を紹介するようになっていくのです。そのような中で、松田先生は、幾度となく単身で台湾に渡り、本場の実力のある武術家を尋ね、自らも稽古を積みながら陳家(氏)太極拳、八極拳、螳螂拳など日本に貴重な拳法を紹介したのです。それらは、日本では爆発的な人気を博し、今でも日本の愛好者の人気の上位を占める拳法となっています。松田先生の当時の研究と自己の修行を紹介した本が「図説中国武術史」と「謎の拳法を求めて」でした。私はこの本を内弟子となった頃に師範代に貸していただき、何度も何度も暗記する位に読んだものでした。松田先生は極真空手を大山倍達総裁に直接指導を受けた時代もあり、本名の松田鉦で、極真会館の有段者名簿に参段で載っていたと思います。また、沢井健一老師との出会いもあり、実はその辺が中国拳法の入口だったらしく、そうなると盧山館長や私と同じなので、それも興味を持った理由かも知れません。「発勁」「震脚」といった言葉も今では当たり前に使われていますが、すべて松田先生からはじまったのではないのでしょうか。
 松田先生とは、一緒に稽古したわけではないのですが、私は松田先生の武術への関心のベクトルに共感できるものが多かったのだと思います。先生の「太極拳入門」や「少林拳入門」など絶版の書籍を神保町の古書店で何とか手に入れ、これもまた暗記するほどに読みました。さらに、東方書店などで中国や台湾で出版された書籍を中国語も読めないのに大量に買い込み、わかる漢字を拾い読みしながら何とか理解しようとしたものでした。中でも劉雲樵老師の「八極拳図説」は、知り合いを通して中国人に訳してもらい、独学で練習したものです。
 私は、内弟子の頃にこの様に独学でいろいろなものを学びました。沢井老師の「ポケットの石ころ」の話がきっかけでした。後でやろうではなく、いつかきっと役に立つとおもって拾っておけということなのですが、独学でも身につけておけば何時か本物の先生に会えたときに、その成果を見てもらえると思ったのです。中国拳法については、盧山館長と沢井老師に太気拳を直接学んでいましたので、これが中国拳法の核心であるとすれば、すべてこれに照らして動作を確認すれば間違いない(実際にそうでしたが)と思ったのです。私は覚えた型の数を増やすことには興味が無く、体の使い方の原理原則を追求したいと思っているのですが、そのためにはある程度の動作(型)を身につけなければならないのです。そして、多くの動作に共通する最大公約数的な動作が、すべてに通ずる原理原則となっていくのです。おそらくその頂点に太気拳(意拳)があるのだと思うのですが、創始者の王向齋老師もあらゆる拳法を研究してたどり着いたのでしょう。盧山館長は、「完成したものを学ぶことは手っ取り早いように見えてそうではない。完成する過程まで含めて学ばなければならない。」と仰っていましたので、太気拳を理解するためには、その元となった形意拳を学ぶように言われたのです。もちろん盧山館長からは王樹金老師直伝の形意拳、太極拳、八卦掌を教えていただきましたが、形意拳だけは、当時内緒で道場に通いました。当時の内弟子は日曜の館長稽古から月曜の午後の指導までは休みでしたので、日曜の午後に池袋の道場に習いに行ったのでした。はじめは形意拳だけでしたが、当時陳小旺老師が来日し、大陸の陳氏嫡伝の太極拳が紹介されたこともあって、陳小旺直伝の太極拳を学ぶことができたのです。たしか丸2年通いました。とにかく基本功を重視する指導でしたので私にはたいへん勉強になりました。福島に帰ってからも太気拳を続ける傍ら郡山の太極拳教室に通いました。ここでは簡化二十四式と田秀臣の陳氏太極拳を学びましたが、しかしそこはおばさん達のカルチャースクールだったので、あんまり一生懸命やらないでくれと注意され、1年ほどでやめてしまいました。その後は、中国から呉連枝老師、台湾から徐紀老師などが来日したときなど幾度も積極的に参加しました。そこで長年稽古した技を見ていただき、いくつか修正していただきましたが、大筋間違いがなかったようで、自分の基本となっている太気拳に感謝したものです。また、当時はケガが続いて悩んでいた時期なので、いろいろと質問させていただき、そのときの答えが私の大きな支えにもなりました。結果として型はたくさん習いました。私自身は原理原則を確認する手段として考えているので、あまり型の数は意識していませんし、ある程度技術的な法則がわかると、型を覚えることはおっくうなことではありませんでした。その後、盧山館長を通して意拳の孫立先生に親しくご指導いただけるようになり、私の中国拳法修行もさらに少し進むことができました。
 松田先生の本にもありましたが、まじめに修行を続けていると、必要なときに必要な先生と出会うことができるということだそうです。これを「天の采配」といいますが、まさにその通りだと思います。私は20代の後半より盧山館長の許可を得て日本古武道の先生よりご指導いただくようになりました。そこで改めて体の使い方を再確認することができましたが、それもそこまでの積み重ねがあってのものでしたので、空手があり、中国拳法があり、日本古武道へと続く。これもまた「天の采配」なのでしょう。
 これは私見ですが、中国拳法を経験してから日本古武道を学ぶと、明らかに中国拳法の要素が取り入れられていることがよくわかります。中には中国拳法そのままという流派もあります。神道夢想流杖道などは、その典型でといってもよいでしょう。無外流居合に併伝している槍や柔術などは、中国人が伝えたとはっきりしているようです。だいたい開祖が山に籠もって御神託を得たとか、遊行僧に秘伝を授けられたとかという伝説がありますが、ほとんどは中国人や中国で学んだ僧に指導を受けたのだと思うのです。もちろん日本人なりの工夫はあると思いますが、中国拳法と並行して学んでいる私には、どうしても共通点が多く感じるのです。ただし日本古武道がすべてそうではなく、私がそう感じる流派があるということです。したがって、私と相性がよい流派は自然と関連性が高いものとなっているようです。
 最近ある出版社の方と話をしたのですが、「今の武道家は本を読まなくなった」ということです。DVDやYouTubeなどで手軽に動画が見られることが本離れにつながっているのかも知れません。確かに、昔は写真でしか見ることのできなかった先生方が、動画で手軽に見ることができるのです。船越義珍先生や知花朝信先生など、はじめて見たときにはただもう驚きました。しかし、動画は確かに便利ですが、文字にこめられた情報量の方が私は遙かに上だと思っています。動画からは「感覚」は伝わりませんが、文字にはその「感覚」が含まれているのです。例えば居合で「しの字を書くように」と刀を抜くのですが、動画を見ると抜いている様子はわかるのですが、大切なことは抜いている人間が「しの字を書くように」意識していることであり、そのことは映像には表れないのです。肝心なことは外見上の形ではなく、どのような意識で行っているかと言うことなので、これは文字の力には敵わないと思うのです。何度か書きましたが、私は本によって武道の多くの技術を学びました。よく「本で学んだ技術など役に立たない」とか「本で学んで強くなるわけがない」という方がいますが、確かに本だけを読んでいるだけのマニアや研究者は強くはなれないと思います。ただ私自身については、実際の稽古量については、そうそう人には負けないと思っています。何もわからずにただ繰り返す稽古よりも、何かがわかって繰り返す稽古の方が、その効果は高いと思うだけなのです。昔の本は、今のように写真もよくないものが多く、また動画などもなかった時代なので、本を書かれた先生方は言葉をいろいろと工夫されていました。写真が無かった時代ともなるとなおさらのことです。それだけに言葉に含まれたものが大きかったのだと思います。今では何でも手軽に手に入る時代です。武道の極意もインスタント化されているかもしれません。しかし、本当の極意というものは、そんなに簡単なものではないのです。「理を知り、体をもって極意に至る」と言われるとおり、先人の教えをしっかりと学びつつ、厳しい鍛練を積みかねるしか道はないのです。
 松田隆智先生は、多くの資料を私たちに残してくれました。できれば一度直接会ってお話を伺いたかった。今後この様な方は二度と現れることはないでしょう。次の出版の用意もされていたということですので、さぞ悔いを残されたこと思います。おそらくあらゆる研究の締めくくりにお書きになりたかったものがあったのではないかと思うと残念でなりません。私にとって中国拳法は、武術の核心の部分でもあります。別に中国拳法家になろうと思っているわけではなく、学ぶ過程で避けることのできない平安京の朱雀大路のようなものだと思っているだけなのです。今後も先生の残された資料は、多くの武術を学ぶ者たちに絶え間なく示唆を与えてくれることでしょう。ご冥福をお祈りいたします。

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