其の五九
YOKOHAMAを聴きながら
 ここしばらくの間、忌野清志郎さんの「デイ・ドリーム・ビリーバー」がCMで流れていて、いろいろと昔を思い出したりしていたのですが、私にとって清志郎と言えば「トランジスタ・ラジオ」なんですね。

 Woo 授業をサボって 陽のあたる場所に いたんだよ
  寝転んでたのさ 屋上で たばこのけむり とても青くて

 この曲は私が高校を卒業した次の年に出た曲で、ちょうど自分で自分の高校時代をモデルに物語を書いていた頃で、まるで自分のテーマソングのように聴こえたのでした。内弟子をしながら将来について何も考えず、一方では気楽で、一方では不安で、「美大と映画作りに未練を残しながら空手に打ち込む間に高校時代をふり返っていた」という頃でした。高校時代は夏期講習をさぼって屋上に大の字になって夏の空を眺めていたこともあり、その時の空を思いだしたものです。
 少し前に、私は母校の文化祭に卒業以来初めて行ってきました。現在娘がそこの3年生ですので、親の立場でちょっと覗いてきたのです。娘は娘で楽しそうにやっていたのでそれはそれで一安心で、私は昔のままの校舎の中を思い出に浸りつつウロウロとしてきました。例の屋上の登り口は閉鎖されていて、私のように馬鹿な思い出はつくれなくなっていました。私の母校はとにかく「自分のことは自分でやれ」という超放任の学校で、新島襄の「__不羇(てきとうふき)」という精神がぴったりの校風でした。私の頃は男子校でしたので、今ではあり得ないようなできごとが山ほどありました。しかしそれでも進学校であることには変わりなく、私の下宿の仲間2人のうち片方は東大の法学部でもう片方は山形大の医学部でした。私だけが全滅で埼玉に行って内弟子をやっていたのでした。どれだけテキトウな生活を送っていたかお恥ずかしい限りです。
 私の高校の後半は、とにかく応援団と空手に没頭する毎日で、美大に行きたいと言いながら美術部は昼休みにちょっと美術室に顔を出す程度でしたし、授業は何をやっているのかさっぱりわからない状態でした。英語の時間に眠ってしまい、目が覚めたら現国だったと言うこともありました。英語の先生にはいつも「君は今日もバカだねえ」といわれるのが日課のようでした。
 夏の高校野球が二回戦で敗退し、同時に3年生が応援団を引退し、後は空手だけになり夏休みを迎えた私は、いい加減に夏期講習に参加し、何の緊張感もなくプラプラとした毎日を送っていたと思います。ただ空手の道場にだけはいつも一番乗りで、そして最後までということは続けていました。
 その暑い夏に聞いていた曲が、増田俊郎さんの「YOKOHAMA」でした。別に横浜に行ったこともないのですが、夏の暑い郡山の文化通りを自転車でプラプラとさまよっていた頃のあの青い空と、アスファルトの熱気がその曲と妙に重なったのでした。

 YOKOHAMA too much memories
 乾いた潮の匂いも 笑いながら歩くSailorも
 みんなどかへ 消えてしまったけれど

 私の高校での文化祭では、私たちの出し物は「宝くじ」と「格闘技校内一決定戦」という馬鹿げたイベントでどちらも大盛況でした。「宝くじ」はちょっと触れることができない内容なので書けません。「格闘技校内一決定戦」については、当時「四角いジャングル」が流行っていましたので、そのパクリでした。私は客寄せのために廊下や屋上でブロックを割ったり、当日も中庭のリングの前で角材や氷柱を割ったりと、いい気になってはしゃいでいました。くわしいことはそのうちに書きたいと思いますが、この「格闘技校内一決定戦」は卒業アルバムにデカデカと残り、当時の同級生たちには印象に残ったできごとだったようです。娘の文化祭でも他にたくさんの保護者がきていましたが、結構当時を知っている同級生などもいて、あの中庭での氷柱割りや廊下でのブロック割りなど、会うなりその話を切り出してきました。中にはいわきの夜のブロック割りなど違法なできごとも覚えている奴がいて、「それは忘れて」ということも思い出したものです。
 文化祭を境に、高校では受験ムード一色なり、いままで気ままに生活していた同級生たちは、だれもが真剣に自分の将来と向き合っていったような気がしました。教室にはいろいろな大学の「赤本」が見られたものです。もしかしたら自分だけがその中からちょっと離れたところにいたかも知れません。勉強はいくらかしていたと思いますが、好きな世界史と日本史以外はほとんど手つかずで、ボーッとしながら時間だけが過ぎていったと思います。とはいっても、磐越東線事件をはじめ、こたつ事件、忘年会事件、市長杯、ウイリー猪木戦、卒業式事件その1・その2、竹花先生などなどチラッと思っただけでいろいろな事件が出てきましたので、別な方では結構忙しかったかも知れません。

   全国どこの高校生も、この時期は進学や就職などそれぞれに道は違いますが、自分の人生の大きな分岐点であることには違いありません。妥協が必要な場合もあるし、妥協しては後悔する場合もあります。その見極めが難しいところです。私も最初の受験は失敗しましたが、その結果盧山館長の内弟子となり、結局行きたかった美大には3回落ちましたが、何気に勉強していた社会科の大学におさまって現在に至っています。何が功を奏するかわかりませんが、大事なことは、今やれることは何でもしっかりとやっておくということではなないかなと思うのです。私の嫌いな言葉「やればできたのに」です。「だったらやれよ」と思いませんか。「やったけどできなかった」と言う方が潔いと思うのです。

 今朝の毎日新聞にスピードスケートの岡崎朋美さんの記事が大きく載っていました。別に親戚ではありませんが、彼女の練習に取り組む姿勢には前から学ぶところがあったので、その記事を一気に読みましたが、5度目のオリンピック出場を狙っているというその内容に唯々感服するばかりでした。ケガをしたり、結婚、出産といういろいろな人生の節目の中で、自分の目標を失わずに前を向いて歩んでいく姿は、今の私に突き刺さるものがありました。おそらく紙面には書かれていないいろいろな悩みや苦労があったのだと思いますが、「限界は自分が作るものだと思う。挑戦した人がいないからこそ、チャレンジしたいし、その価値がある。」という岡崎さんの言葉に目が覚める思いでした。その記事のしめくくりは次のように書いてありました。

長田コーチが言っていた。「岡崎には『やらなきゃよかった』というのがない」挑戦の最終地点に立った時、そこがソチであってもなくても、岡崎はきっと笑っている。

岡崎さんは、今41歳だそうです。ちょうど私が盧山館長と極真館を立ち上げた歳です。

さて、高校の文化祭にもどりますが、昼のアトラクションでは、中庭で現役の応援団が盛大に「大進撃」を行っていました。私たちが当時特設リングを作ったところには、今建物があり、その上で団長が元気よく舞っていました。私は、今は立入禁止になっている屋上の登り口のところに一緒に行っていた息子を立たせて記念写真を撮りました。私が卒業式の日に同じところで学ラン姿で写真を撮ったところでした。

色褪せた 一枚の古い写真
まだBanyの俺を抱く二人
裏に書かれた 54 YOKOHAMA
全てが始まったとき

《戻る

其の五八
桜咲け!
 今年はなぜか週末に寒い日が続き、石川町では桜の開花がだいぶ遅れてしまいました。私は、この春から異動によりいわき市の山間部に勤めることになりました。ここは谷間にある小さな町で、空が狭く、風の強いところです。日照時間が短いせいか気温が低く、ここも桜の開花が遅れていました。市内ではすでに桜は満開となり、青い空とピンク色の桜並木が昨年の大震災の悲劇を吹き飛ばすように輝いていました。
 桜の花は私がひまわりと並んで好きな花で、石川町の桜は特に好きです。町を流れる2本の川沿いに桜並木が続いており、樹齢もちょうどよい時期ですので、ここ数年は桜の中に町が埋もれるような景観になります。私が子どもの頃は、この桜並木を見ながら学校に通いました。石川町では例年4月の中旬には満開となるのですが、その景色は新学期が始まって元気に登校する子どもたちに祝福のエールを送っているような感じになるのです。
10数年前に私の家がバイパスの工事にひっかかってしまい、やむなく転居することになったのですが、石川町は土地が高く、家族からは他に移ろうかといった意見も出ました。しかし、私は頑として町外に出ることを拒みました。私は、自分の子どもたちに、この桜並木を見ながら歩いて石川小学校、石川中学校に通わせたかったのです。親の身勝手かも知れませんが、結局町内の、それも前の家からそう離れないところに移ることができました。ライダーキックを練習した土手もすぐ近くですし、初めてのお買い物はやっぱり「ほずみソラ」だし、「えびすや」に「喜山食堂」「肉の丸昌」も昔のまんまです。40年前に私の通った道を子どもが通ってくれるのは親として本当に嬉しいことです。いつかは自分の道を歩くようになるとは思うのですが、この桜並木の記憶だけは残してやりたいと思いました。
 この春から、私は職務上の立場が変わり、今まで以上に責任が重くなりました。個室ももらえるようになったので、少し考え事もできるようになりました。窓からは高い山と小さな空が見えます。道路を走るトラックの音と、谷間を抜ける風の音しか聞こえない静かなところです。ただテントウムシとカメムシが異常発生しており、これには困っています。夏にはマムシがたくさん出てくるそうで、これはちょっとかんべんしてほしいです。この「春」と言う季節は日本人にとっては人生の節目となる季節で、進学や就職、転勤、退職などいろいろな変化が見られる季節です。

 この後ゴタゴタと忙しくなり、今は6月の下旬となりました。また一から違うことを書こうかとも思いましたが、それなりにオチはつけようと思い、今頃桜の話を続けることにしました。私の職場で桜が咲いたのは4月26日のことでした。ただでさえ日照時間が短いのに、寒い日が続き、あと1歩というところで止まっていたつぼみがようやく開き、きれいな桜が咲いたのでした。石川のようにたくさんの木はないのですが、少ないだけに一つ一つの花がとても大切に思えたものです。一生懸命に咲いたんだなあとしみじみと感動しました。  今から17年前、私が郡山市に異動した時、桜の季節に私の尊敬する先輩が不慮の死を遂げられました。その先輩の自宅は新しい通勤経路の途中にあったので、ときどきお会いできると楽しみにしていた矢先ですので、本当に驚きました。いろいろと悩みを抱えて精神的に参っていたようなのですが、私が新米の頃、何から何まで指導して下さった先輩だけに、まさに自分の兄を亡くしたような悲しみでした。柔道部の稽古の後、「黙想」「黙想やめ」「反省!國井!」というパターンは、この先輩から教わったもので、その後ずっと続けています。また、私がよく使う「生徒を指導するときには、相手の心臓を握って話をする。」という言葉もその先生から教わったものです。葬儀の時、葬儀場に向かう118号線沿いは桜がきれいに咲いており、松任谷由実の「春よ、来い」がラジオから流れていました。私は涙が止まりませんでした。
 長いこと生きていると、いろいろな場面の桜と出会います。嬉しい場面であったり、悲しい場面であったりします。しかし、桜にとっては私たちの都合はどうでもよく「咲けるときに全力で咲く。」ただそれだけだと思います。われわれは都合よく自分たちの場面にこじつけているだけに過ぎないのです。ただ、嬉しいときに桜が咲いていたのか、桜が咲いたのが嬉しいのかはわかりませんが、桜は我々日本人の心を温かくときめかせ、励ます花なのではないかと思うのです。昨年の大震災のあとも、各地の桜がこれでもか!と咲きました。  さて、嬉しいときということについてもうひとつ書いてみると。嬉しいと感じるときは、自分にとってよい変化があったときだと思いますが、どんな些細な変化でもそれを喜んでくれる人がいることがもっと嬉しい事だと思います。さらに嬉しいと思ってほしい人が喜んでくれたらもっともっと嬉しいでしょう。桜の花のように咲くだけで人の心が嬉しくなるような人になれたらいいですね。
 さて、6月も終わりに近づきましたが、この時期は、マムシとスズメバチが敷地内を動き回っています。どれほど空手が強くてもこれらにはかないません。「スーパー・スズメバチ・ジェット」はいつも身近においてあります。特に私は1度刺されていますのでまじめに怖いです。生活環境や湿度の変化のせいか、最近は首が痛くて苦労しています。以前交通事故で痛めたところなのですが、頭痛とめまいが一緒になりけっこう苦労しています。特に左を向くのが辛いので内歩進の稽古の時などピクッと飛び上がるほど痛いときがあります。仕事の時間帯が変わり、今までより稽古時間は増えたのですが、その分ストレスが多く、体調が勝れない日が続いています。しかし、立場上私は「桜」のように部下や子どもたちを励ましたり喜んだりしなければならないので、とにかく自分のことは後回しです。
今年は、外国には指導に行けない事情があり、その分国内をできるだけ回ろうかと思っています。福島、埼玉はもちろん、九州、大阪、宮城と指導に行きました。秋には北海道もいくつもりです。極真館になって10年目が過ぎようとしていますので、自分にとっての桜は後回しで、極真館の桜になるように頑張りたいと思います。
でも桜ってパーって咲いて、パッて散っちゃうんだよなあ・・・

《戻る

其の五十七
追悼 真樹日佐夫先生
 平成24年の年が明け、1月2日〜3日と私は息子をつれて南会津の台鞍スキー場にいっていました。私にスキーなど似つかわしくないものですが、昨年から息子のために突然やる羽目になってしまいました。1月2日にスキー場で昼の休憩をしているときのことです。突然館長から電話がかかってきて「岡崎、真樹先生が亡くなったぞ」という知らせをいただき私は愕然としました。
 私と真樹先生との関係は、以前にも書いたと思いますが、中学生3年生の時に始まります。当時私は通信教育の「マス大山空手スクール」で極真空手を始めていました。小学校5年から糸東流空手をかじっていましたが、やっぱり極真空手をやりたくて通信教育を始めました。「マス大山空手スクール」は1972年に開始していますので、私は1973年9月入門なのでけっこう早い時期の会員でした。ここで通信教育というと本を買って自己流で真似ているだけと思われるのが普通ですが、福島はそういったものではなく、同好会が充実しており、20人以上の規模の同好会が3〜4つは活動していたのでした。ただ黒帯がいないから「支部」になれないだけで、実際は他流派の有段者達が多く、人数も内容もとても充実していました。
 私は、中学2年の時に総本部の夏合宿で七級となり、郡山の同好会と交流して稽古をしていました。中学3年の夏休みには麻布にあった真樹道場に始めて行き、そこで審査を受けて六級になりました。当時私のところの同好会は20名を超え、毎回の稽古は盛況な賑わいとなっていました。組手もスパーリングという感覚がなく、いつも全力でどつきあっていたと思います。高校生など入ってくるとすぐに組手をお願いしてメタメタにしてしまいました。ひどい中学生でしたね。
 高校に入ってからは、夏休み以外にも土日をかけて東京に行き、総本部や真樹道場に稽古に行きました。当時の総本部は池袋にありましたから、皆さんご存じなのでとくに書きませんが、真樹道場は西麻布の坂道沿いのビルの地下にありました。現在の真樹ビルはその後のものですので私は知りません。渋谷からバスに乗って、バス停でおりるとすぐにそのビルはあり、せまい階段を下りるとそこに事務所があり、右に曲がって通路を通り狭い道場に入ります。途中真樹先生のオフィスがあったり洗濯機や風呂があったり、ゴチャゴチャした雰囲気でしたが、大勢の稽古生がひしめき合っていました。とにかく道場が狭いのか人が多いのかわかりませんが、前も後もじゃまでしょうがないという混みようでした。特に蹴りはどっちを向いても足が上げられない状態でした。移動稽古と型は半分ずつ道場から出て待っているというやりかたで、洗濯機の前で汗だくの男達がハアハアと待っている姿は今思えば異様ですね。組手になると全員が中に入り、二組ずつ色帯は全員やるといったやり方でした。ここで真樹先生の素晴らしいところは、必ず空手着になり稽古を指導することです。一緒に基本で汗を流し、移動稽古を叱咤し、組手は上級者を相手に胸を貸すのです。本当に空手が好きなんだなあと思ったものです。今時口先だけで稽古着も着ない大先生が多い中で、当時の真樹先生の姿こそ真の武道家であったと思います。現在の私のこだわりのひとつに、稽古の時は必ず稽古着に着替えるというのがあります。空手はもちろん、柔道や剣道を指導するときでも、どんなに短い時間であっても稽古着に着替えます。それが稽古に対する礼儀であると自分で勝手に決めているからなのですが、もしかしたらこの頃の真樹先生の姿に倣っているのかもしれません。
 高校2年の夏休みには、予備校に行くといって東京のいとこの家に寄宿し、定期券を買って毎日麻布の道場に通いました。一番に道場に入り、最後まで稽古をして道場の掃除をしていつまでも事務所に居残っていると、真樹先生の弟さんにかまってもらったり、真樹先生がお前面白いからこっちへ来いとオフィスでブランデーをのませてもらったりしました。高校1年合宿の時など、「カラテ大戦争」の撮影があり、撮影を指揮しに来た梶原一騎先生に真樹先生より紹介していただき、その時もなぜか三人でブランデーだったと思います。あんな大物2人と高校生の私がひとつ部屋の中で一杯やっている姿は何とも言えない思い出となっています。  真樹道場でお世話になった先輩に高桑満弥さんという方がいます。体は大きくない方なのですが、体のキレがよく、どんな技もバシバシとキマるのです。この先輩と初めて会ったのは先に書いた合宿の時で、当時緑帯だった私は、副班長となって、号令をかけたり班長の手伝いをしたり働いていましたが、高桑先輩は真樹先生の側近として全体の指揮をとっていました。よく体が動く方だなあと思っていましたが、海岸での全体の組手稽古の時、緑帯の私は前に出されて端から組手をさせられました。何人やったかわかりませんが、参加している色帯は全員相手をしたと思います。最後に真樹先生から「高桑とやってみろ」となり、全員の前で高桑先輩と一対一の組手となりました。体の大きい私は、一回りも小さい先輩に軽い気持ちで接近し、攻撃を仕掛けようとしたときです。先輩の左掌底が私の顔の前に伸びてきて、顔面を叩いてくるかな?と思った瞬間、目の前が真っ白になりました。しばらくして「はっ」と目が覚めました。私は波打ち際にぶっ倒れたままになっており、あたりを見渡すと向こうの方でみんながスクワットをやっていました。何をもらったのかはわかりませんが、とにかくKOされて気を失っていたことは確かです。しかも一発で・・・・・
 それから先輩とは親しくなり、左回し蹴りで倒されたことも教えていただきました。次の年の夏休みには毎日のように西麻布の道場に行き、高桑先輩には手取り足取り指導をしていただきました。特に組手の技の組み立ては今でも役に立つ内容でした。本当に感謝しています。
私が高校2年の時、第10回全日本に出場したときのことです。高桑先輩も「赤星潮」のリングネームで出場していました。先輩は当時連載されていた「四角いジャングル」の主人公のリングネームでキックのリングに上がっており、相変わらずのキレのいい動きで活躍していました。先輩の1回戦の相手は、100kgを超える大型選手でした。先輩は控室で私を椅子の上に立たせて上段回し蹴りを何度も何度も練習しました。そして、実際の試合でその上段回し蹴り一発でその相手をKOしたのです。練習台になった私は大変名誉な経験をさせていただきました。私は1回戦0−4の判定負けでした。この大会は二宮城光選手が圧倒的な強さで優勝しました。大会そのものも名勝負が多く大変勉強になりました。この頃はもう福島県では正式に支部が発足し、盧山師範が専属で指導にあたっていました。私は、この大大会以来、盧山師範の空手に専念するために真樹道場の方々から一線を引くようになったのですが、それから30年以上が経ちました。現在、盧山師範は館長として極真館を設立し、私は福島県支部長となり、館長のお手伝いをさせていただいています。真樹先生から遠ざかってからあっという間に30年が過ぎたのです。真樹先生はその後も作家として、空手家として活躍を続けられました。
あ、もうひとつだけその後の関わりがありました。私が高校3年の時、たしか2月の末にウイリーと猪木の試合が蔵前国技館で行われました。私は大学を受験すると偽ってそれを観に行こうと思ったのですが、どうにもチケットが手にはいらず、真樹先生に電話で相談しました。真樹先生は「ウ〜ンこれからではなあ〜兄貴に相談してみなさい。」と言われたので、私はすぐに梶原一騎先生の渋谷の事務所に電話をしました。ふつう梶原一騎先生に福島あたりの高校生が突然電話をしても取り次いでもらえないと思うのですが、「福島の岡崎ですが」といったら「ああ福島の岡崎君?ちょっと待ってね」と一発で取り次いでいただけたのです。そして梶原先生と直接話ができ「ああ岡崎君しばらくだねえ。弟から聞いているよ。何とかしてみるから前日に事務所に来なさい。」ということになったのです。こんなに簡単に梶原先生のところに行っちゃっていいのかなあとも思いましたが、私は図々しく渋谷の事務所に行ったのです。梶原先生はお忙しいのにもかかわらず「よく来たねえ。入りなさい。」といって直接対応してくださいました。いろいろと空手の話や福島の話など聞いて下さり、信じられないような名誉なひとときを過ごすことができましたが、結局チケットはもう事務所にはなく、当日券が少し出る予定なので、これからでも並べば何とかなると教えていただきました。私は友人2人と2月の夜なのに国技館に行き、徹夜で並んだものでした。とにかく寒いのなんのって・・・若いって馬鹿ですね。 真樹先生と再会したのは、極真館となってからの全日本大会に来賓としてお見えになったときでした。盧山館長から「真樹先生にあいさつしろ。昔お世話になったんだろう。」と言っていただき、久しぶりにご挨拶をさせていただきました。真樹先生は私のことをつい昨日のことのように覚えていてくださり、「頑張っているな」と握手をして下さいました。その後は大会の度にご挨拶をすることができ、懇親会等で酒を注がせていただくこともできました。真樹先生は私の昔のことを本当に良く覚えていて、いろいろ懐かしい話を交わすことかできました。「あの頃お前と一緒に稽古した連中はみんな今でも頑張っているぞ」と言われ、高桑先輩をはじめ、中村先輩、前澤先輩など次々と思いだしたものです。70歳になるというのに真樹先生は昔のままで、六本木交差点の信号機より目立っていると言われるとおり、どこにいても存在感のある方のままでした。  真樹先生と最後に会ったのは、昨年の全日本の後の渋谷のパーティーでした。先生に酒を注ぎに行き、いつもの調子でお話をしていただき、盧山館長とともに楽しいひとときを過ごすことができました。また来年も・・・と自然に思っていたものですから、1月2日の館長の電話は驚きました。真樹先生のことだから湿っぽいのは嫌いだと思うので、「男の生き様、死に様」といったところで真樹先生らしいかなあと思うようにしました。
 2月4日に青山で真樹先生を偲ぶ会が催され、私は盧山館長と参列させていただきました。格闘技やマスコミ関係など各界の著名な方々が大勢顔を並べていました。真樹先生や梶原先生の作品に登場していた方々も多数見られ、かつての格闘技ブームがよみがえったような式場となりました。式場に着いたとき、真樹道場の方々が整列して参列者にあいさつをしていましたが、その中に高桑先輩もいました。向こうも私に気づいたようで、私はすぐに駆け寄ってあいさつをしました。先輩は30年前と変わらぬ声で「元気で頑張ってるな」と握手をして下さいました。館長の側を離れるわけには行かない私は、短いあいさつをすませて席に着きました。しかし、その瞬間私は高校時代の生意気で世間知らずで好奇心旺盛な自分に戻ったような気がしたのです。
 式が始まり、弔辞の締めは盧山館長でした。湿っぽい雰囲気の中で、思わず明るく、真樹先生がその場にいるようなその語りに私は唯々涙が流れるばかりでした。千人を超える参列者の献花が延々と続きました。館長と私は最後まで席に着いていましたが、最後の献花は東京都副知事であったかと思います。司会の徳光和夫さんをはじめ、真樹先生の人脈の広さと人望の厚さが感じられる会となりました。帰る際にもう一度真樹道場の方々に挨拶をする機会があり、私はもう一度高桑先輩と話をすることができました。「お前いくつになった。」「オス50です。」「今では盧山館長の右腕になったもんなあ」「いえ、高校時代先輩に鍛えていただいたおかげです。」「何いってんだ。お前天才児だったからなあ。」「いえとんでもない。真樹先生には本当に感謝しています。」といった数十秒のやりとりでしたが、30年以上の時間が一気に埋まったような気がしました。またいつかお会いできることを約束し、式場をあとにしましたが涙が止まりませんでした。
 高校時代の私は、とにかく極真空手に夢中でした。そんな私を真樹先生は面白がってくれていろいろとかまってくれました。福島の同好会が支部になり、盧山師範が指導に来てくれるようになった話にはとても興味を持って下さり、先生のオフィスでその話をしたのですが、それが後に少年ジャンプで連載した「空手いのち」になったのです。たしか第1回に私の石川町が登場し、駅前で車に跳ねられそうになった子どもを盧山師範が跳び蹴りでジャンプして助けるシーンがあり、それを主人公が見て感動し、極真空手をはじめ、やがて地方から出てきて総本部の内弟子になるというお話でした。実際に私も高校卒業後福島から上京し、盧山師範の内弟子となり現在に至っているのですから、私自身マンガのモデルになったようなものですね。現実はそんなカッコイイ出会いではなく、初稽古からぶん殴られていましたが、真樹先生を通して極真空手に憧れたことが現在も続いている原動力になっているのでしょう。
 私はいろいろな人間に影響を受けやすく、感動しやすいたちなのですが、他人に感動や影響を与えるということはとても大切なことであり、責任のあることだと思います。私はことあるごとに「今の若い奴は時代劇と梶原一騎をしらないからだめなのだ」と言っていますが、今の若い世代はわかりやすい感動の物語に接する機会が少ないかも知れません。今は今でよい物語はあるのだと思いますが、私たちは昭和の元気なよい時代に少年時代をおくることができ、本当に運がよかったと思います。ジャイアンツの9連覇、金田の400勝、王貞治のホームラン記録など、皆リアルタイムで見ることができました。札幌オリンピックのジャンプ金メダルやアントニオ猪木の卍固め、沢村忠の真空跳び膝蹴り、そして仮面ライダーにウルトラマン、もちろん空手バカ一代ときりがありません。
 私たちに夢や感動を与えてくれた方々に心から感謝したいと思います。
 真樹日佐夫先生、本当にありがとうごいました。              押忍

《戻る