其の五十四
さらば じゅらくよ
目を閉じて何も見えず〜 哀しくて目を明ければァ〜
荒野に向かう道より〜 他に見えるものはなしィ〜
最近、谷村新司の「昴」の歌い出しが耳にこびりついています。この歌が流行る遙か昔、郡山本局前に「じゅらく」というこだわりのラーメン屋がありました。まさに知る人ぞ知るという名店で、マスコミなどには絶対にでない「偏屈オヤジ」で有名な店でした。
「注文はいろいろたのむと怒る」「子どもが来ると怒る」「タバコを吸うと怒る」などすぐに怒るのです。突然店を休むことはよくあるし、突然「今日はおしまい」といって本日休業の札を出したりといったマイペースぶりでした。そのくせ、野球や相撲が大好きで、客と話すのも大好きなオヤジでしたので、ワガママぶりを差し引いても人気のオヤジでした。特に私の高校の野球部と応援団が好きなようで、応援団だった私はなにかとよくしてもらいました。
初めて私がその店に行ったのは、高校2年の時でした。応援団の団長が、開成山で練習を行った後「じゅらく」にいこうと誘ってくれたのです。いつもは稽古があるので、ほとんど毎日早引けする団員だったのですが、そのときは一緒に行きました。昔の本局前の店でした。今ではたくさんの住宅が密集しているところですが、当時は家もまばらでポツンと「じゅらく」が建っていました。
団長は、「食っても食っても野菜がなくならないんだよ。野菜と肉で腹一杯になったころに麺が見えるんだ。岡崎にはちょうどいいラーメンだよ。」といって「オヤジ、一番!」といって注文してくれました。「一番」とは、店の看板メニューで、正式名称は『にんにく焼肉みそラーメン』といいます。オヤジの達筆な筆字の張り紙が店内にベタベタと貼ってあり、あれがダメ、ごれがダメと注意事項が書いてあります。お冷やはワンカップの空きコップだし、そしてとにかく油くさい店でした。当時はカウンターの他に座敷があり、私は団長や仲間と上がり込んでこの「一番」を食べました。幅広の会津麺に濃いめのスープ(ほぼ真っ黒)、てんこ盛りの肉野菜炒め、そしてブツ切りのにんにくがごろごろといった内容です。スープはたっぷりのため、どんぶりが皿の上に乗った状態で出てきます。その他にライスとお新香がついてきます。そして何よりウマイ!高校生には最高のご馳走でした。ここのオヤジは若い者が大好きで、うるさい割にはいろいろと多めに見てもらいました。座敷で昼寝をしたこともあります。
メニューは『にんにく焼肉みそラーメン』の他に『にんにく焼肉ラーメン』『みそラーメン』『野菜ラーメン』があり、「普通のラーメンなんて無いよ」と切り捨てられてしまいます。昔はもっといろいろいろなメニューがあったと思いますが、メニューが少なくなったのは職人としてのワガママ度が上がったためなのでしょう。
私が高校を卒業してからは、埼玉で内弟子になったりして少し郡山から遠のきましたが、夏の高校野球の時には応援団のOBで参加していましたので、その都度「じゅらく」には行きました。いつしか忽然と店が無くなっており、「オヤジ店を閉めたのか・・・」と思ったものでしたが、実は内環状に移転したと仲間に教えてもらい直ぐさま駆けつけたものでした。
福島に戻ってからも、何かと郡山に行くときには、「じゅらく」に必ず寄ったものです。以前に書いた「東北書店」とセットで郡山のお出かけ定番でしたね。職場が「じゅらく」のすぐ近くになったときがあり、5年間でしたが、かなりの頻度で通いました。オヤジとの短いやりとりで、妙に元気をもらっていたような気がします。「子どもはダメ」といわれた店でしたので、いつか自分の子どもが大きくなったら連れて行こうと思っていました。
それから月日が経ち、東北書店も閉店し、私の郡山行きの楽しみが減ってしまったのですが、それでも近くを通れば「じゅらく」に立ち寄って「オヤジ!焼肉!」とやっていました。東日本大震災が起こってから、またしばらく遠のいていたのですが、8月に入り久しぶりに店に入ったところ、「8月28日で店じまい」と達筆な字で書いてあったのには驚かされました。「ついにこの時がきたか」私はとっさに思いました。オヤジさんは御年80歳という高齢でしたし、以前奥様が体調を崩されたときには、長くは続けられない話をしていたことがあったからです。聞くところによると震災の起こった3月に店じまいをする予定だったのですが、こんな時だからもうひと頑張りしなければという気持ちと続けてほしいという常連客の励ましがあり、何とか夏まで続けたそうです。
私はあと3週間しかないというころにこの事実を知り、愕然としましたが、あと何回この店に来れるかということが頭の中をめぐりました。結局店仕舞いまでにその時を含めて5回いったのですが、毎日がドラマの連続でした。そのうちの1回は息子を連れて行きました。まだ小学校3年生なので出入り禁止なのですが、「息子が大きくなるまで待てないので何とか・・」とお願いしたところ、「先生の息子かい。いいよ!」と快諾してくれました。息子は「一番」や「焼肉」はまだ無理なので、初心者の「みそラーメン」でしたが、おいしいおいしいといって食べてくれました。涙が出そうになりましたが、このオヤジや店を記憶の片隅に残してくれたらと思いました。最後に息子はオヤジと奥様あいさつをし、奥様と握手をしてもらいました。息子は帰りに「お父さんあんなラーメンはじめて食べたよ。おいしかったね。」と言ってくれました。私は、その時「一番」をたのんだのですが、断られてしまいました。「鉄鍋がもちあがんねえんだよ先生!もう一番はやらねえんだ。」と頑固オヤジに言われたら引き下がるしかありません。ところが、そこに郡山の職場でこの店に一緒に通った同僚がやってきて、また「オヤジ一番!」と言いました。オヤジは「もうやってねえ!」ときたんですが、横にいた奥様が「ほら、つくってあげなさいよ。先生も一番でいいですよね。」といってくれました。オヤジは「これが最後だ」とぶつぶつ言いながら「一番」をつくってくれました。奥様ありがとうございます。最後の「一番」は、まさしく奥様の気合いの一品でした。
最終日が近づくにつれて、店は常連客や昔のファンが殺到し、オヤジはくたくたになって働いていました。店が満杯になると「本日休業」の札を出して客をストップしてしまいまが、それでも客は並んでおり、店の中の客が退けると「お客さんいいよっ!」と営業中にもどります。お客は帰るときに皆「オヤジさんありがとうね。」「長い間ご苦労様でした。」「達者でね!」と声をかけて去って行きます。親しい客や丁寧な客は厨房の入口まで足を運び、深々と頭を下げて御礼と感謝の言葉を述べて去っていきました。オヤジは、どの客に対しても「ありがとうよ」と声をかけて、いろいろとその客だけのふれあいを示す言葉をかけていました。すごいなあ、と私はこのオヤジの仕事に対してあらためて感動しました。決してテレビや雑誌に取り上げられるわけではなく、地道に地元の客を大切にし、こだわりのうまいラーメンを作り続け、頑固なようだが客とのふれあいを大切にするこのオヤジの姿に心から尊敬の拍手を送りたいと思いました。オヤジの息子さんは店を継がないので、この味はこれで絶えてしまいますが、息子さんは仕事で成功しており、オヤジさんの老後は安泰なようです。
最終日はおそらく感動的にごった返すと思い、私の最終日は前日の27日(土)としました。長年の経験で混む時間を避けていったつもりでしたが、結構並んでしまいました。また、本日休業の札が出ていましたが客はビクともしませんでした。オヤジの「いいよっ!」の合図で順に店に入り、私は最後の「オヤジ焼肉!」を注文しました。いつものようになみなみとしたスープにメンマと焼肉とにんにくがごってり乗っており、ライスとお新香がセットです。ちょっと雑になっているようですが、オヤジが最後の力を振り絞って鉄鍋をふるって作ったものだと思うと涙が出そうになりました。店の中は同窓会のようなもので、示し合わせたわけではないのに高校の同級生や後輩などがいました。あちこちで「おうっしばらく」などと声が飛び交っていました。結構遠方から駆けつけた人もいるようで、懐かしさと別れを惜しむ言葉が印象に残りました。
私が帰る番になり、私は丁寧に厨房の入口に言って奥様に御礼を述べました。オヤジは忙しそうに鉄鍋をふるってましたので聞こえなそうでしたが、私が店の中を通って帰ろうとするところに「先生!学生の時から長いことありがとうね!」と言ってくれました。「ありがとうございました。オヤジさん。お元気で!」私は短いあいさつで店をあとにしました。店の中からは鉄鍋の音と「一番」「アイヨッ」といったいつもの声が聞こえています。明日はもっと賑やかになるでしょう。
自分が80歳になったときに、このように多くの人に惜しまれて引退できるだろうか。私はこのオヤジの偉大さから多くのことを学びました。人に知られず静かに引退する道も良いとは思いますが、この様に頑固一徹の仕事でたくさんの人々に惜しまれ、心からの感謝の言葉を受けて退くことができることは何よりの花道だと思います。じゅらくのオヤジさん本当にお疲れ様でした。
ここで今更ながら気がついたことがあります。この文章の中でもそうなのですが、「オヤジ」と呼ばれているこのオヤジさんは、一度も名前で呼ばれているのを聞いたことが無く、30年以上通っている私も実はその名前を知らないのです。私自身も「先生」としか呼ばれていません。とうとうお互いの名前を確かめることなく「じゅらく」とお別れしたのですが、かえってそれで良かったのだと思います。長年通った店の「オヤジ」と常連客の「先生」というだけで30年以上が経ってしまったことのほうが、そこに価値があったのではないかと思うのです。
その後店の前を通ってはいませんが、私の中ではいつも混んでいて駐車場のスペースもない、油くさい、頑固オヤジの店「じゅらく」の面影だけが残っています。またこれでひとつ郡山の青春が終わったとでも言うのでしょうか・・・
わ〜れは〜ゆく〜 蒼白き 頬のままで〜
わ〜れは〜ゆく〜 さらば〜 じゅ ら く よ〜〜〜
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