其の五十六
Z旗を掲げよ

 平成23年もあと僅かとなり、歴史に残る大災害は多くの人の心に深い傷跡をのこしたまま年が暮れていきます。北朝鮮では将軍様が死去し、東アジア情勢が不安定となる中、それでも紅白歌合戦が盛大に実施され、しかも竹島問題でもめている韓国のスターが出るといって視聴率稼ぎにはしる国営放送局があり、いったいこの国は大丈夫なのでしょうか。
 「坂の上の雲」というドラマが昨日最終回を終了し、これもまた視聴率が今ひとつなどと書かれていましたが、私はそんなとはどうでもよく、日本が近代国家に仲間入りするために努力した明治という国家を今の人たちに知ってもらう大変良い番組だと思いました。私は戦争を絶対に否定しますが、この時代は帝国主義の時代でしたので、好むと好まざるに関わらず相手がやってくる以上避けて通ることはできなかったのだと思います。司馬遼太郎さんの原作はもっと多岐にわたる内容で、テレビは多少ドラマ化している部分もありますが、良い役者がそれぞれに良い仕事をしていたと思います。私は10年数年前に日露戦争にはまったことがあり、それに関わった人たちについていろいろと勉強したことがあります。「坂の上の雲」を読んだことがきっかけではあったのですが、一つ一つのできごとを史実とともに検証することが個人的な趣味ですので、いろいろと勉強になりました。ロシアの南下は江戸時代から分かっていたことで、日本としては後がない「背水の陣」といえる外交問題だったのです。しかし、日本の国民は、良し悪しは別としてそれぞれが良い仕事をして江戸幕府を倒し、明治という国家を作り上げたのです。特に大久保利通の明治初期の政治など鬼神のごとき仕事でした。また、欧米に留学した青年達はかつての遣唐使の如く、国家の明暗を左右するべくその責任を負い、しかも短期間で学業の成就を義務づけられていました。一般の国民もまた、幕藩体制から「日本」という統一国家に変貌した社会に速やかに順応し、けなげな納税者として国に尽くしていくのです。指導者も国民も勤勉で可愛らしく、前を向いて、ひとつの坂道を上っていったのでしょう。
 私は非戦論者ですので、戦争については論じませんが、今の日本はどうにもいけない状態が続いていると思われます。与党も野党も何をやっているかすっきりしない。一番悪いのは実は国民で、皆自分のことしか考えなくなっているのではないのでしょうか。批判をする、足を引っ張るといったことが先に出て、仕事をしましょうと言うことがあとまわしになり、政治家もそれをいいことに国民の税金を無駄に使って話をうやむやにしているのです。それでもこの国がそれなりに回っているのは、実は批判される官僚がしっかりと国を牛耳っているからなのかも知れません。総理大臣や閣僚がこれだけころころと変わって国が平和なのは、特に地方の役人がまじめに地元密着で頑張っているからなのでしょう。しかし、世の中が不景気になると必ず公務員の給料はやり玉に挙げられて、あれこれカットされてどんどん安くなってしまいます。世間のストレスをそこに向けるのは分かりますが、有能な人材が公務員から離れてしまうことには気づかないのでしょうか。せっかく田中角栄さんが公務員の人材確保のためにとった政策がことごとく崩されてしまっています。私の知っている同業者も仕事のできる奴ほど何人かやめて会社を作ったりしています。金のためにやっているわけではない仕事であっても、あまりに割に合わなければ、やってられないと思って当然でしょう。かつてバブルのころなど羽振りの良かった私の友人が、最近仕事がないらしく、飲み屋で私に絡んできたことがありました。公務員が安定した給料をもらって云々というおきまりの絡みです。他人の給料をうらやむほどみっともないことはないと思いますが、さらによくある話が「医者は金が儲かっていいよなあ」です。だったらあなたも医者になってみろよ。医者になるためにあなたたちが遊んでいる時間に彼らはどれだけ勉強して、なってからも休みもなく働いて、しかも失敗は絶対に許されない。それだけの努力と責任のある仕事をしているのにそれなりの金を稼いでどこが悪いのかと思います。まあ中にはあまり立派でない方もいますが・・。確かに世の中には悪いことをして大金を稼ぐ奴もいますが、努力と責任の代価として稼ぐことについては当然のことだと思うのです。そう言いながら宝くじが当たってほしいと思っている小市民的な自分もありだと思うのですが・・・
 と言っているうちに年が明けてしまいました。新年あけましておめでとうございます。
 本題に入ります。「Z旗」とは、船における信号旗のことで、アルファベットごとに旗があり、その上げ方でいろいろな意味を示すのですが、「Z」とはアルファベットの最後の文字を表すため、「後がない」いわゆる「背水の陣」を表し、必勝を祈願する意味として使われています。明治38年5月27日、日露戦争において日本の連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ際に「Z旗を掲げよ」として旗艦三笠にこれを掲げ、「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」と全艦に決死の覚悟を示したといわれています。これらはすべて参謀秋山真之の起草したもので、連合艦隊司令長官の東郷平八郎がこれを採用したものです。日本の連合艦隊は、ロシア艦隊の全滅のみを目標とし、秋山が練りに練った戦法でこれを達成したのでした。すべてをまかされた秋山の能力と、全幅の信頼を持ってそれを支えた東郷の人格、そして連合艦隊各個の団結力によってそれを成し遂げたと言っても過言ではありません。バルチック艦隊に遭遇した際の「天気晴朗なれど波高し」という秋山の名電文はドラマの中でも繰り返し出てきました。この戦争は日露両国とも多くの犠牲者を出しましたが、明治という日本が培ってきたたくさんの才能が花開いたできごとだったと思います。ちなみに昨年11月4日の海上自衛隊の日米共同演習の際、沖縄県南東海域においてイージス艦「ちょうかい」にこの「Z旗」が掲げられたようです。
 さて、自分のことですが、年末はもうただただ忙しく、仕事をこなすことが精一杯で、稽古はやっとという状態でした。いろいろなことがあった年でしたので、何か記念になるような年末になるかと思ったのですが、そんなかっこいいものは何もなくまさに背水の陣という意味での「Z旗を掲げよ」となってしまいました。ちょっと勉強することがあり、師走に入ってからは朝4時半起床という日も続きました。ただベンチプレスも合間を縫って何とか予定の月8回を達成しました。とりあえず160kgは毎回挙がっています。まぐれではなくなりました。12月26日は最終日でしたので、なんとかジムに行き、今年最後の165kgも成功しました。この日はあいさつをしてさっさと引き上げる予定でしたが、帰り際にコーチが私を呼び止めました。そして何と私のベンチの記録をずっとつけていてくれて、それを私に見せてくれたのです。補助をしてもらえるだけでありがたがったのに、感激してしまいました。「だれも見てくれない、だれも認めてくれない」しかし自分に対する意地だけで続けてきたことなのですが、それを記録してくれた人がいたというだけで百万の仲間を得たような気がしました。その用紙は記念にいただきました。ただ最後に「来年の目標180kg」と書いてあったのが気になりましたが・・・
 大晦日は恒例の除夜の鐘ならぬ除夜の居合と砂袋千本です。それが終わって年越しそばです。元日は新年のあいさつと初詣を済ませ、砂袋の修理でした。新しい袋をはり替えて、「平成24年1月1日」と書きました。何日で穴を開けるか去年の自分と競争です。
 新年にひとつ良いことがありました。以前書いた「じゅらく」のオヤジさんからなんと年賀状が来たのです。私は30年以上この店に通い、それまで一度も互いに名のらなかったので、「オヤジ」「先生」というだけのやりとりでした。最後の日にあいさつをして名刺をおいてきたのですが、それを見て書いてくれたのでしょう。そこには「45年間ありがとうございました」といつもの筆字で書いてありました。何かまた元気をもらうことができました。ちなみに、ついに知らなかったオヤジさんの名前が「若穂囲ひでおさん」ということがわかりました。またいつかお会いしたいですね。
 いろいろな意味で「Z旗」を掲げ、頑張って良い年にしようと思っています。

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其の五十五
人間五十年

 人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり
           ひとたび生を得て 滅せぬ者の有るべきか

  これは織田信長が好んで舞った「敦盛」のうたい文句です。太田牛一の「信長公記」によれば、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の信長は、まず「敦盛」のこの一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したと記されています。

『此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて卸出陣なさる。』【信長公記】

 この項を書こうと思ったきっかけは、今年の4月、私もついに50歳の峠を越えてしまったからなのですが、震災があったり、「じゅらく」が閉店したりと書くタイミングを失っておりました。そうなると書くきっかけを作らないと書けないと思い、ベンチプレスで160Lという重さを挙げたら書こうと決めたのでした。昨年の10月に交通事故のあと一度だけ奇跡的に挙げることができたのですが、その後なかなか二度目を挙げることができずにいました。全体的に昨年より力はついてきていたのですが、160Lという重さだけは相変わらず私にとって厚い壁になっていたのです。何度か「あれはまぐれだったのか」とも思いましたが、きっと自分に足りない何かがあったのでしょう。私は必ず月に8回ベンチプレスを行うようにしています。約25年続けているノルマでもあります。これをやったら空手が強くなるなどと考えているわけではありません。座禅と同じように自問自答の手段として続けているだけなのですが、数字として結果をごまかせないのが修行の厳しいところなのでしょう。
 最近、仕事で苦しいことがあって、ある讒言だけが聞き入れられ、私には何の弁解も説明の機会も与えられず「お前が悪い」とされてしまうことがありました。私に非があることならどんな叱責も我慢しますが、まったくの誤解であったり、妬み嫉みから出たことでしたので、無念きわまりないことでした。
 そんな私を奮い立たせてくれたのは、やはり三峯でした。全日本のあと、三峯合宿に参加し、仲間と一緒に稽古をして、風呂に入ってうまい酒を飲んで、山を走り、滝浴びをし、紅葉の谷を歩いていると世俗の細かいことがアホらしくなってきたのです。遠くにそびえる雲取山は昔裸足で登ったときのままです。あのときの苦しみを思ったら、くだらない策謀など吹っ飛んでしまいました。それともう一つありました。勝海舟です。わたしの尊敬するこの方は、何度も罷免され、謹慎させられながらもじっと耐え続け、結局長州征伐や江戸無血開城などの大仕事はすべて一人でやってしまったのです。私はそこまでの大物ではありませんが、少し前に子母沢寛の本を読んだことを思い出し、何か吹っ切れたような気持ちになれたのです。自然や書物に助けてもらいました。人間とは調子のいいもので、そうなったら急に力が出てきたようです。11月25日金曜日、午後8時45分、1年1ヶ月ぶりに160Lが挙がったのでした。またコーチと二人だけで「挙がった挙がった」と拍手しました。さらに11月28日月曜日、同じく午後8時45分にまたまた160Lが挙がったのでした。またまたコーチと二人だけで「挙がった挙がった」と拍手しました。だれもいないジムの中で二人だけで「だからなんなの」というできごとですが、7年も通ってやっと5Lの記録が伸びたこの苦労と喜びはだれにもわからないものなのです。コーチはさっそく「次は165L狙いましょう」とけしかけてきます。これはこれでもうひと頑張りしてみることにしました。
 さてさて前置きが大変長くなりましたが、これで本題に入ることができました。
 人間五十年ということで、敦盛にあるように夢幻の如く歳月が流れたように思います。三十を少し過ぎたころは、龍馬や幕末の志士たちの生き様などが身近に感じたものですが、五十という歳になると、「今まで何年生きた」ということより「あと何年生きられるか」ということを先ず考えるようになりました。たとえば70歳までベンチプレスができるとして1ヶ月に8回やるとして、あと20年で1920回しかできないのです。  「自分が何歳まで生きられるか」と考えると夜も眠れなくなってしまう方もいると思いますが、「いったい何歳まで稽古できるだろうか」と考えるとあれこれと私も悩んでしまいます。いろいろと新しいこともやってみたいと思いますが、今までの膨大な内容も一つ一つ完成させたいし、やらずに終わったら後悔するだろうし、病気でもしたらそれこそ稽古どころ無くなってしまうのですから。そうするととにかく「時間がない」「時間がもったいない」「今しかない」という毎日になってしまうのです。
今はこれまで稽古してきた技術や鍛錬を1つずつ確認しながら稽古をしています。その中で毎日やらなければならないことはとにかく毎日やるようにしています。最終的に何を自分の体に残すべきか日々悩んでいる状態です。私の先生がそうであったように、だんだんに切り捨てるものは切り捨てていななければならないと思っています。しかし、切り捨てるものはだれかに伝えておかなければなりませんので、「伝える」という作業がこれまた結構大変なことなのです。どのような技術も「失伝」ということがあってはならないのですから。「伝える」といってもだれにでも教えてよいものだけではありませんので、人を選ばなければなりません。またその人が次の世代に伝える能力があるかどうかも判断の基準になります。自分が習うときはただ一生懸命なだけでしたが、最近は「教える」「伝える」ということは「学ぶ」ことよりずっと大変なことがわかりました。同じ先生に同じように学んでも、それを理解し、身につける感性や能力によってどんどんずれが出てくるものです。特に自分に責任がなければやりやすいように変えていくこともできるのでしょうが、継承の責任を持つ立場になるとそうもいきません。何百年も続いてきた技術を自分程度の能力の者が勝手に変えることなど絶対にできないのです。
 難しい話はこれくらいにして、いよいよ師走となりました。今朝は少し雪が降っていました。朝の5時は真っ暗で、寒いのなんのって・・・・。寒い寒い外でストーブのタンクに灯油を入れて、それから稽古です。やっと汗が出てきて6時半、シャワーを浴びて朝飯食べて出勤!今夜は永田でベンチプレス、明日は宮城で稽古と審査、終わったら石川で稽古と審査、明後日は息子のバレエの発表会で駐車場係、そしてまた月曜日から5時起きの生活が始まります。真っ暗な空を眺め、白い息を吐いて、小学校6年から続いている朝練を始めます。一番わかりやすい「自分との戦い」ってやつですかね。40年前の朝も暗かったよなあ・・・・

追記・・・結局この日(12月9日(金))は永田のジムで午後8時40分に160L成功し、 コーチの一声で165Lに挑戦。そしたら何とすんなり挙がりました。「まだまだい けますね」と2人寂しく拍手で喜びました。

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其の五十四
さらば じゅらくよ
目を閉じて何も見えず〜 哀しくて目を明ければァ〜
   荒野に向かう道より〜 他に見えるものはなしィ〜
 最近、谷村新司の「昴」の歌い出しが耳にこびりついています。この歌が流行る遙か昔、郡山本局前に「じゅらく」というこだわりのラーメン屋がありました。まさに知る人ぞ知るという名店で、マスコミなどには絶対にでない「偏屈オヤジ」で有名な店でした。
「注文はいろいろたのむと怒る」「子どもが来ると怒る」「タバコを吸うと怒る」などすぐに怒るのです。突然店を休むことはよくあるし、突然「今日はおしまい」といって本日休業の札を出したりといったマイペースぶりでした。そのくせ、野球や相撲が大好きで、客と話すのも大好きなオヤジでしたので、ワガママぶりを差し引いても人気のオヤジでした。特に私の高校の野球部と応援団が好きなようで、応援団だった私はなにかとよくしてもらいました。
初めて私がその店に行ったのは、高校2年の時でした。応援団の団長が、開成山で練習を行った後「じゅらく」にいこうと誘ってくれたのです。いつもは稽古があるので、ほとんど毎日早引けする団員だったのですが、そのときは一緒に行きました。昔の本局前の店でした。今ではたくさんの住宅が密集しているところですが、当時は家もまばらでポツンと「じゅらく」が建っていました。
団長は、「食っても食っても野菜がなくならないんだよ。野菜と肉で腹一杯になったころに麺が見えるんだ。岡崎にはちょうどいいラーメンだよ。」といって「オヤジ、一番!」といって注文してくれました。「一番」とは、店の看板メニューで、正式名称は『にんにく焼肉みそラーメン』といいます。オヤジの達筆な筆字の張り紙が店内にベタベタと貼ってあり、あれがダメ、ごれがダメと注意事項が書いてあります。お冷やはワンカップの空きコップだし、そしてとにかく油くさい店でした。当時はカウンターの他に座敷があり、私は団長や仲間と上がり込んでこの「一番」を食べました。幅広の会津麺に濃いめのスープ(ほぼ真っ黒)、てんこ盛りの肉野菜炒め、そしてブツ切りのにんにくがごろごろといった内容です。スープはたっぷりのため、どんぶりが皿の上に乗った状態で出てきます。その他にライスとお新香がついてきます。そして何よりウマイ!高校生には最高のご馳走でした。ここのオヤジは若い者が大好きで、うるさい割にはいろいろと多めに見てもらいました。座敷で昼寝をしたこともあります。
 メニューは『にんにく焼肉みそラーメン』の他に『にんにく焼肉ラーメン』『みそラーメン』『野菜ラーメン』があり、「普通のラーメンなんて無いよ」と切り捨てられてしまいます。昔はもっといろいろいろなメニューがあったと思いますが、メニューが少なくなったのは職人としてのワガママ度が上がったためなのでしょう。
 私が高校を卒業してからは、埼玉で内弟子になったりして少し郡山から遠のきましたが、夏の高校野球の時には応援団のOBで参加していましたので、その都度「じゅらく」には行きました。いつしか忽然と店が無くなっており、「オヤジ店を閉めたのか・・・」と思ったものでしたが、実は内環状に移転したと仲間に教えてもらい直ぐさま駆けつけたものでした。
 福島に戻ってからも、何かと郡山に行くときには、「じゅらく」に必ず寄ったものです。以前に書いた「東北書店」とセットで郡山のお出かけ定番でしたね。職場が「じゅらく」のすぐ近くになったときがあり、5年間でしたが、かなりの頻度で通いました。オヤジとの短いやりとりで、妙に元気をもらっていたような気がします。「子どもはダメ」といわれた店でしたので、いつか自分の子どもが大きくなったら連れて行こうと思っていました。
 それから月日が経ち、東北書店も閉店し、私の郡山行きの楽しみが減ってしまったのですが、それでも近くを通れば「じゅらく」に立ち寄って「オヤジ!焼肉!」とやっていました。東日本大震災が起こってから、またしばらく遠のいていたのですが、8月に入り久しぶりに店に入ったところ、「8月28日で店じまい」と達筆な字で書いてあったのには驚かされました。「ついにこの時がきたか」私はとっさに思いました。オヤジさんは御年80歳という高齢でしたし、以前奥様が体調を崩されたときには、長くは続けられない話をしていたことがあったからです。聞くところによると震災の起こった3月に店じまいをする予定だったのですが、こんな時だからもうひと頑張りしなければという気持ちと続けてほしいという常連客の励ましがあり、何とか夏まで続けたそうです。
 私はあと3週間しかないというころにこの事実を知り、愕然としましたが、あと何回この店に来れるかということが頭の中をめぐりました。結局店仕舞いまでにその時を含めて5回いったのですが、毎日がドラマの連続でした。そのうちの1回は息子を連れて行きました。まだ小学校3年生なので出入り禁止なのですが、「息子が大きくなるまで待てないので何とか・・」とお願いしたところ、「先生の息子かい。いいよ!」と快諾してくれました。息子は「一番」や「焼肉」はまだ無理なので、初心者の「みそラーメン」でしたが、おいしいおいしいといって食べてくれました。涙が出そうになりましたが、このオヤジや店を記憶の片隅に残してくれたらと思いました。最後に息子はオヤジと奥様あいさつをし、奥様と握手をしてもらいました。息子は帰りに「お父さんあんなラーメンはじめて食べたよ。おいしかったね。」と言ってくれました。私は、その時「一番」をたのんだのですが、断られてしまいました。「鉄鍋がもちあがんねえんだよ先生!もう一番はやらねえんだ。」と頑固オヤジに言われたら引き下がるしかありません。ところが、そこに郡山の職場でこの店に一緒に通った同僚がやってきて、また「オヤジ一番!」と言いました。オヤジは「もうやってねえ!」ときたんですが、横にいた奥様が「ほら、つくってあげなさいよ。先生も一番でいいですよね。」といってくれました。オヤジは「これが最後だ」とぶつぶつ言いながら「一番」をつくってくれました。奥様ありがとうございます。最後の「一番」は、まさしく奥様の気合いの一品でした。
 最終日が近づくにつれて、店は常連客や昔のファンが殺到し、オヤジはくたくたになって働いていました。店が満杯になると「本日休業」の札を出して客をストップしてしまいまが、それでも客は並んでおり、店の中の客が退けると「お客さんいいよっ!」と営業中にもどります。お客は帰るときに皆「オヤジさんありがとうね。」「長い間ご苦労様でした。」「達者でね!」と声をかけて去って行きます。親しい客や丁寧な客は厨房の入口まで足を運び、深々と頭を下げて御礼と感謝の言葉を述べて去っていきました。オヤジは、どの客に対しても「ありがとうよ」と声をかけて、いろいろとその客だけのふれあいを示す言葉をかけていました。すごいなあ、と私はこのオヤジの仕事に対してあらためて感動しました。決してテレビや雑誌に取り上げられるわけではなく、地道に地元の客を大切にし、こだわりのうまいラーメンを作り続け、頑固なようだが客とのふれあいを大切にするこのオヤジの姿に心から尊敬の拍手を送りたいと思いました。オヤジの息子さんは店を継がないので、この味はこれで絶えてしまいますが、息子さんは仕事で成功しており、オヤジさんの老後は安泰なようです。
 最終日はおそらく感動的にごった返すと思い、私の最終日は前日の27日(土)としました。長年の経験で混む時間を避けていったつもりでしたが、結構並んでしまいました。また、本日休業の札が出ていましたが客はビクともしませんでした。オヤジの「いいよっ!」の合図で順に店に入り、私は最後の「オヤジ焼肉!」を注文しました。いつものようになみなみとしたスープにメンマと焼肉とにんにくがごってり乗っており、ライスとお新香がセットです。ちょっと雑になっているようですが、オヤジが最後の力を振り絞って鉄鍋をふるって作ったものだと思うと涙が出そうになりました。店の中は同窓会のようなもので、示し合わせたわけではないのに高校の同級生や後輩などがいました。あちこちで「おうっしばらく」などと声が飛び交っていました。結構遠方から駆けつけた人もいるようで、懐かしさと別れを惜しむ言葉が印象に残りました。
 私が帰る番になり、私は丁寧に厨房の入口に言って奥様に御礼を述べました。オヤジは忙しそうに鉄鍋をふるってましたので聞こえなそうでしたが、私が店の中を通って帰ろうとするところに「先生!学生の時から長いことありがとうね!」と言ってくれました。「ありがとうございました。オヤジさん。お元気で!」私は短いあいさつで店をあとにしました。店の中からは鉄鍋の音と「一番」「アイヨッ」といったいつもの声が聞こえています。明日はもっと賑やかになるでしょう。
 自分が80歳になったときに、このように多くの人に惜しまれて引退できるだろうか。私はこのオヤジの偉大さから多くのことを学びました。人に知られず静かに引退する道も良いとは思いますが、この様に頑固一徹の仕事でたくさんの人々に惜しまれ、心からの感謝の言葉を受けて退くことができることは何よりの花道だと思います。じゅらくのオヤジさん本当にお疲れ様でした。
 ここで今更ながら気がついたことがあります。この文章の中でもそうなのですが、「オヤジ」と呼ばれているこのオヤジさんは、一度も名前で呼ばれているのを聞いたことが無く、30年以上通っている私も実はその名前を知らないのです。私自身も「先生」としか呼ばれていません。とうとうお互いの名前を確かめることなく「じゅらく」とお別れしたのですが、かえってそれで良かったのだと思います。長年通った店の「オヤジ」と常連客の「先生」というだけで30年以上が経ってしまったことのほうが、そこに価値があったのではないかと思うのです。
 その後店の前を通ってはいませんが、私の中ではいつも混んでいて駐車場のスペースもない、油くさい、頑固オヤジの店「じゅらく」の面影だけが残っています。またこれでひとつ郡山の青春が終わったとでも言うのでしょうか・・・

 わ〜れは〜ゆく〜 蒼白き 頬のままで〜
 わ〜れは〜ゆく〜  さらば〜 じゅ ら く よ〜〜〜

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