其の五十
九死に一生
10月18日の水曜日、朝の5時50分のことでした。娘を5時55分発の水郡線に乗せるために石川駅まで車で向かう途中でした。この日は、いつものように5時に起床し、いつものように山を歩いて補強をやっていったん家に戻り、娘を乗せて駅に向かったのです。いつもは赤で停まる交差点が青だったので、「ラッキー」と小市民的な喜びとともに交差点に入りました。その時、右方向から大きなトラックが、ノンストップで飛び込んできました。ギョッとした私は、とっさにブレーキを踏みましたが、小雨の道路は無情にもスリップし、そのままトラックの横っ腹につっこみました。私の車は前方が大破し、そのまま車は約10メートルほど左方向に吹っ飛んでしまいました。
ボンネットがメキメキとめくれ上がる様やトラックの横腹が目に焼き付いています。瞬間的に側頭部をぶつけたようで、頭がしびれて思考が停止してしまいました。トラックの運転手が「大丈夫ですか」ときましたが、「そっち赤だったよな」とひとつだけ確認しました。後の座席の娘の状態が先ず心配でした。同じく頭を打ったようでしたが、とりあえず命は無事そうで安心しました。次に娘の学校や仕事のことで考えることが精一杯になりましたが、妻と警察と上司にまず電話をし、胴体や足の動きを確認してからゆっくりと車を降りて外から自分の車を見たときには愕然としました。「俺はもしかしたら死んでいたかも知れない・・・。」昔、『天国から来たチャンピオン』という映画がありましたが、そのシーンが頭をよぎりました。その後警察や、妻や上司が駆けつけ、巷でよく見かける事故処理の様子が展開されるのでした。
先日谷啓さんが亡くなりました。「ガチョ〜ン」がもう見れないと思うと寂しくなります。転んで頭を打ったと言うことですが、人が死ぬということは、実はあっけないものなのかも知れません。「死ぬ」ということを自覚して、最後に自分の意志を発揮して死ねる場合もありますが、自分が死んだことも気がつかない場合も多いことでしょう。また、ここで死ぬわけには行かないという無念の死もあると思います。私も空手の親しい友人を2人交通事故で亡くしています。どちらも盧山道場の苦しい稽古に耐えた兄弟分であっただけに、本当に辛く悲しいできごとでした。2人とも無念の死であったと思います。
「死ぬ」という作業は人間にとって最も重要な仕事であると思います。「生きる」ということも大変なことですが、「死ぬ」ということは一度しかできませんし、それによってすべて無くなってしまうのですから失敗は許されません。「とりあえずいったん死んでみて」とか「死んで相手の驚く顔や困った顔を見てみたい」などということは絶対にできないことなのです。幕末のお話で、高杉晋作のところにある浪士がやってきて、仲間に加えてほしいというのですが、高杉は長州人以外はだめだと言って断ったのです。するとその浪士は「自分は度胸がないと言うのか」と憤慨して「では度胸のあるところを見せてやる」といってそのまま土間で腹を切って死んでしまったというのです。ばかげたような本当の話だそうです。確かに度胸を見せることは出来ましたが、死んでしまったらそのあとがないではありませんか。これは極端な例かもしれませんが、今時の若者たちの間で増えている衝動的な自殺についても同様に考えられるかもしれません。
人の生き死について、私は偉そうなことは何一つ言えませんが、先日の事故によっていろいろと考える機会ができました。梶原一騎は「男と生まれたら、たとえドブの中で死んでも前のめりに死にたいものだ」と何かの本に書いていましたが、当時小学生だった私はただかっこいい言葉として心に留めたものです。坂本竜馬も小説の中で「牛裂きの刑に逢うて死するも、逆磔に合うも、また席上にて楽しく死するも、その死に於いては異なることなし。されば英大なることを思い起こすべし」と言っています。しかし彼は明治という新しい時代を見ずに暗殺によって命を落としています。戊辰戦争で勝者となった西郷隆盛は西南戦争で自害し、独裁的に日本の国家基礎を築いた大久保利通も紀尾井坂で刺客によって殺されています。その後の明治の大黒柱となった伊藤博文はハルビン駅で安重根によって暗殺されてしまいました。高杉晋作や木戸孝允は病によって志半ばでこの世を去りました。時代を築いた英雄たちは、皆望まぬ死を遂げているのに対し、幕末敗者となった徳川慶喜や勝海舟は長寿を全うしました。山岡鉄舟は、臨終に際して床から身を起こし結跏趺坐のまま絶命したと言われています。その他歴史に名を残したものだけではなく、戦争や災害などであっという間にたくさんの命が失われています。人はいつか必ず死ぬものです。これだけは決して避けることはできません。そして誰もがそれを望んではいないはずです。
司馬さんの何かの小説の中に、「天は人それぞれに使命を与えてこの世に生を与え、それが終われば容赦なく天に召し上げる」というようなことを書いていました。私は今回の事故で命拾いをしたと思っています。天がまだ私にこの世でなすべき仕事をさせてくれるのだと素直に感謝しました。そう思ったら体のあちこちが痛いの何のと言っていられません。できることをしなければと思いました。私は、事故の次の日も山を歩いて砂袋を叩きました。「あと何回この山を歩くことができるのだろうか。あと何回この砂袋を叩けるのだろうか。」そう考えると1分1秒を無駄にできないと思いました。次の日にはウエイトのジムにも行きました。さすがに首や腰が痛くていつもの重量はできませんでしたが、何とかメニューをこなしました。そのまた次の日は錬成大会でしたので、埼玉に行き盧山館長、廣重副館長に事故の報告をしました。館長からは「拾った命をまた一から鍛え直せ」とおっしゃっていただき、副館長からは「普通だったら死んでしまう事故で無事だったんだからお前は運がいいんだよ。」とおっしゃっていただきました。どちらも自分にとって心に残ることばでした。帰り道、私は単純に生きていることに感謝しようと思い、一から鍛え直そうと心に決めるつもりだったのですが、後頭部から肩にかけて激痛がよみがえり、運転が辛くなって上河内サービスエリアで車を止めてうずくまる始末でした。「生きていることはよいのだが、この痛みは余計だよ!」
事故から5日目の夜、私はまたジムに行きました。いつまでも事故を言い訳にしたくないと思い、気を奮い立たせてバーベルに向かいました。まずはベンチプレスで60kgを10回、100kgを8回、130kgを1回いつも通りに挙げたとき、コーチがこれがうまいんだなあ。
いつもは140kgを3回やるのですが、「いっきに150kgいきましょう」となったのです。私はいわれるまま150kgを1回挙げると、「今日はぶれがない。イイッすね。次いきましょう。」となり、155kgを1回挙げました。「今日はいけそうですね。」というコーチの言葉にわたしは迷いなく「いきますか。」といってプレートを160kgにセットしました。そして呼吸を整えてエイヤッ!とバーベルを握りました。するとなんとしたことかスーッと挙がってしまったのです。私はコーチと目を合わせ「あがりましたよね」と思わず尋ねました。「あがった。あがった。」とコーチと一緒に拍手をしました。10月18日月曜日、午後8時のことでした。しかしそんなときにかぎってジムにはコーチと私しかいませんでした。私は、今度はギャラリーのいるときにまた挙げようと不純な目標を持ったのでした。
160kgという重さは、もっと挙げる人から見ればたいした重量ではないかも知れませんが、私にとっては7年越しの壁だったのです。私のウエイトトレーニングは、かじる程度のころはさておき、きちんと行うようになったのは内弟子5年目の時でした。最後の1年ということで、定期的にバーベルで鍛えようと思ったのです。ただし内弟子が行っていた中村先生の指導されるバーベル鍛錬は別物ですのでここでは触れません。ベンチプレスに限って言えば、この1年間で100kgを2回挙げられるようになりました。その後福島に帰ってから地元のジムに通い、更に2年後に120kgまで挙がるようになりました。その後パワーリフティングに出るようになって県大会で入賞するようにもなりましたが、なかなかベンチが伸びずに悩みました。理由は簡単で、腕を骨折したり、酷使しすぎるのでオーバーワークになっているだけなのですが、空手や居合が本業なのでこちらの手を抜くわけにはいかなかったのです。それでも10年ほど前に150kgを突破し、郡山市で優勝したこともありましたが、155kgで記録がピッタリと止まってしまったのです。肩鎖関節の亜脱臼が原因で右肩がまったくダメな時期が続いたのでした。それでもトレーニングは続けましたが、30kgのバーベルからやり直したものです。その後7年前から今のジムに通うようになり、週1〜2回ですが何とか仕事を切り上げてトレーニングを続けました。予定通りに進まず調子がよくなったり悪くなったりの繰り返しでした。45歳までに160kgを突破しようと目標を立てましたが、達成できずに誕生日を迎えてしまいました。今度は四十九の厄払いまでと頑張りましたがあと一歩で挙がりませんでした。私はコーチに50歳までには挙げないともう挙がらなくなってしまうのではないかと相談し、今年の夏からレップスの組み立てを替えることにしました。そうしたところ少しずつ挙がるようになってきました。140kgを3回、145kgを3回とじわじわ挙がり始めました。10月中に160kgを達成しようと目標を定めました(11月以降は大会やら飲み会やらで練習が不規則になって調子が落ちるので)。10月に入ってからは何度か160kgに挑戦しましたがすべて失敗しました。「絶対に挙がるはずだ。気持ちで負けている。」とコーチに叱咤されましたが、7年間挙がらなかったものはそう簡単にいきませんでした。そこで今度の事故です。やっぱりだめかと思いましたが、生きていることに感謝するという気持ちが力を与えてくれたのでしょうか。大げさな言い方をすると、バーベルが挙がるときに自分が挙げていると言うよりもだれかが引き上げてくれているような気さえしたのですから。とにかく私にとって厚い壁をひとつ打ち破ることができたのです。
今回は、まさに「九死に一生」というできごとでした。しかし、「生きていることに素直に感謝をする。」ということを実感するよい機会になったと思っています。ぐだぐだと愚痴をこぼしたり、他人を避難して悦に至るようなくすんだ生き方をするのではなく、ただもう「歩ける」「空手ができる」「家族と過ごせる」それだけで幸せと思って頑張ろうと思いました。しかし、1つ壁を越えるとまた次があるもので、さっそくコーチは「今度は150kgを3回やりましょう。」と言ってきました。せっかく拾った命ですから、もうひと頑張りしてみようと思いました。
結局のところ、皆さん交通事故だけは気をつけましょう。加害者にも被害者にもならないようにしましょう。笑点の松崎真さんの「手をあげて、横断歩道を渡りましょう」を思い出せ!
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