其の五十三
殿 -しんがり-
 平成23年3月11日金曜日、午後2時46分に戦後最大規模の大地震が東北地方の太平洋岸で発生しました。M9.0数値に日本全国が戦慄したことでしょう。さらに津波の恐怖と、原発の事故と福島県は三重苦の災害となり、被災された方々の悲しみと苦悩ははかりしれません。心よりお見舞い申し上げます。
私の住んでいる石川町は、奇跡的に被害が少なく、死傷者もありませんでした。ちょうど中学校の卒業式を終え、私は午後に外出休暇をとって歯医者に行っているときでした。待合室にいた時に突然の大きな揺れがおこり、棚のテレビが床に落ちました。皆駐車場に避難しましたが、なかなか揺れがおさまらず、とりあえずおさまるまではここにいましょうと確認し、皆を落ち着かせました。この瞬間から電話が通じなくなり、家族や学校の状況はわからなくなりました。幸い歯医者が自宅の近くだったので、急いで家に行き、両親の無事を確認し、次に同じ町内の妻の実家に行きその無事を確認しました。妻と子どもたちは外出しており連絡が取れませんでしたが、私は急いで学校へ行きました。生徒がいない状態だったのが唯一の救いでした。体育館など1部の損壊で、被害は少なくてすみましたし、職員も全員避難して無事でした。その後、私の妻や子どもも無事が確認され、とりあえず一安心でした。
しかし、その後はいってくる情報は、想像を絶するものでした。まるで映画を見るような津波の場面や原子力発電所の問題発生と、単なる地震の被害だけでなく、二次的な災害の発生により、その被害は想像を絶するものとなってしまったのです。津波の被害による避難に加えて、放射能被害による避難が発生し、周辺の市町村はその受け入れのためにその対応に追われ、自分の被害や家族は後廻しで、昼夜なくその現場に詰めなければなりません。電話が一切通じない中で、二転三転する情報を元に、受け入れ側は24時間体制で準備に追われました。公務員の「全体の奉仕者」という私(わたくし)を捨てた姿を問われる瞬間だったと思います。
その後の詳細については触れないようにしますが、この様な緊急事態の時には、不思議とその人間のハラが見えるようで、所謂肝っ玉の据わり具合と、覚悟というものが日頃の姿と大きく違ってくることがわかりました。その違いは決してその人の価値を損ねるものではありませんが、日頃正論を声高に語っているものがうろたえるだけで何もできなかったり、一見してひ弱そうな女性が率先して現場で黙々と働き廻ったりとその姿は様々でした。私は、避難所に避難してくる人たちの苦しみだけでなく、不眠不休で対応している役場の職員の姿に心を打たれました。彼らは単に上司の命令で動いているのではなく、自分の職務に対する自覚と責任感、そして人間としての道義に基づいて動いているのです。私は「日本」という国の底力を見たような気がしました。
数日が経ち、ようやく盧山館長と電話がつながり、無事の報告をすることができました。館長は開口一番「岡崎、とりあえず無事でよかった。ところでお前がこっちに避難してくるという話があるが、まさか道場生を置いて逃げてくるんじゃないだろうな。」ときたのです。私は賺さず「自分は今、避難してきた人たちを面倒見る立場にありますので、逃げるのは最後です。全員の避難を確認してから、日誌を書いて、出勤札をかえし、学校の戸締まりをしてから逃げますのでだいじょうぶです。殿(しんがり)の覚悟はできています。もし逃げたときには総本部の近くに行くつもりですのでその節はよろしくお願いします。」といいました。館長は「それを聞いて安心した。極真空手を学んだものが放射能なんかに負けるんじゃないぞ。」と励ましてくれました。
武道というものは、「胆を練る」ことが目的であると勝海舟が言いました。今その真価が問われるときであると館長は言いたかったのかも知れません。私自身たいしたことはできませんが、昨年の事故に続いて再び拾った命ですので、自分の行動の定義を明確にして頑張ろうと思います。地震の次の日から避難所に詰めていますが、わずかな時間でも砂袋と居合は自分の使命として続けています。
館長は、電話の終わりにこうおっしゃってくれました。
「岡崎、埼玉に来たらまた一緒に稽古ができるじゃないか。待っているから、そっちをしっかりやれよ。」
実は一番腹が据わっているのは館長なのだとおもいます。ありがとうございました。押忍

《戻る

其の五十ニ
17歳
 「だあれもいない海〜ふたりの愛を確かめたくってぇ〜 」とは、私が小学生の頃流行った南沙織さんの「17歳」の歌の出だしの部分です。今時の人は森高千里さんの方が知っているかもしれませんが、私たちの世代は南沙織、シンシアなのです。今はもうあんなアイドルいないよなあ・・・
 さて、先日私の道場の優太君が稽古の後17歳の誕生日だったことが発覚し、濁声の黒帯の先輩たちが「ハッピパースデーツーユー」と歌ってあげました。彼は、組手も型も居合も杖も何でも頑張っており、それぞれに成果を上げてきている期待の選手です。近頃「型をやっていると組手が強くなれない」とか「組手が苦手だから型をやっている」とか、何を考えているかわからない議論を相変わらずしている人がいますが、盧山道場育ちの自分としては、組手も型も武器も分離して考える思考回路がないのでわからないことなのです。
 稽古の内容というものは、食べ物と同じで、好きなものばかり食べていたり、サプリメントに頼っていたりというのでは本当の強い体は作れないと思っているだけなのですが、いかがでしょうか。どれもこれも一生懸命やっているとそれぞれ得ることがあるわけで、それは自得するしかないのだと思うのです。よくウエイトトレーニングについても、「重いものをあげたって強くなるわけではない」と簡単に言ってのける人がいますが、「重いものをあげてから言ってみろ」と言ってあげたいですね。その価値というものは、やった人間しかわからないのですから・・・ この件につい書き出すと長くなるのでこの辺にしておきますが、詰まる所「好み」の問題だけだと思うのです。自分は盧山館長の空手が好きでやっているだけで、そのためにいろいろやっている、ただそれだけなのです。流行りとか余所はどうでもよいわけで、他人や組織に強制するつもりもないのですが、せめて自分の支部や道場にはその精神は伝えたいとは思っています。もともと福島県支部は、盧山館長の空手がやりたくてついてきた連中が作った支部なので、原点を大切にしているだけなのです。
 前置きが長くなってしまいましたが、本題の「17歳」に入りましょう。私が盧山館長に初めて指導していただいたのは高校一年の最後の春、4月生まれの私は間もなく17歳になろうとしている頃でした。当時生意気そうに見えた私は、いきなり金的を蹴られたり、竹刀で滅多打ちにされたり、数年後の内弟子稽古の予習のような思いをさせていただきました。私はそのときすでに1級になっていて、もうすぐ黒帯がもらえるというやる気と自惚れが雰囲気にあふれていたのでしょう。私は、盧山館長の「こいつ締めたろ」という思惑は理解せず、「まずは基本、そして型」という空手の「作り方」に目から鱗が落ちる思いで感動したのです。とにかく腰を落とすということ、腰を入れるということ、全身で動くということ、無駄な動きをしないということ、そして威力ということを毎回の稽古でたたき込まれました。とにかく足腰がつらい、三戦の型がつらい、補強がつらい、そして組手という稽古が続きました。私はこの先生に認められるまで絶対に負けてたまるかという気持ちだけで道場に通いました。「組手さえやっていれば」「組手さえ強ければ」という単純な考えは消し飛ばされ、「握り三年、立ち方三年」という忍耐のみが要求された稽古が続いたのでした。私は、この時期に自分の一生の空手道に対する考え方の基本が身についたのだと思います。もちろん誤解の無いように添えますが、組手は死ぬほどやらされました。当時はスパーリングという感覚がなかったので、毎回真剣勝負と言った感じでした。でも一番きつかったのは館長のミットトレーニングですね。皆さん知らないでしょうが、館長にミットを持ってもらうと体に電気が走ったようにシャキッとして体が動くんです。顔面をバンバン叩かれながら館長に向かっていったのを覚えています。しかしここで凄いことがひとつあるのです。これは今までどこにも書いたことがないのですが、実はこの当時の盧山館長の指導で、沢井先生や中村先生のことは一言も出てきていないのです。あくまで極真会館、大山倍達の教えとして徹底していました。内容的には沢井先生、中村先生の指導内容は十分に取り入れられていましたが、一切その名前は出てきませんでした。今思えば、盧山館長の組織と個人のけじめというものがそこなのだと、改めて感心した次第なのです。後に埼玉県支部盧山道場を発足してからは、沢井先生や中村先生は当たり前のように登場し、内弟子には太気拳や砂袋は必修のものとなりました。この、盧山館長の組織の中での指導者としての責任と個人としての武道家の姿勢というものが、現在の私の支部長として、館長の弟子としての考え方、行動の基本になっています。
 さて、17歳に戻ります。17歳というのは4月生まれの私にとっては基本的に高校2年生を指しています。高校に入って2年目ですから、いろいろと慣れてきて、高校の友達ともそれなれに空手とは違った付き合いができたりしたものです。高校3年ともなると大学受験が目の前に迫ってきますから、一生を左右するような決断をしなければならない不安に駆られるようになるでしょう。しかしまだまだそれは先のことと言う気楽さが17歳にはあるのです。同級生たちはそれなりに高校生活を謳歌していました。彼女ができたりしてそれはそれでウキウキしている友達もいました。私には基本的にそのようなご縁もなかったので、男子校の応援団と柔道部の男所帯に所属し、しかも下宿は野郎どものたまり場状態でしたからとてもそんな隙はなかったですね。おまけに、女の子の手を握るときには一生食わせてやる位の覚悟が必要などと時代錯誤もいいところの感覚でしたから今時の出会いはありませんでした。結局は今の奥さんが手を握った第一号ですからお気の毒としか言いようがないですね。
 話がそれてばかりいますが、私は『覚悟』という言葉をよく遣います。「迷いを去り、道理を悟ること」という意味で辞書には載っていますが、私の中では、「二心を持たず、変心せず、腹をくくって事に当たる決意」と考えています。私が盧山館長の弟子になったのも、今の奥さんの手を握ったのも、私なりの「覚悟」だと思っています。かの日露戦争の秋山好古も「単純明快に生きる」と言っていたそうですが、私も同感であります。
 私は、17歳という時間にこの「覚悟」という考え方が少しずつ固まっていったと記憶しています。ですから「時間」というものをものすごく大切にしたことを覚えています。やりたいことがたくさんありすぎて、1日が24時間しかないことを天に恨んだものでした。親に逆らうだとか、友達とケンカするだとか、そんなことよりも自分の可能性をぶつけるものを試行錯誤していたのです。もちろん人の何倍も遊びました。寝る時間がとにかく惜しかった。ですからこの頃に観た「ロッキー」の映画にはとことん感動しました。映画館で3回連続で観たりもしました。スタローンが冬の線路脇の道路で金貸しのオヤジに罵られて、1人トボトボと歩いているシーンが心に染みつきました。今でもそのシーンは応えます。結構この映画から「覚悟」というものを教わったかも知れません。えらそうなことを書いていますが、美大に進もうか、映画作りをしようか、プロレスラ−になろうかといろいろと考えがあちこちに散乱する落ち着きのない高校生だったと思います。ただその中で空手にだけは正直に打ち込んで来たつもりです。私は、盧山館長と出会ってから、3度続けて審査を落とされました。そして17歳の最後の春にようやく初段をいただくことができたのです。おそらく盧山館長は、私に空手の基本だけではなく「心の基本」を教えてくれたのだと思います。しかし館長は「それはお前の誤解だよ。ワシはお前を嫌いなだけだったんだよ。」といつも笑っておっしゃっていますが・・・
その後の私の人生は必ずしも思い通りにいったわけではないかも知れませんが、それなりに良い人生を歩けているかなあと思っています。最近では、「覚悟」の他に「感謝」という言葉がついてきます。私の「覚悟」に付き合ってくれた皆さんに心より「感謝」しています。
 ところで、あの南沙織も篠山紀信と結婚するときには「覚悟」をしたんだろうか・・・・・

《戻る

其の五十一
「龍馬伝」完遂!
 今年のNHK大河ドラマは久しぶりに全回見ることができました。私が日曜日の午後8時に自宅にいることは非常に少ないので、録画や再放送の場合もありました。しかし、数々の妨害行為に屈することなく家族の協力と徹底した「わがまま精神」のおかげで完遂することができたのです。皆さん本当にありがとうございました。
自分以外にだれも興味がないものを徹底して続けるということは至難の業です。そこに座っているだけで話しかけられる。用を言いつけられる。笑点の時もそうです。落語を聞いている人間に話しかけるということは、これからうまいビールを飲もうとしているときにジョッキの中にママレモンをぶち込まれるようなものです。しかし、関係ない人にとってはそんなことはどうでもいいことなのです。近藤長次郎が切腹をして、龍馬が長次郎の写真と向き合いながら酒を飲んでいるシーンで、私は涙をこぼしながら猫のトイレの掃除をしていたのです。もっとも私はいつもその時間しかといっていいくらい家にいないのですから、家族にあてにされるのはしかたがないのですが…。
さて、今回の「龍馬伝」については、今時のドラマ仕立てになってはいましたが、役者と龍馬を中心とする出来事がうまく組み立てられていてとても面白かったと思います。実際の幕末はたくさんの人々がいろいろな形で動いており、大政奉還でさえ本当は○○○がやったという人物が何人いるかわかりません。幕末の動乱とは1人の人間を中心にどうにかなるほど簡単な時代ではなかったということです。そんな中で坂本龍馬がこのように脚光を浴びるのは、伝えられる彼の人物像にとてつもない魅力があったからなのでしょう。「官において官にあらず、野において野にあらず」とは私のこころがけの一つですが、龍馬もそのような形にはまらない思考力を持っていたものと思うのです。日本を貿易国家として世界に躍り出ようとしたその発想は当時革新的なものであり、かの呂宋助佐衛門を超えるものだったでしょう。司馬さんの「竜馬がゆく」を読んで感動した若者はたくさんいると思います。私もその一人で、今の職業に就いたきっかけにもなったのですから。
内弟子のころたまたま電車で読む本がなくて買った本が「竜馬がゆく」でした。二度目に読んだのは、アメリカにいるときに無償に読みたくなってニューヨークの紀伊国屋で買いました。三度目は、授業で「竜馬がゆく」というタイトルで学習したときに隅から隅まで確認しながら読んだものです。今は四度目ですが、その都度得るものが違いますね。龍馬を取り巻く女性は結構たくさんいて、おりょうファンにはすみませんが、私は千葉さなさんが好きでした。娘にも同じ名前をつけたくらいですから。かってな言い分ですが、龍馬はさなさんと結婚していればもっと長生きできたのではないかと思っています。私は女房子供を大事にしながら大仕事をやった勝海舟のような人物を尊敬しているのでそう思うのかも知れません。実際のところはわかりませんが、龍馬の人生に登場する女性たちは皆芯の通った素晴らしい人ばかりだったようです。そのような女性に囲まれているのでドラマでは岩崎弥太郎に毒づかれていたのでしょう。
龍馬について私見をひとつ述べてみたいと思います。彼の良さは、ものの考え方が常に多角的であり、柔軟性を帯びていたということです。さらに機をとらえた行動力が薩長を結び付け、大政奉還を実現させたのだと思います。頭のいい奴は世の中には腐るほどいます。行動力においても龍馬に勝るものは数多くいたことでしょう。私は龍馬のもっとも優れていたところは機をとらえた決断力、行動力にあると思っています。わかりやすく言えば「タイムリーな奴」とでもいいましょうか。空手でいうところの「機に発し、感に敏なること」を体現しているといってもいいでしょう。この好機をとらえるということは、単に仕事が早ければよいというものではありません。どのタイミングで動けば最も効果が上がるかということを理解する能力が必要であるということです。これは才能とかセンスといえるもので、凡人には少ない能力と言えるでしょう。周りが攘夷に沸き立っている時期には、それに振り回されずじっと情勢を見極め、幕臣の勝海舟に弟子入りし、長州征伐の直前には薩長を結び付けました。また、大政奉還においてはタイミングを逃さず後藤象二郎を動かし慶喜に決断させました。それらは早くとも遅くとも成功しなかったかもしれません。そのタイミングを的確に察知し、疾風怒濤のように行動する能力が龍馬の他と違った優れた点だと思うのです。さらに彼の人柄に多くの人が身分を問わず惹き付けられ、彼のために働こうとする求心力も持っていました。
では、龍馬のその能力はどのようにして身についていったのでしょうか。私は龍馬研究の学者ではありませんから勝手なことを言います。勝海舟曰く「剣術」によるものと、一般に言われる武士と商人を掛け持していた坂本家の遺伝子であるというものと、その他いろいろな要因はあると思いますが、どれもが関係しあってあのような人物が作られていったのではないでしょうか。勝海舟は、直心影流を学び、幕臣としての激務の中でも毎朝剣術の稽古を欠かさなかったといわれています。それは護身のためではなく、「胆を練るため」と言っていたそうです。この言葉は単純に胆力を練るということだけではなく、気と気の駆け引きの中で一瞬の機をとらえ迷いなく技を発する能力を鍛えたのでしょう。それは政治の場面でも大いに役立ったものと思われます。龍馬の学んだ北辰一刀流も「夫れ剣は瞬速、心気力の一致」といわれ、形にとらわれず攻撃の機を逃さぬ判断力と技の速さが要求されました。それは剣の動きだけではなく、それを操作する人間の心の機も含めたものであったと思います。龍馬は若い時に江戸留学をし、北辰一刀流から単に目先の勝負だけではなく、歴史を動かす大きな機をとらえる能力を習得したのではないでしょうか。さらに、「育ち」の中で、常にいろいろな角度で物事を考える柔軟な幅の広い思考力が育ったものと思われます。好機をとらえるためには、全体を大きく見て、それぞれの前後左右の関係を掌握できる思考回路を持っていることが必要です。これは学んでどうにでもなるものではなく、育つ環境や遺伝子によるところが多いでしょう。
なにはともあれ、龍馬をとおして多くのことを学ぶことができると思います。学ぶ観点は人によってそれぞれですが、私自身本を読むたびに得るものが違っています。私が今回の龍馬から学んだことは「タイムリーな奴」ということでしょうか。「今度とお化けは出たことがない」ともいわれます。仕事も人づきあいも、稽古も機を逸することなく頑張りましょう。
   さてさて、この文章もタイムリーだったでしょうか?

《戻る

其の五十
九死に一生
 10月18日の水曜日、朝の5時50分のことでした。娘を5時55分発の水郡線に乗せるために石川駅まで車で向かう途中でした。この日は、いつものように5時に起床し、いつものように山を歩いて補強をやっていったん家に戻り、娘を乗せて駅に向かったのです。いつもは赤で停まる交差点が青だったので、「ラッキー」と小市民的な喜びとともに交差点に入りました。その時、右方向から大きなトラックが、ノンストップで飛び込んできました。ギョッとした私は、とっさにブレーキを踏みましたが、小雨の道路は無情にもスリップし、そのままトラックの横っ腹につっこみました。私の車は前方が大破し、そのまま車は約10メートルほど左方向に吹っ飛んでしまいました。
ボンネットがメキメキとめくれ上がる様やトラックの横腹が目に焼き付いています。瞬間的に側頭部をぶつけたようで、頭がしびれて思考が停止してしまいました。トラックの運転手が「大丈夫ですか」ときましたが、「そっち赤だったよな」とひとつだけ確認しました。後の座席の娘の状態が先ず心配でした。同じく頭を打ったようでしたが、とりあえず命は無事そうで安心しました。次に娘の学校や仕事のことで考えることが精一杯になりましたが、妻と警察と上司にまず電話をし、胴体や足の動きを確認してからゆっくりと車を降りて外から自分の車を見たときには愕然としました。「俺はもしかしたら死んでいたかも知れない・・・。」昔、『天国から来たチャンピオン』という映画がありましたが、そのシーンが頭をよぎりました。その後警察や、妻や上司が駆けつけ、巷でよく見かける事故処理の様子が展開されるのでした。
先日谷啓さんが亡くなりました。「ガチョ〜ン」がもう見れないと思うと寂しくなります。転んで頭を打ったと言うことですが、人が死ぬということは、実はあっけないものなのかも知れません。「死ぬ」ということを自覚して、最後に自分の意志を発揮して死ねる場合もありますが、自分が死んだことも気がつかない場合も多いことでしょう。また、ここで死ぬわけには行かないという無念の死もあると思います。私も空手の親しい友人を2人交通事故で亡くしています。どちらも盧山道場の苦しい稽古に耐えた兄弟分であっただけに、本当に辛く悲しいできごとでした。2人とも無念の死であったと思います。
「死ぬ」という作業は人間にとって最も重要な仕事であると思います。「生きる」ということも大変なことですが、「死ぬ」ということは一度しかできませんし、それによってすべて無くなってしまうのですから失敗は許されません。「とりあえずいったん死んでみて」とか「死んで相手の驚く顔や困った顔を見てみたい」などということは絶対にできないことなのです。幕末のお話で、高杉晋作のところにある浪士がやってきて、仲間に加えてほしいというのですが、高杉は長州人以外はだめだと言って断ったのです。するとその浪士は「自分は度胸がないと言うのか」と憤慨して「では度胸のあるところを見せてやる」といってそのまま土間で腹を切って死んでしまったというのです。ばかげたような本当の話だそうです。確かに度胸を見せることは出来ましたが、死んでしまったらそのあとがないではありませんか。これは極端な例かもしれませんが、今時の若者たちの間で増えている衝動的な自殺についても同様に考えられるかもしれません。
人の生き死について、私は偉そうなことは何一つ言えませんが、先日の事故によっていろいろと考える機会ができました。梶原一騎は「男と生まれたら、たとえドブの中で死んでも前のめりに死にたいものだ」と何かの本に書いていましたが、当時小学生だった私はただかっこいい言葉として心に留めたものです。坂本竜馬も小説の中で「牛裂きの刑に逢うて死するも、逆磔に合うも、また席上にて楽しく死するも、その死に於いては異なることなし。されば英大なることを思い起こすべし」と言っています。しかし彼は明治という新しい時代を見ずに暗殺によって命を落としています。戊辰戦争で勝者となった西郷隆盛は西南戦争で自害し、独裁的に日本の国家基礎を築いた大久保利通も紀尾井坂で刺客によって殺されています。その後の明治の大黒柱となった伊藤博文はハルビン駅で安重根によって暗殺されてしまいました。高杉晋作や木戸孝允は病によって志半ばでこの世を去りました。時代を築いた英雄たちは、皆望まぬ死を遂げているのに対し、幕末敗者となった徳川慶喜や勝海舟は長寿を全うしました。山岡鉄舟は、臨終に際して床から身を起こし結跏趺坐のまま絶命したと言われています。その他歴史に名を残したものだけではなく、戦争や災害などであっという間にたくさんの命が失われています。人はいつか必ず死ぬものです。これだけは決して避けることはできません。そして誰もがそれを望んではいないはずです。
司馬さんの何かの小説の中に、「天は人それぞれに使命を与えてこの世に生を与え、それが終われば容赦なく天に召し上げる」というようなことを書いていました。私は今回の事故で命拾いをしたと思っています。天がまだ私にこの世でなすべき仕事をさせてくれるのだと素直に感謝しました。そう思ったら体のあちこちが痛いの何のと言っていられません。できることをしなければと思いました。私は、事故の次の日も山を歩いて砂袋を叩きました。「あと何回この山を歩くことができるのだろうか。あと何回この砂袋を叩けるのだろうか。」そう考えると1分1秒を無駄にできないと思いました。次の日にはウエイトのジムにも行きました。さすがに首や腰が痛くていつもの重量はできませんでしたが、何とかメニューをこなしました。そのまた次の日は錬成大会でしたので、埼玉に行き盧山館長、廣重副館長に事故の報告をしました。館長からは「拾った命をまた一から鍛え直せ」とおっしゃっていただき、副館長からは「普通だったら死んでしまう事故で無事だったんだからお前は運がいいんだよ。」とおっしゃっていただきました。どちらも自分にとって心に残ることばでした。帰り道、私は単純に生きていることに感謝しようと思い、一から鍛え直そうと心に決めるつもりだったのですが、後頭部から肩にかけて激痛がよみがえり、運転が辛くなって上河内サービスエリアで車を止めてうずくまる始末でした。「生きていることはよいのだが、この痛みは余計だよ!」
事故から5日目の夜、私はまたジムに行きました。いつまでも事故を言い訳にしたくないと思い、気を奮い立たせてバーベルに向かいました。まずはベンチプレスで60kgを10回、100kgを8回、130kgを1回いつも通りに挙げたとき、コーチがこれがうまいんだなあ。
いつもは140kgを3回やるのですが、「いっきに150kgいきましょう」となったのです。私はいわれるまま150kgを1回挙げると、「今日はぶれがない。イイッすね。次いきましょう。」となり、155kgを1回挙げました。「今日はいけそうですね。」というコーチの言葉にわたしは迷いなく「いきますか。」といってプレートを160kgにセットしました。そして呼吸を整えてエイヤッ!とバーベルを握りました。するとなんとしたことかスーッと挙がってしまったのです。私はコーチと目を合わせ「あがりましたよね」と思わず尋ねました。「あがった。あがった。」とコーチと一緒に拍手をしました。10月18日月曜日、午後8時のことでした。しかしそんなときにかぎってジムにはコーチと私しかいませんでした。私は、今度はギャラリーのいるときにまた挙げようと不純な目標を持ったのでした。
 160kgという重さは、もっと挙げる人から見ればたいした重量ではないかも知れませんが、私にとっては7年越しの壁だったのです。私のウエイトトレーニングは、かじる程度のころはさておき、きちんと行うようになったのは内弟子5年目の時でした。最後の1年ということで、定期的にバーベルで鍛えようと思ったのです。ただし内弟子が行っていた中村先生の指導されるバーベル鍛錬は別物ですのでここでは触れません。ベンチプレスに限って言えば、この1年間で100kgを2回挙げられるようになりました。その後福島に帰ってから地元のジムに通い、更に2年後に120kgまで挙がるようになりました。その後パワーリフティングに出るようになって県大会で入賞するようにもなりましたが、なかなかベンチが伸びずに悩みました。理由は簡単で、腕を骨折したり、酷使しすぎるのでオーバーワークになっているだけなのですが、空手や居合が本業なのでこちらの手を抜くわけにはいかなかったのです。それでも10年ほど前に150kgを突破し、郡山市で優勝したこともありましたが、155kgで記録がピッタリと止まってしまったのです。肩鎖関節の亜脱臼が原因で右肩がまったくダメな時期が続いたのでした。それでもトレーニングは続けましたが、30kgのバーベルからやり直したものです。その後7年前から今のジムに通うようになり、週1〜2回ですが何とか仕事を切り上げてトレーニングを続けました。予定通りに進まず調子がよくなったり悪くなったりの繰り返しでした。45歳までに160kgを突破しようと目標を立てましたが、達成できずに誕生日を迎えてしまいました。今度は四十九の厄払いまでと頑張りましたがあと一歩で挙がりませんでした。私はコーチに50歳までには挙げないともう挙がらなくなってしまうのではないかと相談し、今年の夏からレップスの組み立てを替えることにしました。そうしたところ少しずつ挙がるようになってきました。140kgを3回、145kgを3回とじわじわ挙がり始めました。10月中に160kgを達成しようと目標を定めました(11月以降は大会やら飲み会やらで練習が不規則になって調子が落ちるので)。10月に入ってからは何度か160kgに挑戦しましたがすべて失敗しました。「絶対に挙がるはずだ。気持ちで負けている。」とコーチに叱咤されましたが、7年間挙がらなかったものはそう簡単にいきませんでした。そこで今度の事故です。やっぱりだめかと思いましたが、生きていることに感謝するという気持ちが力を与えてくれたのでしょうか。大げさな言い方をすると、バーベルが挙がるときに自分が挙げていると言うよりもだれかが引き上げてくれているような気さえしたのですから。とにかく私にとって厚い壁をひとつ打ち破ることができたのです。
 今回は、まさに「九死に一生」というできごとでした。しかし、「生きていることに素直に感謝をする。」ということを実感するよい機会になったと思っています。ぐだぐだと愚痴をこぼしたり、他人を避難して悦に至るようなくすんだ生き方をするのではなく、ただもう「歩ける」「空手ができる」「家族と過ごせる」それだけで幸せと思って頑張ろうと思いました。しかし、1つ壁を越えるとまた次があるもので、さっそくコーチは「今度は150kgを3回やりましょう。」と言ってきました。せっかく拾った命ですから、もうひと頑張りしてみようと思いました。
 結局のところ、皆さん交通事故だけは気をつけましょう。加害者にも被害者にもならないようにしましょう。笑点の松崎真さんの「手をあげて、横断歩道を渡りましょう」を思い出せ!

《戻る