其の四十九
仮面ライダーになりたかった少年
 私がこの春転勤になり、娘も高校に進学し、生活のリズムが未だ軌道に乗らずに時間だけが過ぎてしまっています。
今年の春は例年より寒い日が多く、石川町の桜もなかなか咲きそびれている状態です。娘はこの春私の母校に入学し、前述の私の高校時代と同じような生活がスタートしています。もちろん空手は続けてくれていますが、受験が終了したその日から稽古に復帰してサンドバッグを叩いている姿には娘ながら感服してしまいました。どこまで頑張るか見守るだけです。
息子は小学校2年生になり、いろいろと能書きを言う様になりました。お調子者は私譲りですが、学校が楽しくてしょうがない様で、親としてはそれだけで満足ですね。
さて私ですが、昨年は実は大変に悩んでおりました。仕事の忙しさと無理な稽古、そして年齢による体の衰えが重なって、夏ぐらいから体中が痛くてしょうがない毎日が続いたのです。さらに将来の人生設計について見通しが立たなくなり、「俺はいったい何をやっているんだろう」と真剣に行き詰まってしまったのです。別に人間関係で困ったものがある訳でもなく、仕事で失敗したわけでもありません。まして家族はありがたいほどに私の支えとなってくれています。ではなぜ行き詰まってしまったのでしょうか。それは自分自身の中の問題なのです。「果たして自分は今の環境で、このまま稽古を続けていていわゆる『達人』の域に到達できるのだろうか・・・」「自分は『師範』という肩書きに相応しい実力を維持できるのだろうか・・・」そう思ったら後はもう「焦り」しかありません。仕事の面でもそうです。「空手との両立のために結局は冷や飯を食う結末になってしまうのではないか・・・」と思う様になってしまいました。これまでは、自分の稽古や仕事には絶対の誇りと自信を持っていましたが、それが全て過去のものとして何の価値もない遺物のように思えてしまったのです。とりあえず稽古は「お勤め」と思っていますので、どんな精神状態でも痛む体に鞭打って続けました。仕事についても精一杯に取り組んだつもりです。
私は考えに考えて、何か答えを見つけなければならないと思いました。昔読んだ「宮本武蔵」も読み返しました。残念ながら今の私にとって小説の武蔵は若すぎました。今まではいろいろな本や史実の中に解決の糸口があったのですが、今回は何も見つけることができませんでした。私は5年後の自分や10年後の自分に自信がなくなってしまいました。根が短気な私は早く答えを見つけようと焦りました。そして、昨年の大晦日の夜。恒例の除夜の鐘を聞きながらの砂袋千本突きを行ったときに、ふと閃いたのです。「年が明けたら稽古量を一気に増やしてみよう。そして仕事と体がそれについて行けるか試してみよう。あと2年頑張ってみてダメだったら空手か仕事のどちらかをやめよう。限られた人生どちらか1つでもものにしよう。」と思いました。無理やり自分自身を納得させて、私は稽古に励みました。体中の痛みは変わりませんが、とにかく時間を見つけて稽古したのです。しかし体の切れは少しも良くなりません。あれもやらなければ、これもやらなければと思えば思うほど土壺にはまってしまいました。マレーシアの大会での演武も最悪の状態でした。そんな頃娘が高校に合格し、励まされました。「子どもがこんなに頑張っているんだから、オヤジもっとしっかりしなくっちゃ」と思ったら少し気分が変わりました。そしてその後転勤になり、バタバタとしながらも気持ちだけは「前に、前に」と頑張りました。
そんなある日、たまたま家族と見ていたテレビで佐藤良二という人物が紹介されていました。佐藤良二さんは、旧国鉄バスの職員で、「太平洋と日本海を桜で結ぶ」という夢を実現しようと、名古屋から金沢市までを結ぶ名金急行線の路線沿いに桜を植え続けた方です。家財をなげうって桜を植え続け、ついには不治の病にかかりながらも最後まであきらめずに桜を植え続けたのです。約2000本の桜を自らの手で植えてこの世を去ったのですが、今でもその志を継ぐ方々が桜の植樹を続け、佐藤さんの「太平洋と日本海を桜で結ぶ」と言う夢は現実のものとなっています。この話は何度か映画にもなっていますので、知っている方も多いでしょう。佐藤さんについては、実際のところ美談ばかりだけではなく、非難される話もたくさんありますが、私は、このテレビ番組のわずか数分の佐藤さんの紹介を見て、こぼれる涙が止まりませんでした。この人がどんな人物であるとか、まわりの評価がどうであったとか関係なく、「桜を植える」ただそれだけに命をかけたその事実に私は心を打たれたのでした。「自分はいったい何を悩んでいたのだろう」とこれまでのウダウダした考えがふっ飛んでしまいました。「これでいいのだ」のバカボンのパパが囁いたような気がしました。
私は小学校の高学年の頃、実は『仮面ライダー』に憧れていました。ただテレビのヒーローのファンということではなく、「俺は大人になったら仮面ライダーになりたい」と本気で思ったのです。おやっさんの店のカウンターでコーヒーを飲んでみたいとか、いつかショッカーの基地を見つけて改造してもらおうとかとんでもないことを考えていました。自分の自転車を改造してサイクロン号にしたものの近所の駄菓子屋まで乗って行くのが恥ずかしかったこともありました。今どきの子どもはもっと現実的で、将来は介護士になりたいなどと立派なことを言ったりします。昔は私の周りにはそんな子供は一人もいませんでしたね(実は私のまわり以外は別だったりして・・・)。私はあのライダーキックがやりたくて、土手から何度も飛び降りて練習しました。柔道一直線の地獄車も本当に布団を使って練習しましたが、さすがに石段ではできなくて「俺はまだまだだ」と車先生を尊敬したものです。
ある日小学校の近くの自転車屋さんで、須賀川市で開催される仮面ライダーショーのタダ券をもらい、私は友達数人と興奮して観に行きました。私は「本物が来る」と信じ込み、あのライダーキックが生で見られると思うと楽しみで夜も眠れませんでした。今思えばショッカーの方々と一緒に地方巡業なんて本物だったらあり得ないことなのですが、そこに気づかないのが子ども(私だけ?)なんですね。私は、ドキドキして見ていましたが、仮面ライダーの体の固さとキックのスピードのなさになんか「今日は調子悪いのかな」とちょっとかばいながらも首をかしげたりしました。ショーが終わってからサイン会があり私は色紙を持って真っ先に並びました。仮面ライダーはショッカーの怪人と戦った後にもかかわらずいたいけな私たちのためにサインをしてくれたのです。サラサラと書いたサインに私は愕然としました。マジックで「仮面ライダー」とそのまま書いたのです。当然と言えば当然なのですが、私の中で思考回路が停止し、ガラガラと何かが崩れていくのを感じました。さらにヘルメットのうなじから普通の髪の毛が出ているのを見た瞬間に「お疲れ様でした」と言ってその場を去ってしまいました。
あれから40年近く経ちました。石川町は桜がとてもきれいで、最近は雑誌などにも紹介されています。私がライダーキックを練習した土手は、今では桜並木に変わっています。5年後も10年後も、この桜はきれいに咲くでしょう。おそらく私がこの世にいなくなったとしても、この桜はずっと咲き続けることでしょう。この土手でライダーキックを練習した子どものことなどだれも知らずに、春になればきれいな桜が咲くのでしょう。
「これでいいのだ」とバカボンのパパの囁きが聞こえる様な気がします。

《戻る

其の四十八
短気は損気、急がば回れ
 実は私は短気です。時々「穏やかな人柄」だとか「怒った顔を見たことがない」ように言う方がいますが、それは大きな間違いで、本当はえらい短気な人間なのです。おかげでたくさんの失敗をしてきました。この短気な性格を何とかコントロールできるように矯正してくれたのが盧山館長と私の奥さんなのですね。奥さんのことは照れくさいので置いときます。前にも書きましたが、私が内弟子の頃、盧山道場で青少年の更正指導を始めて何人かを面倒見た頃に、私が盧山師範に「何人もの悪ガキをここで更正させましたね」と言ったら「お前が第1号だよ」と切り返されてしまいました。う〜ん、やっぱりばれていたか。
 「短気は損気」とは所謂ことわざのひとつで、「急いては事を仕損じる」「急がば回れ」などと同義のもので、気が短い者への戒めの言葉なのだと思います。昨年末にNHKで「坂の上の雲」が放映されたときに、秋山兄弟の父八十九(やそく)がドラマの中で息子に教訓のように教えた言葉です。実際のところは別として、この言葉は私の頭に焼き付きました。奥さんにも「その通りだよ」と横からひと言もらいました。「坂の上の雲」は、司馬遼太郎さんの小説のドラマ化ですが、その小説の他に「明治という国家」も原作としてはいっていました。実は、この本がおそらく今までに読んだ本の中でもっとも好きな本だと思っています。この本は、何となく興味があって出版されると同時に買っていたのですが、そのうち読もうと本棚に眠っていました。ただ第一章の「ブロードウェイの行進」というタイトルがなぜか気になっていたのでした。
 今から15年前、私はアメリカに2ヶ月間研修に行く事になり、出産間近の妻を残して太平洋を渡ったのでした。その研修は、「英語ができないこと」と「日本人のいない町」ということが条件だそうで、何と危険な研修なんだと思い、家庭の事もあってなんとか断れないかと上司に相談したのですが、「もう決まっていることだし、ことは進んでいる。他に何か?」というようなやりとりで、英文の書類にサインさせられたような気がします。日本中から20数名の研修生が集められてアメリカに送られ、簡単に連絡できないようなバラバラの町に配置され、向こうでの生活が始まったのです。渡米にあたり、活字中毒者の私は、向こうで読む本をどれにするか悩んだものでした。二ヶ月分となると結構な期間ですので、荷物の量も限られていましたからあれもこれもと迷いました。ふと幕末にアメリカに渡った訪米使節のことを思い出したときに、例の「ブロードウェイの行進」が脳裏をよぎったのです。幕末、日米修好通商条約の批准のための使節が太平洋を渡り、サンフランシスコからさらにニューヨークに移動し、そこで歓迎のパレードがブロードウェイで行われたのでした。この光景をアメリカの詩人ホイットマンが見ており、遠いアジアからやってきた「礼儀正しい使節」について詩を書いた事から「明治という国家」は始まっています。私は、迷わずその本を持って行きました。一気に読むと行きの飛行機で読み終わってしまうので、少しずつ噛みしめるように読んだものです。
私は、何かの本で「明治という時代は世界史の奇跡である」と書かれていたのを覚えています。確かに、帝国主義の時代に世界史の中から取り残されたアジアの小国「ニッポン」が、「勤勉」と「礼節」だけを誇りとしてわずかな期間に欧米列強と互角に争える国に成長し、ついにはロシアという大国と真向から戦い、独立を守った訳ですからまさに「奇跡」といえるかも知れません。私は戦争という手段は絶対に否定しますが、国力の成長という点で明治時代には驚嘆するものがあったと思います。昭和の高度成長も「奇跡」といえますが、おそらくそれ以上のことでしょう。「明治という国家」は、そのような国家としての「奇跡」を起こす原動力となった人々の姿を描いた本なのでした。私は、海を渡るときにこの本を読み、短い期間ではあるけれども「日本人」としての誇りと自信を持ってアメリカで生活する決意をしたものです。とか言ってもろくな英語も話せない私は、どこに行っても失敗だらけで「コノ野郎!」と思っても自分が頭にきた事が伝えられないのでケンカもできない毎日でした。郵便局やクリーニング屋、ボウリング場やレストランなどいろいろなところで問題を起こしましたが、ここから先は書けません。まさに短気の固まりでした。
私はバージニア州のリッチモンドに下宿しました。下宿のオヤジは私より体が大きく、昔軍隊の空手チャンピオンだったらしく、ある日血の気の多い私を庭に連れ出し、「そんなにケンカしたいなら俺が相手してやる」ということになりました。「よっしゃ臨むところだ」と庭に出た図体のデカイ2人が激突する瞬間、下宿のオヤジ(セオドアさん)が突然、拳銃を突きつけたのです。私は固まってしまいました。オヤジに「アメリカでケンカするときにはここまで覚悟しろよ」と言うような事を言われました。私は「短気な自分」を押さえられなかった自分が恥ずかしくなってしまいました。オヤジはその拳銃を足下に置き、「ではもう一度やるか」と言いました。私はさっきの反省はどこへやら、「こんどこそ」と飛びかかろうとしたら、オヤジはベルトのバックルから隠し拳銃を出してもう1度突きつけてきました。イジワル〜。
オヤジはそんな私を飲みに連れて行ったり、地元の空手道場の指導をさせてくれたり、YMCAのジムの送り迎えをしてくれたりと、本当によくしてくれました。別れの日には自分の好きなジャズのテープを「日本でこれを聴いてくれ」と2本くれました。私はオヤジと抱き合い2人とも涙をこぼして別れました。今でもそのテープは大切に聴いています。
その後、バージニア大学を訪れたときにある日本人留学生と出会い意気投合し、パーティーで一緒に飲んだときに記念に日本から持って行った「明治という国家」の本をあげてきました。「同志社大学を設立した新島襄のように頑張れよ」などと言ったような気がします。あの本読んでくれたかなあ。
世の中小さなことでカッカとなって粋がっている人間がたくさんいますが、明治の国を作り上げた人たちの活力や忍耐力を考えたら何と小さなことでしょう。「短気は損気、急がば回れ」とは実にうまい言葉ですね。ちなみにアメリカでは「短気はあの世」なんですね。

《戻る

其の四十七
硬軟自在
 「硬軟自在」とは、中国福建のパンガヰヌーン(半硬軟)拳法を学んだ上地完文が創始した沖縄の上地流の極意を表すことばです。「堅いも軟らかいも自在である」と言うことで、技術的には勿論、ものの考え方や精神論、仕事や人生にまで通じる意味の深いことばだと思います。
 このことばは技術的な解説としてはわかりやすいと思いますが、「剛柔」ということばも類似として上げられると思います。わかりやすいと言いながら、この辺について書き出すとくどくてややこしくなるので、今回はものの考え方としての「硬軟自在」について述べてみたいと思います。
 世の中にはいろいろな人がいるもので、頭の固い人軟らかい人、心の狭い人広い人など千差万別です。集団とか組織とか言うものは、そのような違いのある人々が複数で同じ空間や枠組みの中にいるわけですから、もめ事やケンカ、いじめが起こるのは当然のことなのです。同じ性格の者ばかりが集まればうまくいくかというとそうでもなく、その集団の中でまた役割の違いが出てきて自然ともめ事が出てくるのです。また必ずもめ事を起こす基になる人がいるものです。人間誰もが好き嫌いがありますから、嫌いな人についてはどうしようもないことだと思います。考え方が嫌い、見た目が嫌い、行動や所作が嫌い、生理的に嫌いなど嫌いな理由は何かしらあるものです。おそらく私のことが嫌いだという人間もそれはそれはたくさんいることでしょう。私は仕事柄「嫌われてなんぼ」というところがあるので結構気にならないのですが、辛い人はいたたまれなくなってしまうと思います。
 私は、相手はまず「自分とは違う」ということで付き合うことにしています。違いには、性格であったり、資質であったり、目標であったり、抱えている責任であったり、単なる好みであったり、これまでの人生経験であったりといろいろなものがあります。同輩だけでなく、上司も部下も同じです。そして自分の基準で話をしない様に心がけているのです。おそらく私が自分の基準だけで人と接していたら、ケンカばかりでたちまち孤立してしまうかも知れません。ただ、生徒や弟子に「指導」ということで仕込むときには絶対的に私の基準で注入することがありますが、その際は問答無用です・・・う〜ん説得力に欠ける。
 私はおおざっぱな性格で、何でも安請け合いをして、忘れっぽく、細かな変更は気になりません。ですから同じような部下ばかりでは、組織は空中分解してしまいます。細かくて融通のきかないタイプや気配りの良いタイプ、けんかっ早いタイプやとても石橋を叩いても渡らないタイプなど私のまわりにはそんな人がたくさんいます。私が何か一つ言うと何倍にも攻撃されることがありますが、「うんうん」と聞くようにしています。別に私の人物が優れているわけではなく、以前書いた「俯瞰」という見方をすると、腹も立たずに聞けるわけです。要はその人がいい仕事をしてくれればよいので、私とのやりとりは特に私見ははさまないようにしています。相手によっては強く出るときもありますし、言いたいように言わせるときもあります。最終的に自分の思うような方向に流れれば良いので、枝葉の部分でケンカすることは必要のないことなのです。昔、ある支部長が支部長会議でもめたときに「腹を立てずに蔵立てる」と言ったことがあり、いや名言かなと心に留めたものでした。
盧山館長が常々「清濁あわせ飲む」というひと言で私たちの小さなゴタゴタを言い切ってしまいますが、大陸を流れる大河のような太っ腹になりなさいと言うことなのです。ただ時として大河が荒れたときには大惨事となるのですが・・・
今回は奥歯に物の挟まったような煮え切らない文になってしまいましたが、冒頭に上地流が出てきたのでおまけの話を一つ。昔盧山道場で内弟子をしていた頃、当時の盧山師範が前蹴りは「親指で蹴るんだ」ということになりまして、「上地流の足尖蹴りを見習え」ということから砂袋も前蹴りは親指で蹴るようになりました。はじめは痛いのなんのって稽古の後に靴を履くと親指の処に別物がはいっているような違和感があり、爪も変形してたいへんでした。カーテンを蹴って穴を開けるようにとも言われ、馬鹿正直に毎日蹴ったものです。おかげで川越道場の砂袋もすり減って穴が開き、道場のカーテンにも穴を開けてしまいました。組手の稽古では、前蹴り一発で相手を倒せるようになり、「岡崎は前蹴りが得意」といわれるようになりました。相手の肘の下のわずかな隙間を狙って肋骨の弱いところにやや斜めに差し込む蹴りがよく決まり、相手の肋骨を何本も折らせていただいたものです。盧山師範からは、「相手の受けた腕ごと折ってしまえ」「肘で受けられたら肘ごと折ってしまえ」と言われ、自分は本気でそれを目指したものです。はじめの頃は皆珍しがって親指を鍛えていましたが、そんな稽古をしているのは何時しか自分だけになっていました。
第14回全日本に出場した私は、盧山師範の教えを実現するべく前蹴りを全力で蹴り続けました。肘だろうが膝だろうがガンガン蹴りました。1回戦を勝って2回戦に進み、相手が結構しぶとくて延長にはいるときでした。左足が踏ん張れなくて「あれっ」と足下を見たら何と「親指がない!」。私は焦りましたが、「はじめ!」の合図で戦うしかありません。結局親指が陥没してしまうというできごとだったのですが、調子に乗った結果です。得意の蹴りが止まったものですから相手は勢いを増してガンガン攻めてきました。そんなときは不思議と冷静になるもので、慌てるどころか相手がよく見えました。茶帯の頃手足を縛られて組手をさせられたことが役に立ったのでしょうか。とにかく相手がよく見えました。結局狙った中段突き一発で一本勝ちをしたのですが、左足の感覚はありませんでした。すぐに慶応病院に運ばれて、「いったいなにやったの?」と医者に聞かれても説明できませんでした。なんとかめり込んだ親指を引っ張り出して固定してもらいました・・・この骨折話はまたいろいろあるのでここまでにしますが、いやはやえらい目に遭いました。
親指鍛錬をほどほどにした人たちは元気に稽古をしていたのですが、私はギブスで松葉杖でした。悔しくて意地でも稽古を休まず指導にも行きました。膝から下を石膏で固めた足で道場をガタガタ動き回り、はた迷惑な指導員だったと思います。その後も親指は2度骨折しました。まるで馬鹿ですね。
 「硬軟自在」とは私に対する戒めのことばのような気がします。

《戻る

其の四十六
落語の話 〜追悼 三遊亭円楽師匠
  最近またお笑いブームで、若手の芸人さんがテレビや各イベントで大活躍しています。彼らは若手と言っても実際の芸歴は結構長く、生計が立つほどの収入のある人はほんの一握りと言われています。昔(今も)のプロボクシングも日本ランキングくらいでは生活できずに仕事を持っていたと聞いていますので、どこの世界も大変だと思います。
 私は昔からお笑いは大好きで、子どもの頃から「笑点」「花王名人劇場」「お笑いオンステージ」など欠かしたことはありません。牧伸二やゼンジー北京、ケーシー高峰など正座をしてみるくらい大好きでした。レッツゴー3匹やてんぷくトリオなんて今の人たちはわからないだろうなあ。ただ私のちょっとませていたところは、ただおもしろいだけではなく、どうしてこんなおもしろい話ができるのかを考えてしまうところなのです。そうなるとやはり落語の世界にはいってしまうのです。
私は、落語は武道の世界では「居合」に相当するものであると思っています。要するに落語は話芸の極致なのです。座布団1枚に座る。道具は扇子と手ぬぐい一本だけであとは話すだけ。お客さんがその話を聞いて、笑い、泣くのです。お客さんは、たった1人の落語家を見ながらも、いつしか長屋の場面が見えてきたり、魚屋やそば屋が見えてきたり、熊さんや八つぁんだけでなく何人もの人が見えてきたりするのです。「おあとがよろしいようで」と一礼をした瞬間に、スターツアーズが終わった瞬間とだぶった感覚に襲われるのは私だけでしょうか。私は内弟子時代、道場の移動や大学に通うときには、ほとんど電車を利用していました。よく本も読んでいましたが、当時流行ったソニーのウォークマンで落語のテープをよく聴いていたものです。東武東上線ときわ台駅の近くの中央図書館に落語の貸しテープをはじから借りまくりました。電車の中で聞いていると突然吹き出して周囲の人を驚かしたり、内弟子の寮で消灯して寝ているとき「ウヒヒヒ」と笑い出してまわりの内弟子を気味悪がらせたりしました。私は、同じ話を違う咄家がやると全然おもしろさが違うところに関心がありました、まさに話芸とは言ったものです。微妙な緩急や強弱、客のつかみ方が違うのです。やはり名人の話はテープで聞いても引き込まれてしまうし、何度聞いても、次に何を話すか分かっていても笑ってしまうのです。盧山館長が「大山道場時代の安田先生の前蹴りは、来ると分かっていてもよけられないんだなあ。」「『前蹴りで行くぞ』と前もって言われてももらってしまうんだよ」とよくおっしゃっていますが、名人の落語はまさにそれなのです。居合も同じもので、座った姿勢からゆっくりと抜く刀が技量によって全く違うのです。見た目バタバタと元気よく抜く居合もありますが、「すらり」とどこにも引っ掛かりのない居合は何よりも「速」く、こちらが何もできない状態になってしまいます。居合は日本武道の精華であるという人がいます。私はまさにその通りであるとおもいます。現在の私は子どもたちに自分の話を聞かせる仕事をしていますので、この頃の落語好きが大変役に立っています。チョーク一本で行う授業は今時よくないと言われていますが、チョーク一本と黒板だけで、桶狭間の戦いの臨場感を出したり、東海道中膝栗毛の楽しさを味わわせたりする技の持ち主が少なくなってきたからかも知れません。この仕事は名人の落語家の足下にも及びませんが、同じ話を違う相手にあわせてひと工夫するなど共通の技術が必要なところがありこれはこれでやり甲斐があって面白いものです。
落語から居合まで話がとんでしまいましたが、先日三遊亭円楽師匠が亡くなったことからしみじみと考えたことを書きました。私は円楽師匠の「藪入り」を聴いて泣いたことがあります。当時はまだ笑点のレギュラーでしたが、司会者は三波伸介さんでしたね。円楽師匠が亡くなり、また1人名人がいなくなりました。いろいろな追悼番組で若い頃の苦労話が語られましたが、どの世界も同じだなあと思いました。金がない、そして未来への不安、しかし溢れるほどの夢と情熱を持ち続け、下積みの芸人は名人となっていくのです。今の時代、下積みに耐えられない若者が増えています。「叩き上げ」は死語なのでしょうか。武道家にも「叩き上げ」が少なくなってきたような気がします。「ナンチャッテ師範」「ナンチャッテ高段者」が溢れています。絶対的な修行の世界だけがよいのではありませんが、「芸を極める」にはそれしかないと思うのです。
私のささやかな楽しみは、息子と2人で「笑点」を観ることです。息子はたい平さんが大好きで、ゲラゲラ笑って私に付き合ってくれています。ただ、日曜の5時半に私が自宅にいることは滅多にないんですけどね。

《戻る

其の四十五
私の高校時代
 最近大会の会場で真樹日佐夫先生と会うことが多くなりました。何を隠そう真樹先生は盧山館長と出会う前の私の師匠なのです。真樹先生は30年も前の私のことを忘れておらず「岡崎ィ久しぶゥりだなァ」と声をかけてくれます。そうすると高校時代の恥ずかしい自分がよみがえるような気がするのです。この辺の話は山ほどあって、これだけで本が書けるような内容なのでこの項では特に触れないようにしましょう。
 前の項にも書きましたが、実はこの「拳のこころ」には高校時代の私はあまり登場しないのですが、それには理由があって、仕事上書けないことが多すぎたり、内容があまりにも膨大でそれこそ本が書けるようなものだったりするので、意図的に書かないようにしているのです。最近元気でやんちゃな高校生を主人公にした映画が人気となっていますが、私の場合「実話」としてあんなものではないような生活でした。
 最近高校の同窓会があって、私の代(93期)が幹事ということで、30年ぶりに連絡がまわり、いろいろと役がついたので手伝わないわけにはいかず、当日だけ出席してきました。私は応援団だったので、人前に立つ目立つ立場でしたからか皆が覚えていてくれました。たちまち30年の空白は消え去り、その頃の仲間に戻ることができました。私はどうしても酒を飲まずに途中で帰らなければならない事情があったので、最後に例の事件(磐越東線事件)の三人で語り合っていたのを中座して「また近いうちに」と郡山を後にしたのでした。・・・・

 それでも少しだけ高校時代のことを書いてみようと思います。私の高校は、県でもトップを争う進学校です。「『偏差値の高い普通科高校』だから『進学校』ではない」というのが売りで、ただのガリ勉学校ではなく、県内でもっとも古い歴史を持つ伝統のバンカラ男子校でした。ちなみに先日のNHKのドラマ「坂の上の雲」の真之や子規が通う学校のシーンで使われた校舎が私の高校です。私は中学時代からこの学校の進学を目指し、なんとか合格することができました。中学時代は剣道と空手に明け暮れていましたが、最後に追い込みをかけて滑り込んだ訳なのです。高校にははいったものの、その先の目標はこれといってなく、最初は高校に慣れるので精一杯でした。1学年450人のうち同じ中学からの入学生はたった4人だけですから、知らない人間ばかりの中にはいって自分の存在感を自覚できない毎日が過ぎていったものです。「自分ことは自分でやれ」という校風ですので授業の進み方も速く、「どうしたの?」などと声をかけてくれるような甘さがないのです。私は、毎朝5時半の始発で通学しました。自宅から駅まで3キロありましたが、そこまでは自転車です。郡山駅からはバスに乗って高校まで行きますが、トータルで2時間の通学時間でした。朝は7時半に高校につきます。高校の図書館は朝7時から開放してあり、8時半の始業まで図書館で勉強です。通学時間も勉強しますから、朝だけで結構な時間を勉強にあてることができました。放課後は部活動です。入学式の時、先輩に引っ張られて社会科研究会というところに名前を書かされました。そこには1度も行かずにしらばっくれましたが、同じクラスの友達に旅行研究会に誘われてこれもはいってしまいました。旅行研究会とは、毎月小遣いやバイトでお金を積み立てて、年に1回旅行をするという何とものんきな会でした。結局ここも1度も参加しませんでした。自分は、実は部活動については悩みがあって、それは「剣道」をどうするかでした。私の高校は剣道の強い学校で、インターハイを狙える学校なのです。自分は中学時代の剣道では結構活躍し、地区では負けなしで県の国体強化選手に選ばれていましたから、高校の剣道部顧問が見逃すわけはありませんでした。放課後無理やり武道場に連れて行かれ剣道部で稽古をやらされたりもしました。ところが剣道部の連中に勝ってしまうものですから顧問の勧誘はますますしつこくなりました。結局3年生の春まで誘われ続け、強引に剣道部で稽古をさせられることが続きました。「まだ間に合う」とその度に言われましたが、私は最後まで固辞しました。ただ、剣道は小学校の5年生から結構本格的にやってきましたので、これはこれで好きでしたからやめるのは辛かったです。なんとか両立を考えましたが、インターハイを目指すほどの剣道部でしたので、空手との両立は時間的に無理でした。
 実は私がこの高校に進学した一番の理由は、「空手をおもいっきりやる」ことでした。中学時代は、地元に道場がなかったので、日曜に郡山道場に行ったり、夏休みに東京に行ったりと不便な環境でした。進学校に入学したのは、誰にも文句を言わせず空手をやるためでした。ただ、実際に入学してみると高校生活での夢も希望もでてきましたし、いろいろとやりたいこともありました。しかし、第一の目的がそれでしたので、放課後はまっすぐに道場に向かう毎日でした。道場は週に4日だったと思います。その他は開成山の公園を走り、体育館のトレーニング室で自主トレです。道場のある日は帰りが郡山駅8時半の最終(ウッ田舎)でした。稽古は8時半まででしたので、ちょうど組手をやる時間に「お先に失礼します」と帰るのが非常に悲しかったものでした。家に着くのが10時過ぎです。それから風呂に入って食事をして後は寝るだけです。そしてまた朝5時前に起床し自転車をこいで薄暗い道を駅に向かうのでした。やはりこのスケジュールでは剣道は無理でした。でも時間的に可能であれば私は剣道もやっていたかも知れません。
道場のある日はいつも一番乗りでした。学校から道場まで6キロありました。駅までバスで行って立ち食いソバを食べ、あの東北書店にちょっと寄ってから道場に行き、まず阿武隈川沿いを走って一汗かいて、道場の鍵を開けてサンドバッグを独占で叩いていました。ウイニングの牛革のヘビーバッグでしたが、私は卒業までにのど元の位置に穴を開けることを密かに目標にしたものです。目一杯の生活でしたが、とても充実していました。不思議なもので、そんな自分にも友達はたくさんでき、そのうちの何人もが道場に入門してきました。当時の道場には大人が多く、大人たちとのつきあいも自分にとっては学ぶことが多かったと思います。ただ、親戚などは「やれ大学」だ「やれ○○だ」と早々に高い目標を押しつけ、「人がせっかく思いっきり空手をやっているのにほっといてくれ」という状態でした。
1年生ももう少しで終わりという頃、母親が洗濯機の前で倒れました。過労なのですが、私の毎日に付き合って寝て起きていたことが原因です。「自分でやるからいい」と言っても母は母で意地があったのでしょう。私は即決し、「郡山に下宿する」ということになったのです。下宿は担任に相談し、自分で探しました。こうして春を待って郡山に下宿をするという生活が始まりました。そしてちょうどその頃盧山館長が福島に通いの師範として毎月指導に来ることになったのです。
 ここまでが私の高校1年の話です。いろいろ肝心なことは書いておりませんが、高校生活とはたった3年間の短い時間しかありません。私は常に1分1秒がもったいなかったのです。「1日は誰にでも同じ24時間という時間がある。それをどう使うかが本人の問題なのだ。」という考え方ができあがったのはちょうどこの頃だったと思います。高校の中の楽しみもあります。下宿先での楽しみもあります。地元でも幼なじみたちとの楽しみもあります。そして空手を通して盧山師範と出会い、世界がさらに広がったのです。欲張りな私はどれも捨てられなかったのでしょう。毎日、クタクタになるまで何かをしていました。ただ盧山師範との出会いが一番強烈だったことは間違いありません。「俺はこの人に認められるまで頑張ろう」と素直に思いました。そのために必要なことは何でもやろう。我慢することは何でも我慢しようと思いました。その後のことについて今回は書きません。ただ、時間はどんどん流れていきます。「後で」や「この次」はないのです。私は、どんなに親しい友人とも目的意識が違うとはっきりと割り切った気持ちを持っていました。それは、友人には共有する時間や楽しみはありますが、彼には「空手に打ち込む時間」はないのです。相手に対して失礼なわけではなく、この絶対的な違いはどうしようもないのです。それは友人を大切にするという気持ちとは全く別に存在する「覚悟」なのだと思うのです。自分は盧山師範との師弟関係をひとつの「覚悟」と思っています。高校生でそんなことを考えているなんて変な奴だったかも知れませんが、幸いそれを理解してくれる友人に恵まれたのかも知れません。私はそのまま30年以上も生きてしまいました。同窓会で何度も「おまえちっとも変わっていない」と言われましたが、そのころの「覚悟」が未だに変わっていないと同級生たちは察したのかも知れません。
 続きは後の機会に書くかも知れませんが、私の高校時代は人生の「珠玉」であったと思っています。

《戻る