其の四十五
私の高校時代
最近大会の会場で真樹日佐夫先生と会うことが多くなりました。何を隠そう真樹先生は盧山館長と出会う前の私の師匠なのです。真樹先生は30年も前の私のことを忘れておらず「岡崎ィ久しぶゥりだなァ」と声をかけてくれます。そうすると高校時代の恥ずかしい自分がよみがえるような気がするのです。この辺の話は山ほどあって、これだけで本が書けるような内容なのでこの項では特に触れないようにしましょう。
前の項にも書きましたが、実はこの「拳のこころ」には高校時代の私はあまり登場しないのですが、それには理由があって、仕事上書けないことが多すぎたり、内容があまりにも膨大でそれこそ本が書けるようなものだったりするので、意図的に書かないようにしているのです。最近元気でやんちゃな高校生を主人公にした映画が人気となっていますが、私の場合「実話」としてあんなものではないような生活でした。
最近高校の同窓会があって、私の代(93期)が幹事ということで、30年ぶりに連絡がまわり、いろいろと役がついたので手伝わないわけにはいかず、当日だけ出席してきました。私は応援団だったので、人前に立つ目立つ立場でしたからか皆が覚えていてくれました。たちまち30年の空白は消え去り、その頃の仲間に戻ることができました。私はどうしても酒を飲まずに途中で帰らなければならない事情があったので、最後に例の事件(磐越東線事件)の三人で語り合っていたのを中座して「また近いうちに」と郡山を後にしたのでした。・・・・
それでも少しだけ高校時代のことを書いてみようと思います。私の高校は、県でもトップを争う進学校です。「『偏差値の高い普通科高校』だから『進学校』ではない」というのが売りで、ただのガリ勉学校ではなく、県内でもっとも古い歴史を持つ伝統のバンカラ男子校でした。ちなみに先日のNHKのドラマ「坂の上の雲」の真之や子規が通う学校のシーンで使われた校舎が私の高校です。私は中学時代からこの学校の進学を目指し、なんとか合格することができました。中学時代は剣道と空手に明け暮れていましたが、最後に追い込みをかけて滑り込んだ訳なのです。高校にははいったものの、その先の目標はこれといってなく、最初は高校に慣れるので精一杯でした。1学年450人のうち同じ中学からの入学生はたった4人だけですから、知らない人間ばかりの中にはいって自分の存在感を自覚できない毎日が過ぎていったものです。「自分ことは自分でやれ」という校風ですので授業の進み方も速く、「どうしたの?」などと声をかけてくれるような甘さがないのです。私は、毎朝5時半の始発で通学しました。自宅から駅まで3キロありましたが、そこまでは自転車です。郡山駅からはバスに乗って高校まで行きますが、トータルで2時間の通学時間でした。朝は7時半に高校につきます。高校の図書館は朝7時から開放してあり、8時半の始業まで図書館で勉強です。通学時間も勉強しますから、朝だけで結構な時間を勉強にあてることができました。放課後は部活動です。入学式の時、先輩に引っ張られて社会科研究会というところに名前を書かされました。そこには1度も行かずにしらばっくれましたが、同じクラスの友達に旅行研究会に誘われてこれもはいってしまいました。旅行研究会とは、毎月小遣いやバイトでお金を積み立てて、年に1回旅行をするという何とものんきな会でした。結局ここも1度も参加しませんでした。自分は、実は部活動については悩みがあって、それは「剣道」をどうするかでした。私の高校は剣道の強い学校で、インターハイを狙える学校なのです。自分は中学時代の剣道では結構活躍し、地区では負けなしで県の国体強化選手に選ばれていましたから、高校の剣道部顧問が見逃すわけはありませんでした。放課後無理やり武道場に連れて行かれ剣道部で稽古をやらされたりもしました。ところが剣道部の連中に勝ってしまうものですから顧問の勧誘はますますしつこくなりました。結局3年生の春まで誘われ続け、強引に剣道部で稽古をさせられることが続きました。「まだ間に合う」とその度に言われましたが、私は最後まで固辞しました。ただ、剣道は小学校の5年生から結構本格的にやってきましたので、これはこれで好きでしたからやめるのは辛かったです。なんとか両立を考えましたが、インターハイを目指すほどの剣道部でしたので、空手との両立は時間的に無理でした。
実は私がこの高校に進学した一番の理由は、「空手をおもいっきりやる」ことでした。中学時代は、地元に道場がなかったので、日曜に郡山道場に行ったり、夏休みに東京に行ったりと不便な環境でした。進学校に入学したのは、誰にも文句を言わせず空手をやるためでした。ただ、実際に入学してみると高校生活での夢も希望もでてきましたし、いろいろとやりたいこともありました。しかし、第一の目的がそれでしたので、放課後はまっすぐに道場に向かう毎日でした。道場は週に4日だったと思います。その他は開成山の公園を走り、体育館のトレーニング室で自主トレです。道場のある日は帰りが郡山駅8時半の最終(ウッ田舎)でした。稽古は8時半まででしたので、ちょうど組手をやる時間に「お先に失礼します」と帰るのが非常に悲しかったものでした。家に着くのが10時過ぎです。それから風呂に入って食事をして後は寝るだけです。そしてまた朝5時前に起床し自転車をこいで薄暗い道を駅に向かうのでした。やはりこのスケジュールでは剣道は無理でした。でも時間的に可能であれば私は剣道もやっていたかも知れません。
道場のある日はいつも一番乗りでした。学校から道場まで6キロありました。駅までバスで行って立ち食いソバを食べ、あの東北書店にちょっと寄ってから道場に行き、まず阿武隈川沿いを走って一汗かいて、道場の鍵を開けてサンドバッグを独占で叩いていました。ウイニングの牛革のヘビーバッグでしたが、私は卒業までにのど元の位置に穴を開けることを密かに目標にしたものです。目一杯の生活でしたが、とても充実していました。不思議なもので、そんな自分にも友達はたくさんでき、そのうちの何人もが道場に入門してきました。当時の道場には大人が多く、大人たちとのつきあいも自分にとっては学ぶことが多かったと思います。ただ、親戚などは「やれ大学」だ「やれ○○だ」と早々に高い目標を押しつけ、「人がせっかく思いっきり空手をやっているのにほっといてくれ」という状態でした。
1年生ももう少しで終わりという頃、母親が洗濯機の前で倒れました。過労なのですが、私の毎日に付き合って寝て起きていたことが原因です。「自分でやるからいい」と言っても母は母で意地があったのでしょう。私は即決し、「郡山に下宿する」ということになったのです。下宿は担任に相談し、自分で探しました。こうして春を待って郡山に下宿をするという生活が始まりました。そしてちょうどその頃盧山館長が福島に通いの師範として毎月指導に来ることになったのです。
ここまでが私の高校1年の話です。いろいろ肝心なことは書いておりませんが、高校生活とはたった3年間の短い時間しかありません。私は常に1分1秒がもったいなかったのです。「1日は誰にでも同じ24時間という時間がある。それをどう使うかが本人の問題なのだ。」という考え方ができあがったのはちょうどこの頃だったと思います。高校の中の楽しみもあります。下宿先での楽しみもあります。地元でも幼なじみたちとの楽しみもあります。そして空手を通して盧山師範と出会い、世界がさらに広がったのです。欲張りな私はどれも捨てられなかったのでしょう。毎日、クタクタになるまで何かをしていました。ただ盧山師範との出会いが一番強烈だったことは間違いありません。「俺はこの人に認められるまで頑張ろう」と素直に思いました。そのために必要なことは何でもやろう。我慢することは何でも我慢しようと思いました。その後のことについて今回は書きません。ただ、時間はどんどん流れていきます。「後で」や「この次」はないのです。私は、どんなに親しい友人とも目的意識が違うとはっきりと割り切った気持ちを持っていました。それは、友人には共有する時間や楽しみはありますが、彼には「空手に打ち込む時間」はないのです。相手に対して失礼なわけではなく、この絶対的な違いはどうしようもないのです。それは友人を大切にするという気持ちとは全く別に存在する「覚悟」なのだと思うのです。自分は盧山師範との師弟関係をひとつの「覚悟」と思っています。高校生でそんなことを考えているなんて変な奴だったかも知れませんが、幸いそれを理解してくれる友人に恵まれたのかも知れません。私はそのまま30年以上も生きてしまいました。同窓会で何度も「おまえちっとも変わっていない」と言われましたが、そのころの「覚悟」が未だに変わっていないと同級生たちは察したのかも知れません。
続きは後の機会に書くかも知れませんが、私の高校時代は人生の「珠玉」であったと思っています。
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